以前、別の記事でエリナー・ファージョンの詩を一篇ご紹介したことがあったのですが、実をいうとそれを思いだしたのって、点字図書館で「エリナー・ファージョン作品集」を見つけたからなんです♪(^^)
子供の頃、もしわたしの目が見えても見えなかったとしても――まわりの大人がファージョンの童話を聞かせてくれたとしたら、どんなに胸をわくわくと躍らせたことでしょうか。
といっても、日本で「エリナー・ファージョン」の名前を聞いても、結構「誰、それ?」っていう感じかもしれないので、点字図書館で彼女の作品集を見つけた時は、本当に嬉しかったです
子供の心の養分として、ファージョンの童話って大人になってからも忘れられないものがある、というか(そして、大人になってから読むと、さらに別の味わい深さを感じることが出来るのです^^)
ヘレン・ケラーは自伝の中で、自身の読書生活を振り返って、こんなことを書いています。
>>初めてすじのあるお話を読んだのは、七歳の時でした。
そのころ読んだ本は、子供のためのお話集という「初等読本」、それと「わたしたちの世界」という、地球について書いた本でした。
この二つの本は、繰り返し繰り返し読みましたので、文字がすっかりすり減って、しまいにはもうほとんど読めなくなってしまいました。
そのころ、サリバン先生が、いろんなお話や詩を、わたしの手に読みきかせてくださいましたが、読んでもらうよりも、やはり自分で読むほうが、何度も繰り返し読めるので、好きでした。
本気になって読書をはじめたのは、最初にボストンへいった時からです。
パーキンズ学院の図書館にいくと、わたしに読める点字本が、いっぱいあります。わたしは、ほとんど毎日図書館にいって、手あたりしだいに本をとりだし、読みはじめました。
しかし、正しくは「読む」ということではなかったかもしれません。十の言葉の中には、必ずひとつやふたつのわからない言葉がありましたし、中には一ページの中にわかる言葉が二つ、三つというようなこともありました。
そのころのわたしは、本の内容などどうでもよかったのです。言葉というものが面白く、珍しかったのです。ですから、一冊の本を、おしまいまで読みとおすということはなかったようです。たくさんの言葉や文章を、部分的にそのまま覚えこんでしまうのです。
あとで、自分で話をしたり、書いたりするようになってから、このころに覚えた言葉や文章が、そのまま頭に浮かんできましたので、友達はわたしが大変な物知りなのだと、びっくりしたそうです。
まとまった本を、ちゃんと理解して読んだのは、「小公子」が最初でした。
ある日、わたしが図書館で、大人の小説を、例によって意味もよくわからないままに読んでいると、サリバン先生がこられて、
「面白いですか」
とおたずねになりました。
わたしは、わからないところのほうが多かったのですが、その小説の中に、ひとりの子供がでてくるところがあったので、そこを読んでいるのですと、先生に言いました。
すると先生は、
「ひとりの少年のことを、ずうっと書いてある小説を読んであげましょうか。きっと、その本より面白いかもしれないわ」
そう言って読んでくださったのが、「小公子」でした。「小公子」を読みはじめた時のことを、今もはっきり覚えています。八月の、夏もやがて終わりになるころでした。わたしは先生と、その夏ずっと海水浴にいっていたのです。
ふたりは、家から少し離れた、松の木にかけたハンモックに、一緒にのっていました。バッタがときどきとんできて、わたしの読書の邪魔をしました。先生がそれをとってくださる間、お話が中断するのももどかしかったことを覚えています。
お昼から夕方まで、先生はたっぷり読んでくださいました。
「ああ、もう指が疲れてしまったわ。今日はこれくらいにしておきましょう」
先生がそうおっしゃって、読むのをやめられた時、自分で本が読めないのが、つくづく悔しくなりました。
わたしは、先生が閉じられた本を手にして、なんとか自分で読めないだろうかと、ページを何度も指でさわってみました。しかし、点字ではありませんでしたから、ただ、すべすべしているだけでした。
そののち、わたしがあまり「小公子」の話ばかりしていたものですから、アナグノス先生が、この長いお話を、点字にしてくださいました。わたしはそれを、そらで覚えてしまうほど、繰り返し繰り返し読みました。
(「ヘレン=ケラー自伝」、今西祐行さん訳/講談社刊より)
ところで、ファージョンが生きた時代って1881~1965年、ヘレン・ケラーが生きた時代って1880~1968年とほとんど一緒なんですよね(^^;)
といっても、ファージョンは作家としては遅咲きの花といった感があるので、ヘレンが若い頃に彼女の作品に触れるのは難しかったとしても……ヘレンが「小公子」に夢中になったように、もし彼女がファージョンの作品を知っていたら、どれほど夢中になって貪り読んだことだろう思います。
エリナー・ファージョンについては、書きたいことたくさんあるのですが、とりあえず今回は「ムギと王さま」より、「名のない花」というお話をご紹介して、この記事の終わりにしますねm(_ _)m
それではまた~!!
