天使の図書館ブログ

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太陽と月に抱かれて-2-

2013-07-16 | 創作ノート
【ヘスペリデスの園】フレデリック・レイトン


 では今回は、「ヘスペリデスの園」についてから。。。

 まあ、ギリシャ神話を読んだことある方には、「そんなこと知ってるよん♪」なお話ですけど、わたしの場合絵画が好きになった最初の頃(高校生くらい☆)には、絵のテーマとしてよくわからないことが結構ありました。なので、絵画について論じた文章などで、当たり前のように聖書・ギリシャ神話からの引用があっても、実際にはよくわからずに読み飛ばしていたことが多かったのです。

 なので、ちょっとウィキから手っ取り早くコピペしますね(手抜きですみません☆^^;)


 >>ヘスペリデスは、ギリシア神話に登場するニュムペーたちである。「黄昏の娘たち」という意味。ヘスペリデスは複数形で、単数形はヘスペリス。ヘシオドスの『神統記』では夜の女神・ニュクスが1人で生んだ娘たちとされるが、一般的にはアトラスの娘として知られる。
 ヘスペリデスは世界の西の果てにある「ヘスペリデスの園」に住んでいる。その近くでは、父アトラスが天空を背負って立っている。「ヘスペリデスの園」にはヘラの果樹園があり、ヘスペリデスは果樹園に植えられた黄金のリンゴの木を世話して、明るい声で歌を歌っている。リンゴの木は、ゼウスとヘラの結婚の祝いとしてガイアが贈ったもの。しかし、ゼウスがこのリンゴを採っては恋の贈り物としてばらまいてしまうため、ゼウスの手が届かないように、アトラス山の頂にある果樹園にヘラが移し植えたとされる。


 はい、これでおわかりですね?(笑)

 有名なかのトロイア戦争――その発端であるという、例の<黄金の林檎>は、このヘスペリデスの園にあるものだったと言われています。

 その時トロイアの王子パリスは、世界初の美女コンテスト(?)で、アテナとヴィーナスとヘラの中から、ヴィーナスのことを選びました。何故なら、彼女が自分のことを選んでくれたら、人間の中で一番美しい女性を妻にしてあげようと約束したからなんですよね(ちなみにヘラは富と権力、アテナは戦場における名誉を約束していました)。

 まあその、人間の中で一番美しい女性が例のヘレネーであったことから、それが戦争にまで発展していくわけですけど……そちらの話は本筋からずれますので、とりあえず今回は<ヘスペリデスの園>についてと、黄金の林檎についてまでということにしておきたいと思います。

 次回は「黄金の林檎=何故それがオレンジか?」という疑問についてからの説明ということで、よろしくお願いしますね♪(^^)

 それではまた~!!


 P.S.ちなみにわたし、飛行機関係のことについてはまったく詳しくありませんなので、前文でそこらへんの言い訳事項を書き連ねようと思ってたんですけど、今回はプリマヴェーラの解釈的なことを書くだけで文字数が一杯いっぱいになってしまいました

  

       太陽と月に抱かれて-2-

「このソレイユ航空ってさ、要の父ちゃんが経営してる会社のひとつなんだろ?」

 今から十数年前、時司グループは航空業界に新規参入を果たしていた。当時日本の航空業界は大手三社の寡占状態にあったわけだが、政財界にうまく根回しをし、五十億近くもの資本を投資してソレイユ航空を創設したのである。

「まあ当時はね、今のLCCみたいにローコスト志向だったんだけど……少しずつ業績が上向きになると同時に、空飛ぶ豪華ホテルみたいな贅沢志向の飛行機も飛ばせるようになったらしい。何しろあの人はエコノミーの横連続五席といったせせこましい構造に我慢のならない人だし……最初に航空業界に新規参入した時には、この新事業は絶対失敗に終わる、時司帝国の繁栄もこれまでだって経済界では言われてたらしいんだけど、今じゃ無事赤字から黒字に転じてるんだから、我が父ながらあの人はやっぱり大した経営手腕を持ってるんだろうね」

「おまえってさ、いつも親父さんのことを話す時には人ごとみたいに言うのな」

「だって、実際人ごとだからね」

 そう言って要は、成田空港内にあるファーストクラスラウンジで、窓から外の景色を眺め、眩しい陽の光に目を細めた。時計の時刻は九時二十分。この快晴であれば、定刻の十一時二十分にパリ行きの便は無事出発を果たすことが出来るに違いない。

 まるでオセロのように黒と白の革張りの椅子が上品に配されたラウンジで、翼は要と窓際の席に隣りあって座っていた。そこから自分たちが乗りこむことになる飛行機が駐機する姿を眺め、グランドハンドリングと呼ばれる人々が整備に当たる姿を見るとはなしに見ている。

 実をいうと翼は航空マニアというのではないのだが、小さい頃は医者ではなくパイロットという職業に憧れていたこともあり――飛行機の豆知識的なことについては意外と詳しい。たとえば今、華やかな桜色の塗装が施されたボーイング787型機には、キャビンサービスカーという車が横付けにされている。これは飛行機内を清掃するための人々が乗る車であり、今ごろ機内では清掃に大わらわといったところだったに違いない。何しろ、パリから少し前に到着したばかりの飛行機を、これから約二時間後にはひとつの不備もない状態にしなくてはならないのだ。他にもフードローダーと呼ばれる専用トラックが、つい先ほどシップサイドで機内食の積み込みを完了したばかりでもあり……そうした仕事の一端をこうして垣間見ていると、医師という仕事など、人の命を預かるという点以外ではさして大したことがないようにすら翼は感じていた。

「あの飛行機に描かれた<春の女神>ってさ、要がデザインしたものなんだろ?すげえよなあ。あんなのどうやって塗装するんだろ」

 朝食抜きで車を走らせてきたふたりは、今シャンパンを飲みながらキャビアやサイコロステーキ、フォアグラ、モッツァレラチーズ……そんなものがのった皿を軽くつまんでいるところだった。

