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エミリー・ディキンスンとフェルナンド・ペソアは、わたしの心の中の二大詩人、二強詩人と言っていいと思います♪(^^)
今わたしの手元にあるのは、ペソアの「不穏の書・断章」のみですが、彼の他の詩集も図書館から借りてきて読みました。
詩人というものは、自分から言葉を見つけるタイプの詩人と、言葉に見つけてもらえるタイプの詩人とに大別されるそうですが、ディキンスン・ペソアは間違いなく後者に属するタイプの詩人といっていいと思います。
ディキンスンは彼女のいう「目に見えない客」――ミューズが訪れるために、生涯の半ばでいわゆる引きこもりというか、隠遁生活を送ることを選びとりました。
またペソアは人生のある時に「教師」を発見したと彼自身が言っているとおり……それは早い話がディキンスンのいう詩神(ミューズ)と同じ存在だと思うのですよね(^^;)
ディキンスンが批評家のヒギンスンに送った手紙の中で、「救われようとはなさらないで下さい。その代わり、贖いのほうに見つけてもらえるよう、祈っています」と書いているように、わたしたちも神を自分から探し求めるならばそれは苦労の多い旅となるでしょうけれど、恵みによって神のほうから自分を見つけてもらえるなら、信仰生活はむしろ喜びに溢れたものに変わると思います。
まあ、キリスト教の神と詩神(ミューズ)と呼ばれる存在はまったく別のものなので、ここからまたミューズのことに話を戻すと……ペソアはキリスト教の神よりもミューズと呼ばれる存在のほうをより信奉した詩人なのでないかと思うんですよね。
ディキンスンのほうは、キリスト教の神とミューズとの間で精神というか魂が揺れる過程が詩にも描かれていると思うんですけど、ペソアの文章を読んでいるとつくづく「努力しない天才」ということを思わされます(^^;)
天才とは努力しないものだ、というよりは、多くの<天才>と呼ばれる方はおそらく、周囲の目に「努力」と映るものについてまったく苦労や困難を感じないという意味で天才なのである……ということだと思うんですけど――ペソアはそういう種類の勤勉ささえも軽蔑しているタイプの天才というか
以下に、「不穏の書・断章」からの文章を抜粋してこの記事の終わりにしたいと思うんですけど、もしこの文章に共感される方がいらっしゃいましたら、是非ペソアの本を読むことをオススメする次第です♪(^^)
(『不穏の書・断章』、澤田直さん訳編/思潮社より)
すべてを延期すること。明日やってもかまわないようなことをけっして今日やらないこと。
今日でも明日でも、どんなことであれするには及ばない。
これからすることを決して考えるな。それをするな。
人生を生きよ。人生によって生きられるな。
真理にあっても誤謬にあっても、快楽にあっても倦怠にあっても、本当の自分自身であれ。それは夢みることによってしか到達できない。なぜなら現実生活は、世間の生活は、自分自身に属しているどころか、他人のものであるからだ。だから、人生を夢で置き換え、完璧に夢みることにのみ腐心せよ。生まれることから死ぬことに至るまで、現実生活のどんな行為も、本当に行動しているのは自分ではない。動かされているのだ。生きているのではなく、生きられているのだ。
他人の目に、不条理なスフィンクスになれ。音をたてずに扉を閉め、象牙の塔に閉じこもるのだ。そして、この象牙の塔とは自分自身のことだ。
もし誰かがそんなことはすべて嘘で不条理だと言っても、信じるな。しかし、私が言うことも信じるな。なにも信じてはいけないのだから。
すべてを軽蔑せよ。だがこの軽蔑によって窮屈にならないように。軽蔑によって他人に勝るなどと信じるな。軽蔑の高貴な術のすべてはそこにある。
エミリー・ディキンスンとフェルナンド・ペソアは、わたしの心の中の二大詩人、二強詩人と言っていいと思います♪(^^)
今わたしの手元にあるのは、ペソアの「不穏の書・断章」のみですが、彼の他の詩集も図書館から借りてきて読みました。
詩人というものは、自分から言葉を見つけるタイプの詩人と、言葉に見つけてもらえるタイプの詩人とに大別されるそうですが、ディキンスン・ペソアは間違いなく後者に属するタイプの詩人といっていいと思います。
ディキンスンは彼女のいう「目に見えない客」――ミューズが訪れるために、生涯の半ばでいわゆる引きこもりというか、隠遁生活を送ることを選びとりました。
またペソアは人生のある時に「教師」を発見したと彼自身が言っているとおり……それは早い話がディキンスンのいう詩神(ミューズ)と同じ存在だと思うのですよね(^^;)
ディキンスンが批評家のヒギンスンに送った手紙の中で、「救われようとはなさらないで下さい。その代わり、贖いのほうに見つけてもらえるよう、祈っています」と書いているように、わたしたちも神を自分から探し求めるならばそれは苦労の多い旅となるでしょうけれど、恵みによって神のほうから自分を見つけてもらえるなら、信仰生活はむしろ喜びに溢れたものに変わると思います。
まあ、キリスト教の神と詩神(ミューズ)と呼ばれる存在はまったく別のものなので、ここからまたミューズのことに話を戻すと……ペソアはキリスト教の神よりもミューズと呼ばれる存在のほうをより信奉した詩人なのでないかと思うんですよね。
ディキンスンのほうは、キリスト教の神とミューズとの間で精神というか魂が揺れる過程が詩にも描かれていると思うんですけど、ペソアの文章を読んでいるとつくづく「努力しない天才」ということを思わされます(^^;)
天才とは努力しないものだ、というよりは、多くの<天才>と呼ばれる方はおそらく、周囲の目に「努力」と映るものについてまったく苦労や困難を感じないという意味で天才なのである……ということだと思うんですけど――ペソアはそういう種類の勤勉ささえも軽蔑しているタイプの天才というか
以下に、「不穏の書・断章」からの文章を抜粋してこの記事の終わりにしたいと思うんですけど、もしこの文章に共感される方がいらっしゃいましたら、是非ペソアの本を読むことをオススメする次第です♪(^^)
(『不穏の書・断章』、澤田直さん訳編/思潮社より)
すべてを延期すること。明日やってもかまわないようなことをけっして今日やらないこと。
今日でも明日でも、どんなことであれするには及ばない。
これからすることを決して考えるな。それをするな。
人生を生きよ。人生によって生きられるな。
真理にあっても誤謬にあっても、快楽にあっても倦怠にあっても、本当の自分自身であれ。それは夢みることによってしか到達できない。なぜなら現実生活は、世間の生活は、自分自身に属しているどころか、他人のものであるからだ。だから、人生を夢で置き換え、完璧に夢みることにのみ腐心せよ。生まれることから死ぬことに至るまで、現実生活のどんな行為も、本当に行動しているのは自分ではない。動かされているのだ。生きているのではなく、生きられているのだ。
他人の目に、不条理なスフィンクスになれ。音をたてずに扉を閉め、象牙の塔に閉じこもるのだ。そして、この象牙の塔とは自分自身のことだ。
もし誰かがそんなことはすべて嘘で不条理だと言っても、信じるな。しかし、私が言うことも信じるな。なにも信じてはいけないのだから。
すべてを軽蔑せよ。だがこの軽蔑によって窮屈にならないように。軽蔑によって他人に勝るなどと信じるな。軽蔑の高貴な術のすべてはそこにある。
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