名のない花
ある日、とのさまの土地をたがやしている農夫のむすめクリスティが、かあちゃんのつくっている花畑の先の牧場にいって、花をひとつ、つみました。
これは、ずっとまえのことではありますが、といって、それほど大昔のことでもありません。
というのは、きょう、おこったことでもなく、この世のはじまりにおこったことでもなく、そのあいだのいつかということなのです。
クリスティは、その花をつんで、大喜びしました。とても美しい花だったからです。クリスティは、かあちゃんを見つけにとんできました。すると、かあちゃんは、まるく植えこんだナデシコに水をやっているところでした。
「かあちゃん、あたしが見つけた、きれいな花見て!」と、クリスティはいいました。
クリスティのかあちゃんというひとは、むすめが何かしてくれというと、いそがしくてできないなどと、一度もいったことのないひとでした。そこで、このときも、水いれを下におくと、その花をとって見ました。
「おや、ま、これはきれいな花だ」と、かあちゃんはいいました。
「ね、きれいだろ?その花、なんて名まえ?」と、クリスティはききました。
「そうさね、これは、」と、かあちゃんはいいました。「これはと――あれ、ま、わたしとしたことが、この花の名まえ知らないなんて。とうちゃんにきいてみな」
クリスティは、とうちゃんのところへとんでいきました。とうちゃんは、かきねをなおしているところでした。
クリスティは、じぶんがつんできた花をさしだして、ききました。
「この花、なんて名まえ?」
「まてよ、」と、とうちゃんは、手にした金づちをおいていいました。そして、一、二分、その花をながめてから、頭をかきました。「やれやれ、とうちゃんは、この花の名まえ、忘れたらしいぞ。もっとも、まえに知ってたとすればの話だが。まあ、とうちゃんに、この花、あずけといてくれ。モグラとりのことで、とのさまのご猟場管理人に会いにいく用があるからな。あのひとは、草木のことはくわしいから、知ってるべえ」
とうちゃんは、管理人のところへ話にいったとき、その花を見せて、
「この花の名は、何でがしょう」とききました。
管理人は、花をじっと見て、においをかいで、それから、ちょっと考えました。けれども、考えおえると、いいました。
「おれは、森でも、野原でも、沼地でも、かきねのふちでも、こういう花は見たことがない。名まえは知らん。だが、これからちょうどお屋敷へ出かけるところだ。もっていって、とのさまのご記帳係にきいてみよう。あのひとは若いが、学があって、あまりたくさんの本を読んだがために、めがねをかけておられるくらいだからな」
さて、そのご記帳係は、たいていのことは勉強し、花のこともなかなかくわしい人でした。そして、じっさい、とのさまの図書室には、いままで花について書かれた本なら、どんなのでもあるのでした。そこで、管理人は、その人に会って、いいました。
「ここに花をもってめえりましたが、この花の名を教えていただきとうごぜえます」
すると、ご記帳係は、
「わたしに見せなさい。教えてあげるから」といいました。
けれども、その花を見たとき、ご記帳係は、そんなことをいってしまって、早まったな、と思いました。
「これはおかしい!」と、その人はいいました。「わたしは、世界中の花の名を、学名、俗名ともに知っておるのだが、しかるに、この花の名まえは知らない。ここへおいていくがいい、さがせるかどうかやってみるから」
そこで、管理人は、花をご記帳係のところにおいてきました。ご記帳係は、それを押し花にしてかわかし、一年かかって、何かその花についての手がかりはないかとさがしました。ご記帳係は、その王国のいちばんえらい学者たちにもたずねましたので、このことは、海外にまでひろがって、外国のえらい人たちまで、その花の名まえのことで頭をしぼるということになりました。でも、その人たちにさえ、とうとう、その花の名を見つけることはできませんでした。
そこで、十二か月がたって、管理人がやってくると、ご記帳係はいいました。
「いつかおまえのもってきた花は、名まえがないのだ」
「なんの花でがしたか?」
管理人は、花のことなどすっかり忘れていたので、こうききました。
ご記帳係は、去年のあの花のことを話してやって、いいました。
「世界のえらい学者たちの意見は、ただひとつ。つまり、こういうことだ。アダムは、神さまの創りたもうた花には、みな名まえをつけた。そして、あの花は、エデンの昔から名まえなしできたにちがいないから、おそらく、神は天地を創造なされたとき、この花をつくることをお忘れになったにちがいない。そして、イエス・キリストが、この花のことを思いだされて、お創りになったものであろう。しかし、アダムが、それに名まえをつけなかったがため、この花には、いまも名まえがない。そこで、えらい方がたは、あの花をこの世からなくしてしまわれた。名のない花を、おいておかれるかね?」
「それは、わたしにはわからねえことでして」と、管理人はいいました。「おまえさまのおっしゃることが、もっともなんでござんしょう」
そして、管理人は、つぎの日、農夫に会うと、いいました。
「あのおまえの花な、名まえがなかったと」
「なんの花でがしたね?」と、すぐ、もの忘れする農夫はいいました。
管理人は、去年の花のことを思いださせてやって、えらい方がたが、あれをこの世からなくしてしまわれたと話しました。
「いや、べつにそんをしたわけじゃなし」と、農夫はいって、夕食のときむすめにいいました。
「どうも、おめえのあの花はな、名まえはなかったようだ」
「でも、あたしの花は、どこにいったの?」と、クリスティはききました。
「えらい先生がたが、この世からなくしてしまわれたと」
ふたりの話は、これで終わって、その日から、クリスティのほかに、そんな花があったということをおぼえているものは、ひとりもいなくなりました。
けれども、クリスティは、一生、そして、ずっと年とってからも、ときどき、じぶんひとりでそのことを考えましたし、人にもいいました。
「わたしは、ちいちゃいとき、それはそれはきれいな花を見つけたんですよ」
そして、それは、なんの花だったかときかれると、
「神さまだけが、あなたに教えてくだされるんです。名まえがなかったんですよ」とほほえんで、言いました。
(「本の小べや1~ムギと王さま~」石井桃子さん訳/岩波書店より)
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