「僕も現場に立ち会ったけど、実際職人さんの技術っていうのは大したもんだなって思ったよ。最初彼女は服を着てなかったんだけど、親父が「流石にそれはまずい」って言うから、服を着せることにしたんだ」

「ふう~ん。でもさあ要、おまえはもっと金持ちの親父さんに感謝すべきなんじゃねえの?こんなファーストクラスラウンジで昼間っから高級なシャンパンなんぞ飲みつつ、当たり前みたいにフォアグラなんか食って……その上英字新聞を広げて読んでるなんざ、俺の目から見たら首を締めたくなるくらい嫌味で仕方ないぜ」

「まあ、色々あるんだよ。おまえの言うセレブとやらには、セレブなりの悩みっていうのがさ。なんにしても、親父は僕が兄と違って自分と張り合う道を選ばなかったのを喜んでるみたいだった。で、僕が権威ある美術の賞を獲れるくらい才能があるらしいとわかってからは――ある日十億金を寄こしてね。それで都内の一等地にアトリエを構えろって言われたんだ。何故といって、芸術家っていうのはそういう金のかかった妙ちきりんな家に住むべきだし、それでこそ仕事運が上がって次から次へと絵が売れるなり知名度が上がるなりするだろう……まあ、いかにも成金の考えそうなことだと思うけど、僕があの人に何か父親として感謝してるとしたら、そういう金絡みに関することだけだっていうことだよ」

「だから、その方面のことに関しては湯水のように金使っても、さっぱり良心が痛まないってわけか?けどなあ、要んちの場合は桁が違いすぎるからなあ。まあ、ずっと昔からそういうおまえの恩恵に与ってきた俺が言うのもなんだけど、そのかわりに愛情なんか1ミリグラムたりとも受けた記憶がないって、要はそう言いたいんだろ?」

「1ミリグラムとは言わないけどね」と、要は溜息を着きながら新聞をめくって言った。「確かに五ミリグラムくらいはあの人にも子供に対する愛情はあるだろうと思うよ。なんにしても僕は会社経営といったマネーゲームに興味はないし、うちの家族でそういう種類の犠牲になってるのは兄だってことかな。翼も知ってるとおり、僕と兄の間には半分しか血の繋がりがない。で、十歳以上も年が離れてるわけだけど……兄は先妻の子で、僕は後妻の子なわけだ。そして兄のほうでは自分の母親が女好きの父に泣かされる姿を見て育ち、その母親が死ぬなりすぐ別の女と再婚したもんだから、かなりのところ性格が屈折しちゃったんだね。もっとも、僕にとっては優しいいい兄貴なんだけど、親父に対しては……明日もしあの人が心筋梗塞で突然死したら、十トントラックで遺体を轢いたあと、運転席から唾を吐くんじゃないかっていうくらい憎んでると思う」

「要のそのたとえだと軽く笑えるにしても、でも最終的にはあれだろ?要の親父さんもいずれは引退するだろうし、その跡はお兄ちゃんが引き継ぐっていうかさ、それで丸く収まるような感じなんだろ?」

「どうだかねえ」

 細長いプレートに並ぶキャビアを食べると、フルートグラスを手にとって要は再度溜息を着いている。

「親父のほうではね、自分が一代で築いたといっていい財産をそっくり息子に無条件で明け渡すっていうのが、どうも納得できないことらしい。というより、俺の息子ならおまえも裸一貫からはじめて同じくらいの地位を築いてみろっていうのかな。だから社長の息子という肩書きも何もなく、自分の会社で平からはじめてどのくらい上り詰めるのかを試したっていう経緯があり、もし僕が兄さんの立場なら――その段階のどこかでね、たぶん父さんの仕掛けてきたゲームからは降りて、まったく関係のない地平で生きようとしたと思う。でも兄さんは自分の母親から遺言としてこう言われたんだって。「自分が死んだら父さんはすぐ愛人の誰かと結婚するだろう。でも財産は絶対に渡しちゃいけない。あの人の地位を奪って蹴落とすくらいの人間になれ」って……で、こうして兄さんは亡くなった母の苦労した思いや恨みを晴らすべく、色々四苦八苦してきたのかもしれない。けど、僕が思うにはそれが一番良くなかったんだと思う。親父には確かに、僕に対しても兄さんに対しても大して愛情なんかありゃしないよ。でももし兄さんが亡くなった先妻の妄執をすべて背負ってるっていう感じじゃなかったら、親父もあそこまで兄さんにつらく当たることはなかっただろう。つまり、親父は兄さんのことを息子として疎ましいと思ってるわけじゃなくて、兄さんに取り憑いてる先妻の妄念のほうを見たくもないと思ってるっていうのかな。そういう感情の取り違いがあるんだけど、本人たちはどうもそうしたことにまったく気づいてないらしい」

「要、ほんとにおまえって自分の家族のことを人事みたいに言うよな」

 サイコロステーキをフォークでグサリと刺すと、(まあ俺も人のことは言えないか)と思いつつ、翼は苦笑した。

「だってさ、僕は超個人主義みたいな環境で育ったから、そもそも家族なんていっても、さしたる連帯感を感じた記憶がないんだよ。親父はほとんど家にいないし、兄さんは年が離れすぎ、その存在に気づいた時にはイギリスに留学してたって感じだし……唯一母親の愛情の恩恵だけは受けたけど、あの人も少し変わった感じの人だから」

 要のいう<少し変わっている>というのが、どのくらい変わっているのか、翼は彼の実家の豪邸に遊びにいってよく知っている。要の家には彼の母が気に入っている家政婦がふたりおり、そのふたりのうち一方がいなければ文字どおり「何もできない」という意味において、彼女は間違いなく変わっていた。そのかわり、人間としては可愛らしい人であり、人からもよく好かれ、彼女ならば自分の夫や息子に対し、妻や母として支配権を発揮すべく躍起になったりすることはなかったであろう。つまり、要の兄の母と要の母とではタイプが真逆だったのである。

