母が「千の風にのって」を聞いて、同年輩の友達と「救われる唄だねぇ」と、共感したという。なぜかと言えば、お墓参りもろくすっぽしていないし、仏壇にも手を合わせていないから世間的には少々後ろめたいけれど、本音では、祖先も亡き兄弟姉妹も、伴侶も、毎日心で思い出して話しかけているから、仏壇も墓も埃まみれでもまぁいいじゃない!と思っていたのが、歌詞に「わたしはお墓にはいません」というのがあって、嬉しいというのだ。
母に言わせれば、仏壇や墓のことで、今生きている者が疲れたり体調不良になったりすることを、祖先も家族も望んでいないはずと。けれど、テレビなどでそういうものをないがしろにしているから不幸になる、病気になる、と脅すことを言うひとが多くて、気分が悪い、この唄は、その後ろめたさを解消してくれたそう。
それを聞いて大笑いしていたのは何年前だったのだろう。そのとき、それなら、100万円もする仏壇を買ったり、納骨堂に毎月多額のお金を払わなければいいのにと思ったが、一応世間のすることは形としてしていることが、母には必要なのだろう。なんせ、永代供養とかで、自動的に毎月お経をあげてもらえるのだから。
311でわたしが驚いたことのひとつに、被災者の方たちが、位牌の行方をとても気になさっていたことがある。どうしても、取りに戻りたい、先祖に顔向けできない、と、そのことが、ものすごいストレスになっているようで、悲痛であった。日本で、そのように、仏壇や位牌、墓という物体に、思いを込めていらっしゃる方は、とても多いのだろうか。
先日のブログで、お釈迦様のことを少し書いた。その方たちに、お釈迦様が仏壇も位牌も墓も、ただの物体だから気にすることはないと告げてくださったら、少しは心が軽くなるだろうか。
そういう物体に思いを込めて大切にすることは、普段は悪いことではないし、お寺がありお坊さんがいて、コミュニティーができることも素敵なことだと思うけれど、この大惨事では、身の危険を冒して守ろうとすることはないと思った。だからこそ、こういうときに、お坊さんが「そういう物がなくなっても大丈夫ですよ。また新しく作って魂入れしますよ」とか、説得してあげてほしいと思った。でも、お釈迦様は、魂も否定なさったのだけれどね。日本の仏教は違うのだから、それなりの説明をして、なんとか、ストレスを減らしてあげてほしい。大々的に「墓や位牌や仏壇をなくしたひとは、何も心配ない」と、広報してほしい。