天使の図書館ブログ

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動物たちの王国【第二部】-27-

2014-04-01 | 創作ノート
【ウィンターサンセット】ウォルター・ラウント・パーマー(オールポスターズの商品ページよりm(_ _)m)


 え~と、自分的に翼と唯の関係が割合淡白(?)かな~という気がしたので、前文で少し補足してみようかなと思います(笑)

 いえ、なんかあんまりラブあまでベタベタなシーンを書くのもちょっとアレ(ドレ☆)かなという気がして、甘さ控え目っぽくしてみたんですけど、今はもう少し甘くてエロいほうが良かったかな~という気がしなくもないので(^^;)

          

 ――その日の朝、唯は嫌な夢を見て目を覚ましていた。

 唯はいつもいくスーパーマーケットで、籠を片手に色々見て歩いていた。

(結城先生の好きなお菓子、結城先生の好きなビール、結城先生の好きな……)

 唯はとにかく、翼のことだけを考えて、彼の好きなもの及び好きそうなものばかりを籠に入れていた。

 そして食事のメインディッシュとして、惣菜コーナーの前でやはり彼の好きな肉類を選ぶということになる。

(ハンバーグにトンカツに若鶏の唐揚げ……今日はどれにしようかしら)

 唯がコレステロールのことなども考えて、「ヘルシートンカツ」なる少し高めのヒレカツにトングを伸ばそうとした時のことだった。

 カートを押してやってきた女性が、突然どかっ!と押しのけると、唯が買おうとしていた「ヘルシートンカツ」をすべて、ビニールの袋に詰めてしまう。

「あ、あのっ、それは今わたしが買おうとしていたのに、横入りなんてひどいじゃないですかっ!!」

 カートに物を山積みにした女性は、振り返るといけしゃあしゃあとこう言ってのけたものである。

「何よ?さっさと決めてモノにしないあんたが悪いんであって――なんにしてももう、このトンカツはわたしのものよ」

「……ちょっと、待ちなさいよ!!それはわたしの……」

 唯はここで無様にも、何もない場所ですっ転んでいた。履きなれていないヒールの高い靴を履いていた、そのせいだった。


 ――どうしてわたし、夢の中でまで惨めでなくちゃいけないの?

 そう思って唯は、ベッドの上に身を起こすと、毛布の端のほうで涙をぬぐった。

 夢の中で横入りをしてきた女性は、翼の部屋の前にいた女性だった。そして唯は夢の内容を途中まで反芻しかけて、急に顔と体が熱くなった。

 ようするに夢の中でトンカツが何を示していたかといえば、フロイト流の夢分析に頼るまでもないという気がしたからである。

 それから唯は思いだした。自分が勇気をだして体の関係を持つのは金曜の夜か土曜、それか日曜だけにして欲しいと言った時のことを……。



「それってさ、ちなみになんで?俺とのセックスがあんま良くないとか、そういう理由?」

「ち、違うけど……でもわたし、こんなことばっかりしてたら、自分が自分でなくなっちゃうみたいで、ちょっと怖いっていうか……」

 翼は唯のことを抱いていた手を離すと、ベッドの上に仰向けになり、少し考えこむような仕種を見せた。

「あの、月曜から金曜日は仕事があって……もちろんわたしも、手術中に先生のことを考えたりはしなくても、なんていうか、でもやっぱり……」

「うん、わかった」

 翼が意外にもあっさり了承したので、唯としてはむしろ驚いた。

「おまえ、マジメちゃんだから、たぶん色々考えるんだろ?なんかちょっとしたことで失敗したら、罰が当たったとか思うタイプだもんな、唯って。これ、昔なんかの本で読んだことなんだけどさ、男と女じゃそもそも性周期が違うんだと。男のほうが盛って毎日やりたがったとしても――女のほうは男につきあってやらせてやってるとかいう話。俺が気になるのは、おまえはそのへんどうなのかなってことなんだけど」

 ちなみに、その本の中には、女性のほうがオーガズムに至るまでの回路が複雑であるため、その分男よりも快楽が強い……といったように書いてあったのだが、翼はその点についてはあえて伏せておく。