「おセレブさまはおセレブさまで、金があるかわりの悩みってものがあるものなんだな。一口台に切ったこんな美味しいステーキをただで食べれるかわりにさ」

「ただじゃないよ。さっきカードで僕が支払っただろ」

「いや、おまえの総資産に比較したら、こんな食事はただみたいなもんだろって意味」

 翼と要がそんな会話を交わしつつ、笑いあっていると――近くで人の動く気配がした。ラウンジには人影がまばらであり、個人的スペースを保てるくらいひとつひとつの椅子には適度に距離がある。またそこには、スーツをかっちり着こなしたビジネスマンが数名おり、他はどこか有閑マダムといった風情の中年女性が四名、テーブルを囲んで何か話しているきりだった。

「あのう……もしかして時司要さんでしょうか?」

 ふたりの背後から、そう小声で囁く声がし、翼も要もいつからそこに彼女がいたのだろうと一瞬警戒した。椅子のほうは背が高くゆったりと腰かけられるタイプであるため、後ろの人間の存在に気づくにはかなりのところ身を乗りださねばならない。

「申し訳ありません。わたし、こういう者なのですが……」

 見るからに上等な仕立てのスーツを着たその女性は、年の頃は二十代後半、理知的な顔立ちをしており、肌が透きとおるように白かった。彼女が差しだした名刺には大手出版社のファッション雑誌の名が記されており、その下には『編集記者 一条ひかり』とあった。

「あんたこれ、本当に本名?」

 要が受け取った名刺を、翼が横から覗きこむようにして聞く。

「ええまあ、一応……それで、ですね」

 まるで興味がないというように名刺を渡し返されると、一条ひかりと名乗る女は、どこか困惑したように四角い紙片を受け取っている。

「ここで会ったが百年目というのもなんなのですが……先生に対し、当社より何度も取材の申し込みをしていると思います。事務所の佐伯さんにもしお聞きになっているとしたらですが……」

「ああ、もちろん聞いてはいます。でも僕のほうで何か御社に対し個人的偏見があるというわけではなくて、僕はそういうのが嫌いというか苦手なんですよ。じゃあ他の雑誌のそれはどうなんだとおっしゃりたいでしょうが、僕にも一応人づきあいというものがあって、そちらのほうは断れなくて嫌々引き受けたというだけのことにすぎません。しかも僕は今友人と極めて個人的で有意義な時間を過ごしている真っ最中でもある。申し訳ありませんが……」

「わたし、これからあなたのパリ絵画展を取材しに行くところなんですっ!!」

 一条ひかりの声があまりに大きなものだったせいだろう、遠くのほうに座っていた客までが、一瞬テーブルから顔を上げた。

「その、他のスタッフたちはすでに向こうへ行ってしまってるんですが、わたしだけちょっと一日違いということになって……わたし、まだ全然新人で編集長にも駄目だし食らってばっかりだし、胃薬との友好関係も深いですっ。だから、もしここで先生に取材オーケーのお約束をしていただけたら、少しはわたしの株も上がるっていうか……」

「つまり、君の株を上げるために僕のプライヴェートな時間を犠牲にしろということですか?申し訳ありませんが、そういうことならお引き取りください」

 要の言い方は断固としていて容赦がなかった。普段、どういったタイプの女性に対しても、彼が優しく振るまうところしか見たことのない翼としてはーーなんとも意外な対応のようにも感じられる。

 一条ひかりはいかにもとぼとぼといった様子で、ラウンジの出口へと肩を落として去っていった。

「あの子、なんか可哀想だったな。肌なんか蛾みたいに白くってさ。いや、白いというより青白いと言ったほうがいいくらいだったぜ。あの様子じゃ相当胃薬さんと仲良くしてて、離れ難い関係を築いてるんだな。ま、ああいう申し出の相手をいちいち受けてたらキリがないっておまえの気持ちもわかるけど……」

「変だと思わなかったのか、翼」

 呆れたように、要が隣の親友のことを振り返る。ふたりが再び広い窓のほうに視線を戻すと、そこでは整備士たちがエプロンで黙々と作業し続ける姿が変わらず見える。

「あのファッション雑誌は、その昔マリエが出ていたことのある雑誌だった。僕はその種のものはあまり見ないけど、彼女が自慢たらしく見ろと言ってたことがあるから名前だけは覚えてる……いや、こんなことはおまえも僕から聞かなきゃわかんないことだとは思う。けど、ただの一介の雑誌編集者がなんでファーストクラスラウンジなんかにいる?ここは上級クラスの会員しか出入りできないはずの場所なのに」

「あ~、そっか。そういう意味か。でもそれはなんか抜け道あんじゃねえの?仕事で飛行機に乗りまくってマイレージがいっぱい溜まって上級会員になったとか、その他色々……」

「いや、違うな。彼女は最初から僕たちがーーというより、僕がここにいることを知ってたんだと思う。それで気配を消してこっそり話を聞いてたんじゃないか?まあ、僕のスケジュールのほうは把握できないこともない……つまり、絵画展の初日にはギャラリーに顔出しするわけだから、その何日か前のパリ行きの便といったように向こうが考えていたとすればね」

「う~ん。となると……」

 探偵よろしく親友の身辺を警護、といった任務のことを翼はすっかり忘きっていた。これはもしかしたらフランスへ着いてからではなく――すでに今から何がしかの警戒をする必要があるのかと、初めて思考を切り替えた。

「おまえはさ、馬鹿馬鹿しいって笑うかもしんないけど、俺はそのマリエって子が二卵性双生児だってのが、どうも引っかかるんだ。たとえばだけど、俺がもしそういう出自で母方に引き取られた妹がいるってわかったら、間違いなく相手がどういう暮らしをしてんのかが気になると思うんだ。いや、暮らしっていうよりどういう性格なのかとか、自分とは顔が似てるのかどうかとか、そういうことがさ。で、飛行機事故で夭折したってことがわかったら、要ならどうする?」

