義母がくるしい最期の闘いを終え、旅立ってからもう1か月と1週間。まだ49日ではないけど、
月をまたがない方がいいとのことで、昨日(28日)をその日とした。
その間、私はけっこう精力的にブログを更新してるな~って、さっき、管理ページを見てて改めて思った。義母と無関係な事がほとんどだけど、この間、毎日彼女に手を合わせ冷たいお水をあげていた。この49日法要までがあちらまでの道のりなのだと聞いていたから。ちゃんとたどり着けるよう、せめて、その道に少しでも光をともしてあげたいなぁっていう思いと、自分の気持ちの救いでもあったから。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
義母は最初の容体が急変して、ICUに入る前に、一般病棟から、24時間オープン体制の病棟にうつされた。
そのときにちょうどお見舞いに行ったら、カラカラの喉で苦しそうに声をぜいぜいさせていた。既に水分を禁止されてから丸一日以上たっていただろう。酸素マスクを大きく揺らしながら私たちを見ていた。確かに何か訴えていたのだ。つらい姿だった。拷問のようだった。
後日聞いたのだが、義母はその次の日、腹水を抜くオペのためICUにうつった。
その時に義弟に言ったことは、「昨夜は自殺したかった。もう、あんなくるしいのなぁ・・・・それでも管につながれて窓はあかず、自殺もできない」と。
それ以降は、、朦朧とした意識で、「スイカ・・・・・富士の水・・・・・」といったのが結局この世での最後の言葉だった。
こんな苦しい思いで亡くならなければならないほど、悪いことなんてしてない人なのに・・・
死は残酷だ。そんな私自身の思いを救いたいという思いで過ごしてきたこの間のような気がする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして、昨日、この法要を迎える朝方、私は彼女を見た。
それは夢だったのか現実かは自分でもわからないけど、私の部屋で、私のベットの前に立ってる義母。
何もいわないけど、遺影と同じ顔。その写真を全身に引き延ばしたような脚もある穏やかな立ち姿でそこにいた。ほほ笑むだけで、いた。
あ~、おかあさんだ・・・・
と感じてる私を実感しながら、あとは覚えてない。はっきりしてるのは、彼女の姿と顔だけ。遺影と同じあの顔。
ぜんぜん、怖いとかそんな気持ちもないまま、法要が始まり、食事のあと、義弟がいろいろ話してくれた。
義母が旅立ったその日のその時間に、近所の奥さんたちが、いつものスーパーで義母を見たという。
それは、違うわよ~、あの方はその日亡くなって・・・・・と事情を知ってる親しいご近所さんが話したら目撃したといってる奥さんたちは愕然としていた・・・・と。それに、誰も入っていないトイレの水が流れたりすると。
ああ、おかあさんなんんだね~それ。っていうと義弟は嬉しそうにしていた。私がベットの横に来た話をしても一層うれしそうだった。
家族や愛する人のこういう話は、怪奇とか怖いとかそんなこととは真逆で、彼女を感じられたことが嬉しく思える。
甘えの末の義弟には、もっと沢山出てきて欲しいともおもう気持ちもあったりするのかもしれない。
私にとっては、そういう話は安らぎだったかなぁ。
ああ、きっと、生きてる間に心に残したところを巡って、ちゃんと魂というのは存在するんだよ、感じればいつでもあるよと伝えたかったのかな、そして、この世に生きていた事の確認をして、彼女は天国へと旅立ったんだと思った。
お寺さんが、お経の後で、いま、あちらの扉をあけて、皆さんにむかってほほ笑んでいるとおもいますよ。と話されたとき、見事に朝方の彼女の姿とかさなった。
義弟は、私のところにもあいさつに寄ったんだねと言ってくれた。
18年間、宇宙人の嫁をいつの間にか家族と思ってくれていたのかな。大事な時にいつでもそっとその存在があった。ありがとう。やすらかに・・・・・そして、また夏になったら遊びに戻ってきてね。
お盆ってそういう日なんだろうと、実感したなぁ。
追記
スーパーは大好きな場所だった。物のない時代に生まれ、いつもたくさんのものが積んであるスーパーが夢の国だったのだろう。スイカやフルーツを探していたのかな。
トイレ・・・これはね、80歳でもカテーテルの尿の管は嫌だというようなとても恥じらいの強い人で、胃を切ったあとだから下痢したり仕方ないことなのに、下の事をされるのもホントに嫌がっていた。気楽に、トイレにいきたかったんだろうね。
私のところにきたのは、オペ前日に大救出劇でおかあさん、かえろ~、オペやめようと、私が泣いて、泣いて、私を泣かせてごめんねといいたかったのかな~、いすれにしても、ほほ笑んでたからいいか。