「えっと、べつにわたし、先生と毎日するのが嫌ってわけじゃなくて……ただ仕事のこととか、覚えなくちゃいけないことがまだたくさんあって、だから……」

「ああ、そうだろ?だからさ、俺はちょっと今感心したわけ。俺はイチゴのショートケーキがあったら真っ先に苺を食うタイプなんだけどさ、これからは唯にあわせてとっておきのは最後に残しておくってことにする。それでいいか?」

 唯は自分から翼のほうに抱きつくと、彼の胸の中でこくりと頷いた。それから翼は時々は<例外の日>も作ること、排卵日明けなどには曜日は関係ないことにしてくれと言った。おそらく唯は翼以外の男が同じことを口にしていたとしたら――相手のことを軽蔑していたような気がして、少しだけおかしくなる。

「そうだよなー、俺くらいオープンだと、むしろ逆にやらしい感じがしないだろ?それとさ、セックスとか性にまつわることに関して、唯は結構罪悪感を持ちやすいタイプなんじゃないか?でもまあ、医学的な観点からいえば、むしろ体にいいって思っておいたほうがいいぞ。なんでかっていうとさ、セックスのあとっていうのは交感神経が一気に副交感神経に切り替わるからな。するとぐっすり眠れていい睡眠が取れるってわけだ。だからおまえも、「わたし、イケナイことしちゃってるんじゃないかしら?」とか考えないほうが絶対いいって」

 ここで唯は思わず、くすくす笑ってしまった。

「べつにわたし、イケナイことをしてるなんて思ってません。ただ、あんまり幸せすぎて、時々怖くなるの。それでそのうち罰が当たるんじゃないかって思ったりとか、そういうのは確かにあると思う」

「うん?そうか?俺なんかもう毎日、人生が楽しくて仕方ないけどな。確かに俺もさ、手術の最中におまえのことを考えたりとかはしない。でも、最後の一件が終わったあとなんかにはこう思うわけ。『あーっ、これで家に帰ってうまいビールでも飲んで、唯と一緒に寝れる』とか、そういうことはさ」

「先生、わたし……」

 唯が半分起き上がって、翼にキスしようとすると――彼はすでに目を閉じて眠っていた。おそらく自分で今言ったとおり、交感神経が副交換神経に一気に切り替わり、睡魔に囚われたそのせいに違いなかった。

 それで唯は眠っている彼の唇にキスしたそのあとで、ベッドの中でまだ幸せな気分に浸りつつ、やがて彼と同じ深い眠りへ落ちていった。


 ――今にして思うと唯は、セックスの回数を減らして欲しいと言ったことを、少しばかり後悔しないでもなかった。

 というのも、自分以外の誰かとそうしても仕方のない理由を、わざわざ作ってしまったような気がして……そのくらいなら、多少その気でない時にも彼につきあっていたほうが遥かにましだったような気がしたのである。

 唯は起きて食事をし、身仕度をある程度整えると、最近身に着けるようになった補正下着を手に取り、それから溜息を着いて普通のブラジャーを身に着けた。

 湊慎之介とつきあっていた時には思ってもみないことだったが、異性とつきあうということは、意外にもお金がかかるものだと唯は思い知っていたかもしれない。

 自分でも時々(馬鹿みたい)とは思うのだが、それでも唯はどうしても下着類にお金をかけずにはいられなかったのである。

 というのも、R医大病院にいた頃、大河内医師と堺医師がこんな話をしていたのを覚えていたからだった。


『この間、偶然本屋で結城先生と会ったら、隣に誰がいたと思います?』

『さあ……クリスティーナ・アギレラとか?』

『違いますよ~、大河内先輩っ。もう胸がGカップかHカップはあるんじゃないかっていう巨乳美女と歩いてたんですよ。で、きのう見ちゃいましたよ、先輩とか言ったら、結城先輩、なんて言ったと思います?』