「まあまずは母親のところに行って、お姉ちゃんのこれまでの人生がどんなものだったかとか、あるいは写真を見せてもらったりするだろうな。でも、その線はやっぱり薄いよ。なんでかっていうとさ、ああいう手紙が届いてから僕、マリエの母親がやってるスナックまで行って話を聞いてきたからな。そしたら、生き別れてからはいっぺんもその子には会ったことがないってことだった」

「やっぱその母親、ちょっとおかしいんじゃね?」

 翼は時計が十時二十分を差すのを見つつ、そう聞き返した。このジャガー・ルクルトの時計は、翼が医師の国家試験に合格した時、要から合格祝いにもらった品物だった。以来、何度もバンドを取り替えつつ、時計盤のほうだけはずっと同じものを使い続けている。

「姉のほうは外国で死んでも葬儀を他人のおまえに任せ、妹のほうは生き別れたきり放ったらかし……普通、今どうしてるかと思って最低でも一回くらいは会いにいったりするもんじゃねーの?」

「人にはそれぞれ事情ってものがあるから、その点についてはそう簡単に責められないよ。まあ彼女自身が結構な苦労人でもあるし……マリエが死んだ時のショックで再婚してるから、また名字が変わってるしね。なんていうか、そういう種類の弱い人なんだよ。翼もたぶん会えばわかる。スナックを経営してるなんていうと、いかにも場末の女ってイメージがするかもしれないけど、そういうのとも少し違うし」

「ふうん。じゃあそのお母さんから妹の居場所は聞けなかったってことか。でも名前くらいは当然聞いてきたんだろ?」

「ああ。写真も見せてもらった。生まれた時の赤ん坊のだけどね。『命名:毬絵と奏愛』……奏でる愛って書いてカナエ。マリエは大きくなってその写真を見た時、自分の名前があまりに平凡すぎるって言って、癇癪を起こしたことがあるらしい」

「ふーむ。で、その子、名字のほうは?」

「ごめん。聞いてくるの忘れた。っていうか、可能性としてはやっぱりありえないって思うところがあって……『今でもあの子のことを覚えてくれてるなんて嬉しい』とか、そんな話をしてるうちに、『そんなことあるはずないよな』って思いながら店を出ることになったんだ」

 翼と要はシャンパンのグラスを片手に、それぞれの考えに耽りこんだ。やがてそろそろ搭乗手続きでもするかという話運びとなり、ファーストクラスラウンジから出ることになる。そしてロビーでさらに待ち時間をやり過ごしている時に、不意に翼が聞いた。

「その、さ、『双子の妹復讐説』っていうのは、確かに俺も可能性低いとは思う。それにあの手紙は単なるイタズラであって、何も起きない可能性が高いとも思ってる……でも要、こんなこと俺に言われたくないだろうけど、モデルにした子の顔とか、本当に全員覚えてて名前も一致するか?たとえばさっきの一条ひかりって子にしても、一回ちょっと手を出したことがあるけど、すぐに忘れたとか……いや、俺がこう言うのはさ、女ってのはメイクや髪型なんかでガラッと印象が変わっちまう。そう考えた場合……」

「その点は心配ないよ」と、要は電光掲示板の表示が変わるのを見上げながら、笑って言った。「ただ、名前のほうは若干心許ないかもしれないな。けど、相手が仮にどんなに変装してても、一度モデルにした子のことは必ずわかる自信がある。もっともこれは個人的な関係を持った女性だけに限られるけどね。とりあえず何人か頭数が必要で……みたいな場合は、流石に僕も覚えてられないし、その場合は向こうだって僕にさしたる深い恨みみたいなものを持ってはいないだろう」

「……………」

 この時、翼にしては珍しく『おまえってほんとやな奴だな、要!!』と軽口を叩くでもなく黙りこんだ。というのも、先ほどの一条ひかりという女性、あまりに挙動不審だった気がしたのだ。もちろん、要のような男に声をかけるのはどんな女性でもかなりの勇気が必要だろうとは翼も理解する。だがそういうことではなくーーもし彼女が内心バレたらどうしようと思っていたとしたらどうだろう?あるいは、要が今言った頭数合わせのためのモデルが一方的に要に対し思いを募らせ、むしろまるで相手にされなかったことで逆恨みしていたとしたら……翼はこの時、ジョディ・フォスターのストーカーだったヒンクリーのことを何故か思い出していた。彼女の気を惹くために、レーガン大統領を暗殺しようとした男のことである。彼がフォスター宛の手紙の中で「(妄想の中で)六兆回もセックスした」と書いていたのを翼は覚えている……つまり、ストーカーの心理というのは、そもそもがそうした異常なものだということだ。

「大丈夫だよ、翼。たぶんこれからも何も起きないし、あの手紙はただのイタズラだったんだと思う。というより、なんか無意味に余計な心配かけたみたいで、悪かったな。この件に関してはもう忘れてくれていいよ」

「あ、ああ……」

 搭乗案内のアナウンスが流れ、翼と要はほぼ同時に立ち上がった。翼はナイキのスポーツバッグを抱え、要はバレンシアガのボストンバッグを手に持ち、搭乗ゲートへと向かう。たくさんの人の群れとすれ違いながら、それでもやはり翼はなんとなく警戒心を解くことが出来なかった。うまく言えないが、なんとなく不吉な予感がするとでも言ったらいいか……そして翼自身もまた(そんなことはありえない)と思いながらも、やはりあるひとつの可能性を捨て切れないでいた。

 つまり、もし自分が女性で、時司要のような『本物』と思えるような男と出会い、短期間で捨てられるというのか、捨てられたと感じるような体験をした場合――相手のことをそう簡単に忘れられるものだろうか?そしてもし忘れられず、いつまでも燻っていた思いが何かをきっかけに再燃したとしたら、顔や体に整形の手を入れてでも、復讐を果たそうとすることが絶対にないと言い切れるかどうか……。

 翼は意味もなく通りすぎる女性たちの姿を意識して見ながら、やがて大きく首を振った。(それよりも)と別のことに無理やり思考を切り替えようとする。(瑞島の口から俺のおフランス行きがバレちまったから、外科病棟の看護師にもパリ土産を買って帰んなきゃなんないんだよな。まあ人数分の菓子でもなんか適当に買って帰ればいいか)――そんなふうに思いながら翼が隣を歩く親友を振り返ると、彼が先ほど「忘れてくれていい」と言った言葉はやはり嘘だったのだなと感じとる。

「さっきの子、おまえの個展を取材するってことは、同じ便のパリ行きに乗るってことだよな」

「ああ、たぶん」と要からはどこかぼんやりとした返事が返ってくる。「でもそういう記者に対して出版社のほうが用意する座席っていうのは、エコノミークラスの通路側とか、そんな感じなんじゃないかな。だから座席に着いたあと、顔を合わせるってことはまずないと思うけど」

「確かにそりゃそうだな」

 搭乗ゲートを通過し、ボーディングブリッジを抜けると翼と要は飛行機内部へ入りこんだ。SU507便――それが翼と要の乗り込んだ飛行機のパリ行きの便名である。入口脇に控えるキャビン・アテンダントが軽く頭を下げ「いらっしゃいませ」と笑顔とともに迎えてくれる。

 翼と要は案内を断ると、ビジネスシートを尻目に、ギャレーやバーを抜けてファーストクラスの室内にすぐ辿り着いた。このドリームライナーシステムエンジニアが開発した最新機種であるD-787型機は、「世界の航空事情を変えるだろう」と言われており、一時期富に噂の的となっていた。長距離を飛ばすためには当然、多くの燃料が必要となり、そこで大型機に出来るだけ多くの乗客を乗せなければビジネスとして成り立たないわけだが――このD-787型機は燃費が良くコストが抑えられる分、客席数を減らして豪華使用とすることが可能だったという。

 翼と要が乗り込んだ機種もまた、全座席数が175席程度であり――ファーストクラスの座席数がその内16、ビジネスクラスの座席が五十席ほどもあった。翼などはビジネスシートの室内を見た時に「俺、ここでも十分快適に過ごせそうだな」と思わず呟いてしまったほどである。

 何故といえば、座席がジグザグ構造となっているため、かなりのところプライヴェートな空間が守られるし、そうなれば見知らぬ隣人の動向といったものにもさしてイライラさせられないだろうと感じたからである。

 だが、バーカウンターを抜けてファーストクラスの室内に到着すると、見るからに座り心地と寝心地の良さそうなビジネスシートのことなど、翼もすっかり忘れてしまった。「世界でもっとも静かなファースクラス」という歌い文句のとおり、内装に防音効果の高いフロアマットを使用しているせいか、エメラルド色の通路を歩いても足音というものが全然しない。しかも、このファーストクラスの構造がほとんど半個室なのである。背の高い壁によってそれぞれの座席が区切られているため、よほど下品に背伸びでもしない限りは前と後ろにどんな乗客が存在するのかすらわからない。ただし、残念ながら横だけは別であり、ペパーミントグリーンの横板から互いが同時にひょいと顔を覗かせたとすれば、さして知りたくもない隣の客について、簡単な情報は得られるといった構造になっているようである。

 翼は最前列の1-E席に座り、要は1-F席に腰掛ける……ちなみに、ファーストクラスの座席は二席が割合間近にくっつく形で横に三列並ぶといった構造をしており、その左右に通路があった。翼と要はこれからの長いフライトを耐え忍ぶため、それぞれ自分の小道具(といっても本やゲーム機器ということだが)をバッグから取りだし、残りのものは収納棚へ上げるということにした。

「翼、約束どおり一時間交代で窓際の座席交換をしようか」

 伸び伸びとリクライニングチェアに足を伸ばしたあと、要がぱらぱらと機内誌をめくりながらそう聞く。

「いや、なんかここのファーストクラスの場合、窓際ってわけじゃなくても大して損した気はしないから、別にいいよ。それにたぶん俺、十時間以上のフライト時間の内、半分くらいは寝るってことになりそうだからな。まあ、気にすんなって」

「なんだ、おまえらしくもない言い種だな。いつもは窓際マドギワってうるさいくらい言い張るくせに」

「まあな。けど、例の手紙のことがあるからさ、なんとなく気になるっつーか……向こうの狙いはおまえなわけだから、要が通路側にいるってのはやっぱ危険かなと思って」

「大丈夫だよ。そんなお姫さまみたいにおまえに守ってもらわなくてもさ。確かにこのD-787型機は、通常の窓より1.3倍くらい大きいとは前に何かで読んだけどね」

「ふうん、どうりで。なんか妙に窓から差しこむ光が強いような気はしたんだ。なんにしても快晴で良かったよな。こういう雲ひとつない穏やかな天候の時にはさ、なんとなくこのままいいことがありそうな気がするって錯覚しちまうくらいだもんな」

「まあ、向こうに着いた頃にはどしゃ降りって可能性もなくはないだろうけど……今朝見た世界の天気予報じゃ、パリのほうも到着した頃には晴れてるんじゃないかと思うよ」

「お、要。なんだ、これ」

 翼がそう言って、前の壁面に取り付けられているパーソナルモニターをリモコンで操作する。「ようこそ、ソレイユ航空へ」と笑顔のCAがバックの画面が表示され、その下に各種メニューがコンテンツとして並んでいた。

「そっか、なるほど。客室乗務員になんか用のある時にはこれを使えってことだな。ええと、見れる映画の種類は思った以上に結構あるな……」

 そんなチェックを翼が軽く行っていた時、通路に人影が出来た。黒のミニスカートにシルバーグレーのタンクトップ、その上に春物の白いコートを羽織っているというスタイルの女性だった。相当ヒールの高い靴を履いているが、例の防音効果で足音というものがまったくしなかったのである。