『う~ん。なんといっても巨乳は最高だぞ、イヒッ!とか?』

『それはただの大河内先輩の本音じゃないですか。そうじゃなくて、『あれはただの日替わり定食みたいなもんだ』って。日替わり定食ですよ、日替わり定食!あ~あ、僕も一度でいいから言ってみたいな~、Gカップの女性を連れて、日替わりG定食とかなんとか……』


 唯はその堺医師の言葉を覚えていたせいで、身につけていると胸が大きくなるという補正下着などというものに、少しばかり高額のお金を出していた。

 そして、その一か月後くらいに、

「唯、おまえ、ちょっと胸でかくなったんじゃねえか?俺が毎日揉んでるせいかな」

 などと言われても――唯は当然、補正下着のお陰だなどとは言わなかった。

 もちろん、こんなものを毎日着ていると、体が締めつけられて苦しいのだが、唯はこれも結城先生のため、などと思い、体が楽なほうのブラジャーのほうはずっと無視してきた。生まれて初めてガーターベルトなどというものも買っていたが、今では自分のそうした行為のすべてが馬鹿そのものといったように思えて仕方ない。

「もう、結城先生なんて……何人女の人を知ってるか知らないけど、本当の女の気持ちなんて、全然わかってやしないんだからっ!!」

 唯はそんなふうに思いながら、下着類の仕舞いこまれたタンスを閉め、最後に鞄を手にして部屋を出ることにした。翼の買ってくれたヒールの高いミュウミュウの靴は履かず、Kショッピングモールで買った1,980円の合成皮革の靴を履く。

 このほうがずっと自分らしく歩けると、唯はそう思うのと同時に――今朝見た夢の内容が告げた意味を、この時はっきりと悟っていたかもしれない。

 自分と結城医師とでは、自分のほうが多少無理をしてヒールの高い靴でも履かないことには、そもそも釣り合いがまるで取れていないのだということに……。


 長くなっちゃいましたけど(汗)、べつにこれ、本編の間に挟まってなくても、自分的にはべつにいっか☆とか思います(^^;)

 まあ、ちょっとした思いつきでお遊び的に書いてみたんですけど、唯の心情としてはそういう部分もある……といったような感じというか。

 それではまた~!!



       動物たちの王国【第二部】-27-

 翌日曜の午前中、翼は唯にようやく電話したのだが、何度コールしても彼女が携帯に出ることはなかった。自分が休日や夜に電話して出なかったということはほとんどないため、翼はこの時になってようやく、(まさかきのうのこと、話も聞きたくないってくらい怒ってんじゃねえだろうな)と気づく。

「しゃあねえなあ、まったく」

 翼は溜息をひとつ着くと、葵ヶ浜近くにある唯のマンションまで、車を走らせることにした。何分、今日は一日完全な休みでも、明日からまた土曜の午前中まで――公私の区別がどこにあるやらといった、忙しい業務に追われることになる。唯とはオペ室の廊下ですれ違う可能性もあるが、そんな時に出来る話ではない以上、今日中にケリをつけておく必要があると、翼はそう思っていた。

 だが、701号室の番号を呼びだしても、「あ、唯か。俺だけど」と言った瞬間にプツリと相手からの音信が途絶えた。翼は次の瞬間にオートロックが解除されるのを待ったが、いつものようにはガーっと扉が開かない。

 そこで翼はもう一度呼び出しボタンを押したのだが、今度は何度コールしても相手の出る気配がなかった。

「あの野郎……」と言いかけて、翼はこの時唯のほうこそが「この野郎」とでも自分に対して思っているに違いないと思った。マンション入口のロビーで、もう一度携帯で唯に電話するが、やはり何度コールしようと出る気配がまるでない。

 そしてちょうどこの時、マンションの住人と思しき女性がひとり、コンビニの買い物袋を提げてやって来た。ロックを開錠し、すぐ中へ入っていくが、その後ろについていったとすれば、間違いなく自分は不審者以外の何者でもないだろうと、翼は思い至る。

 というより、一瞬そうしようとしかけて、インテリ風の眼鏡をかけた女性にジロリと一瞥されたのである。「本当は男の人を入れちゃいけないんだけど」と、唯はいつも翼に言っていた。「車もね、マンションの前とか横に停めておくと、管理人さんがナンバーを控えるみたいなの。ほら、そういうストーカーの被害とかDVに合った女性が住んでるから、色々神経質っていうか……」