「失礼」

 サングラスをかけた、長い黒髪の外国女性が、背伸びをしてシャネルのボストンバッグを収納棚へどうにか押し込めようとする。ラッチハンドルの操作の仕方がわからなかった揚げ句、彼女がそんなことをしていたために――翼も流石に見かねて、彼女の手荷物を片手で押し上げる手伝いをすることになった。

「どうもありがとう、坊や」

「いえ、どういたしまして、マドモワゼル」

 収納棚を閉じると、妙に鼻筋の高いその女性は、見るからに優雅な仕種で1-C席に着座していた。彼女がブランド物のハイヒールを横に転がし、長い素足を伸ばす姿がこちらからも見える。

 相手に聞かれる心配があったため、翼はなんとか堪えていたのだが――やはり我慢できなくなってブッと吹きだしてしまった。すると、要のほうは要のほうで、彼とはまったく別の理由で笑っていたのである。

「『ありがとう、坊や』だってさ、要。俺、映画以外でそんな科白を聞くのなんか、生まれて初めてだぜ」

「ああ、なんだそっちか。僕はそれとは全然別のことで笑ってたんだけどな」

「いやいや、なんともセクシーな隣人さんの御登場じゃないか。おまえ、あのやたらスタイルのいいべっぴんさんに心当たりあるんじゃねえの?あんなに背伸びしてぐいぐいやってるから仕方なく手を貸しちまったけど、本当はあのまま胸か太腿のあたりでも拝んでおきたかったぜ」

「僕のほうはさ、翼、おまえが昔酔って言ってたことを思い出して笑ってたんだよ。おまえは覚えてるかどうか知らないけど、うちのモデルの女の子たちが『せんせえはどんな女性がタイプなんですかあ?』とか、聞いてたことがあったろ。おまえ、その時に自分がなんて言ったか覚えてるか?」

「いや、どうも記憶にねえな」

 要はもう一度抑えた声音で笑いだすと、

「イランイランの香水の匂いがするインランな女がいいって言ったろ、おまえ」

「そんなこと言ったかあ?」

 まったく記憶にない翼のほうでは、どこか決まり悪そうにぼりぼりと頭をかいた。それというのも、隣の年齢不詳の美女が漂わせていったイランイランの香水の香りが、まだあたりには色濃く漂っていたからである。

「言ったよ。で、女の子たちのほうでは『先生ってサイテー!!』とか、『イランイランの香りって、あたしあまり好きじゃない』とか、さんざんな返事しか返ってこなかった。しかもおまえ畳みかけるように、『自分もイランイランの香水の匂いは好きじゃない。でもああいう香水つけてる女はすぐにやらせてくれそう』とかって言ったろ」

「マジか?やな男だなー、まったくそいつは。きっと女のなんたるかなんて、まるでわかってないからそんなこと言ってたんだぜ。誰か殴って黙らせてくれれば良かったのに……」

 ここで翼と要は顔を見合わせて大笑いし、それから互いの会話が聞こえていないことを確認するように、通路の向こうの様子を窺った。

「なんにしても、この会話はここまでな、要」と、翼は変わらず小声で、声のトーンを落として言った。「おまえ、本当にビタミンC席の女性には心当たりないんだろうな?俺思ったんだけどさ、顔を整形して鼻を高くしたりなんだりしてサングラスをかけてたら――元のおまえの知ってる女性ではまるきりなくなってる可能性大だろ。そう考えた場合、あのセックスアピールはあまりに作為的すぎる気がするぜ」

「セックスアピールねえ。翼、おまえもうただ完全に面白がってるだろ?」

「あ、わかる?でもマジメな話、もし俺が女でそこまでしてでもおまえに復讐したいって考えたら――すぐ隣の座席を予約して、いかにも白々しい感じでバッグが上がらないって振りするかもだぜ。で、たまたま手伝ったのは偶然にも俺だったけど、おまえが通路側に座ってたら、たぶん同じように言うつもりだったんじゃないか?『ありがとう、坊や』ってさ」

「そんな女性とつきあった記憶は、僕にはないね」要は肩を竦めて笑った。再び『ソレイユ 5月号』という機内誌に目を通しはじめながら。「第一僕たちが1-E席とF席に座るだなんて、どうやって最初から彼女にわかるっていうんだ?というより、彼女のあのエレガントな話し振りからして、フランス語なんかきっとペラペラって予感がするな。あるいは生粋のフランス人か……たぶんお隣さんはそういうタイプのセレブな女性なんじゃないか?」

「そうかねえ。なんにしても、ファーストクラスラウンジじゃ挙動不審な女に話しかけられ、ここの座席じゃ色っぽい美女の作為的なセックスアピールを受け……俺が思うにはだな、要。ビタミンC席の女性が隣の隣に座ることになったのはただの偶然なんだよ。彼女はおまえが当然ファーストクラスの座席に座るもんだと思い、そのチケットを取った。でもおまえがどこの席に座るかは当然わからない。で、一通り座席をチェックしてまわったら窓際の席に俺たちがいた――しかも偶然とはいえひとつ座席を飛ばした隣の席。これはまさしく復讐しろという運命の女神がわたしに与えた啓示なのだ……とかなんとか、今彼女が思ってたらどうするよ、要先生」

「よくおまえもそういうくだらない妄想を次から次へと思いつくねえ。もし1-C席の妙齢の女性があの手紙の差出人だとしたら、僕としては逆に好都合だね。すぐそばの座席にいるっていうことは、向こうの動静は大体のところこっちにわかるし、もし飛行機内で何もなかったにしても――仮にパリのどこかでもう一度出会うようなことがあったとすれば、その時こそ用心すればいい。あと、あの一条ひかりっていう子も何も問題ないんじゃないかな。ビジネスクラスまでならエコノミーの客が混ざりこんでもそうおかしくはない。けど、ファーストクラスにはファーストクラス付きのCAがいて、おかしな客の出入りがあった場合は「失礼ですがお客さま……」ってことになるからね」

「まあなあ。第一、要に直接危害加えるったって、よく考えたら向こうに何も出来るわけないもんな。俺、昔手荷物検査で引っかかったことあんだよ。たまたまハサミを荷物に入れてたら、エックス線検査で引っかかっちまってな。カッターとかならともかく、ハサミまで駄目なんだな~なんて思いつつ、目的地に到着してからそのハサミだけ別口で受け取ったんだぜ。そう考えた場合、ハサミも駄目、カッターも駄目、ナイフや拳銃なんてもっと絶対駄目……ってなったら、犯人はどうするかな。ポリ袋でもかぶせて、おまえを窒息させるか?」

「翼、おまえいいかげん……」と、要が呆れて本を閉じかけた時のことだった。左斜め前方にすらりと背の高い制服姿の女性が現れる。年の頃は二十代後半くらいだろうか。雪のように白い肌の、笑顔が美しいキャビン・アテンダントだった。

「本便のファーストクラスを担当させていただきます、鹿沼玲子でございます。御用の際にはなんでもお申し付けくださいませ」

 そう挨拶し、モニター画面の操作の仕方や利用できるサービスのことなど、軽く説明をして他の座席へと移っていく。

「要、おまえっ……!!」

 鹿沼玲子というCAが最後、さりげなくではあるが意味ありげに要のほうを見たのを翼は当然見逃さなかった。その瞳は翼の見る限り間違いなくこう語っていた――「心の底からお慕い申しております」といったように。

「一体あんな美人とどこで知り合った!?くっそー、馬っ鹿馬鹿しい!!おまえのことをお姫さまよろしく守ってやろうだなんて、まったく俺も人が好すぎだぜ。つまりおまえのあの手紙は身から出た錆、ようするに自業自得ってことだ。次から次に可愛こちゃんを手玉に取ってうまくやってるから、とうとう年貢の納め時ってのがやって来たんだよ!!」

「可愛こちゃんっておまえ……その言葉遣いと『ありがとう坊や』はどう考えても同列なんじゃないのか?玲子に対しても、僕は何も自分から声をかけたわけじゃないしね。ニューヨークから日本へ戻ってくる便で、たまたま降りる時に手紙を渡されたってだけ。それから、三年くらいのつきあいになるのかな」

「あーっ、あの子は本当に駄目だ、絶対駄目だぞ、おまえ。明日にでもあの子の両親のところに行って、速攻結納金支払ってこい。ああいうタイプの子はイランイランの香水つけたインラン女とはまるで訳が違う。小鹿みたいにウルウルした目で、きっとおまえのことを見上げてくるんだろうな……『要さんのためならわたし、都合のいい愛人のひとりでもいいの』ってか?冗談じゃねえぞ、俺があの子の親父なら、いくら相手がおまえでも速攻ぶっ飛ばしてるだろうからな」

「翼、おまえだんだん声がでかくなってきてるから、少し気をつけたほうがいいよ」

 聞く耳を持つ気はないといったように、ipodのイヤホンを耳にはめようとするものの、速攻翼がそれを引き抜く。

「いや、こっからは真面目な話だ、要。もしこの機内に、例の手紙の犯人の共犯者がいたらどうする?しかもそいつがキャビン・アテンダントだったりしたらーー」

 翼が要の胸ぐらを掴まんばかりにしてそう言った時、機内アナウンスが流れた。<当機は間もなく離陸準備に入ります。どのお客さまもシートベルトを御着用くださいますよう、お願い申し上げます>との音声を受け、ふたりはシートベルトを着用した。暫くののち、すべての乗客がシートベルトを着用したとの確認を受けたチーフパーサーがやって来て、翼と要の座席脇を通りすぎていく。

 彼女は前方ギャレーの先にあるコックピットまで、安全確認が出来たことの報告をしに行ったのであった。

 翼は前方の隔壁にある電子掲示板の横、ギャレーの入口脇に控える鹿沼玲子のことを見て――彼女のプロフェッショナル然とした、どこか凛々しくすらある顔を眺めているうちに(いや、べつに俺が心配することでもねえか)という気になってきた。翼が以前一度だけおつきあいしたことのあるCAの話によると、キャビン・アテンダントというのは意外に出会いが少ないものらしい。まわりは女性ばかりの環境だし、格好いいパイロットをCA同士で奪いあっているというのも、どうやら航空業界に疎い人々の勝手な想像でしかないらしく――そう考えた場合、彼女が要にアタックしたというのは、実際良いことなのかもしれなかった。

(そうだよな。彼女がもし仮に、以前から時司先生のファンでどうたらって手紙を渡したのだとしても、なんの悪いことがある?不順なシフトの合間に、時々要みたいな男に会えるとしたら、それだけでもあの鹿沼玲子って子には仕事の励みになる楽しいことなんだろうし……要の奴もそこらへんはよくわかってて彼女とつきあってるんだろうから、何も俺が野暮なことを言う必要はねえよな。第一、彼女がもし第一印象で感じたような、清楚極まりない感じの子じゃなかった場合――当然、もうひとつの可能性だってある。つまり、小鹿のようにお目々をパチパチさせるその下で、『将来は画家夫人になるのよ!それだけじゃなく、もしかしたら時司帝国の頂点に夫は君臨するかもしれないし!』なんて思ってたとしたらどうだろう?そんなふうにはまるで見えないにしても、何しろ女ってのはそこらあたりがよくわからんからこそ、恐ろしかったりもするわけだ……)

 飛行機がトーイングカーに押されてタキシングを開始すると、音もなく滑らかにSU-507便は滑走路へ向け移動しはじめた。鹿沼玲子もまた離陸に備えて自身の席に着席したのだろうか、彼女の姿が消えるのと同時、翼はもう彼女のことで要を責めたりせっついたりしようという気は、すっかりなくなっていた。

「なあ、要」

「うん?」

 ガタガタという揺れをまったく感じないことに軽く感動を覚えつつ、翼は要に聞いた。

「おまえはどんな女となら結婚してもいいわけ?俺がもしさっきの玲子ちゃんって子と見合いした場合――すぐにも鼻息荒くして結婚しようとか思うかもしんないぜ?だって、なんかあの子には普通の女とは違うオーラがあるし、その上清らかそのものっていう、全方位的に男受けする気品ってものまで漂ってる……つまり、全方位的に女受けがいいっていうおまえの逆バージョンな。あの子でもし駄目だっていうんなら、おまえは一体どんな女なら満足するんだ?」

「いや、だからさ、一応考えてはいるよ。翼がさっき言ったようなことはさ」

 要が溜息を着いて窓の外を見ると、エプロンに駐機している飛行機や、それを取り囲む作業車などが少し離れた場所に見えてくる。コンテナドーリーやカーゴトラック、ベルトローダーなどが移動していく姿も。

「というか、具体的にはあの手紙が届いてから考えはじめたっていうのかな。玲子はね、控えめでなんでも揃った本当にいい子だと思う。でも何か物足りないとか、そんな贅沢を言うつもりも毛頭ないよ。翼の言ったとおり、あの子で駄目なら僕は一生独身で過ごすしかないだろうとも思う」

「でも、おまえはあれなんだろ?相手の本質みたいなもんを絵の中に移しかえた時点で、その対象に興味がなくなるとかいう病気を持ってるもんな。それに、本妻とは別の女を何人も裸にしながら何もない……なんていうことはありえない。そこを呑んでくれると女と結婚しようとか、そんな都合のいいこと考えてるってことか?」

「まさか、この種のことでおまえに説教されるとは思ってもみなかったけど」と言って、要は苦笑した。「<いつまでもずっと>今みたいなことを続けられるとは、当然僕も思ってはいなかった。いつかそういう女性の怨念というか、恨みみたいなものが積み重なっていって、ある日交通事故にあって大重態とかね、そうなっても仕方ないとは思ってきた。でもさ、おまえにどのくらいわかるかわかんないけど、僕はこれでも結構、自分なりに頑張ってるほうなんじゃないかと思ったりもするわけだ。絵を描く作業ってのは、そりゃひたすらに孤独なもんだよ。僕はその孤独を愛してやまないけど、でも一枚絵を描き上げたあとは自分の中に何も残らないくらいすべて出しきるからね。そうなると、次の作品に取りかかる前にどうしても補給しておかなきゃならないものがある……なんでって、美の女神に誠心誠意奉仕し尽くして疲れきってるわけだから、地上の限定された肉体しか持たない身としては、そういうフィードバックがどうしても必要になるんだよ。しかも、自分からそれほど強く押していかなくても、向こうから来てくれる場合が多いとなったら……翼、おまえだったらここは理性で我慢なんて考えるか?」

「いや、百パーセント絶対考えないね」

 そう言って翼は、D-787型機が地上から離陸すると同時、大声で笑った。翼や要は乗客なので、実に気楽なものだったが、CAたちはこの離陸の瞬間まで仕事に追われて大わらわだったといって良かっただろう。出発時刻の大体三十分前には飛行機内に乗りこみ、非常用設備や装備の確認、ドリンクや氷など積載物の確認、シートやトイレのチェックを行い――乗客を迎え入れたあとは、設備や装備に関する説明をしたり、収納棚の整理を行ったり、またリクライニング、テーブル、シートベルトの安全性のチェックその他を終わらせたのち、そうした報告をチーフパーサーより受けた機長が飛行機を出発させるのである。

 CAの仕事というのは、一見華やかな面が強調されがちだが、一度裏に回ってみると地味できつい部分や重い物を移動させたりといった力仕事も多い。だが乗客の中にはCAのことを「美人な、頼みごとを色々聞いてくれるウェイトレス」といったように勘違いしている場合が少なからずあるという。おそらく飲み物や毛布を持ってきてくれるというサービスからそうしたイメージが強いのだと思われるが、CAの一番の業務は何かといえば、それは<保安要員>ということになるだろう。

 ゆえに、乗客がトイレを一回使うたびごとにそこをチェックしなければならないし(何か不審物が置かれていないかといったことを確認する)、また乗客の目から見れば、何やら無意味にCAが通路を歩いているように見える時でも――彼女たちは安全上の確認を行うためのチェックをしている場合が多いのである。

 そしてコックピットでは離陸が無事完了し、飛行が安定するとフライトはオートパイロットにまかせ、あとは何も問題がなければ目視以外特にすることはないといった状態となる。D-787型機には三人の操縦士が乗りこんでおり、ひとり目は機長の後藤誠治で、四十七歳のこの道二十年の大ベテランだった。どことなく軍隊の指揮をとる隊長然といった厳しい顔つきの男だが、CAが食事の注文を聞きにきた時などは軽口を交わすこともある、部下からの信任の厚い男だった。ふたり目は副操縦士の斎藤巧で、次の機長への昇格試験に合格したらば、晴れて制服の金ラインが三本から四本になる予定の三十七歳。そして三人目が上野幸太という名前の、同じく制服に金ラインが三本入った、二十七歳の若手操縦士であった。

 成田発パリ行きSU507便は、この三名のパイロットが交代で四時間ほど操縦ののちに二時間休憩するといったローテーションで行われる予定となっている。

 もっとも、安定飛行に入ってのち、自分たちの年齢がそれぞれ十歳違うことに気づき、ジェネレーションギャップについて花を咲かせていた三人のパイロットたちは当然知らない。このフライトが実はのちに、死のフライトとなるかもしれない、極めて危険な可能性を秘めているということを……。



 >>続く……。






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