 その管理人というのは101号室に常時在室していて、マンションの掃除や庭の手入れ、建物全般の管理を行っているということなのだが――少しでもおかしなところがあると、マンションの住人が管理人室に電話し、時には警察がすぐ呼ばれることもあるという話だった。

 そういった事情から、翼はマンションのロビーでどこか落ち着きなくうろうろしたのち、ロビーの掲示板に一台の車の写真が貼ってあるのを発見した。幸いその車のほうは彼の乗っているシトロエンではなかったが、横にこう注意書きがしてある。

<こちらの車が毎週金曜日に必ずマンション前に止まっています。駐車違反でもありますので、これからも同じことが続くようであれば、しかるべく対処させていただきます>

(おいおい、マジか)

 翼は唯にマンション前に車を停めないで欲しいと言われるたび、「やれやれ。めんどくせえな」と思いつつ、近くの駐車場に車を停め、機械に金を支払っていたのだが――これでは確かにそうする以外ないだろうと初めて知った。

 そして、マンションの目の前に停めた自分の黒の外車は、後ろがスモーク張りになっているせいもあり、誰の目にも不審車にしか見えないだろうと気づく。しかも今の自分の格好はといえば、黒のミリタリーコートを着込んでおり、何やら「悪い男」の匂いがふんぷんと漂っているような感じでもある。

「しょうがねえ。今日のところは一旦退散して、あいつの頭が冷めた頃くらいにもう一度電話すっか」

 水上ゆう子のように、四時間も人を待つ根性のない翼は、早々に神経質な女性用マンションの規則から逃げだすということにした。そして、車の運転席に乗りこもうとした時、一階の住人がこちらと目が合うなりカーテンを閉めるのを見て――そうしておいて良かったとも思った。

 帰る時、翼は少し遠回りをして海沿いの道をドライブしていったのだが、彼は唯との間に起きたこの小さなトラブルを、相変わらずそう大きなこととは認識していなかった。というのも、近頃あまりにプライヴェートで幸せすぎたため、そのうち何か大きな波が自分の身辺に起きるのではないかと心配していただけに……翼にとっては「この程度で済んで良かった」というようなことでもあったのである。

 そして葵ヶ浜近くにある、ピンク色の巻貝別荘を遠く眺めて鴎通りにあるマンションへ戻ってくる頃には、翼は車内でかけていた洋楽を口ずさんでいるほどだった。

「♪I just had sex~And it felt so good」

 唯にとっては最悪のバレンタインデーでも、もともとそうしたイベント事に囚われるのが嫌いな質の翼としては、「きのうバレンタインデーだったから、それがどうした」という程度の認識しか、結局はなかったのだろう。

 ところが、日曜の夜になっても唯が一向電話に出ず、月曜にオペ室で出会っても取りつく島もないのを見て、翼は初めて唯との間に大きな隔たりを感じた。ちなみに翼は、こうしたことに関して長々とメールで謝罪するのは自分の性分でないため、「人の話くらい聞け!」と日曜の深夜に一通送った以外は、どんな内容のメールをも彼女に送信してはいなかった。

「あ~あ。あいつ、怒るとろくに口も聞いてくんないっていう、陰湿なタイプなんだっけ。今度廊下で顔を合わせたら、「中国からパンダがやって来ました。名前は陰々ちゃんと湿々ちゃんです」とでもあいつに言ってやろうかな」

 そんな冗談を自分の部長室で呟きながらも、翼は暗い溜息を着いていた。実際のところ、翼は唯から接触を絶たれて五日もすると、自分が精神的に餓死しかかっているように感じはじめていたからである。今までは仕事が終わると、黙っていても美味しい食事が出てくるという期待感があったし、金曜と土曜と日曜以外にも、翼がどうしてもと言えば、スペシャルボーナス的なものもついてきた。

「それにしても陰湿な兵糧攻めだよな。自分がいなかったら、あなたはまた元の惨めな食生活へ逆戻りよってか?まさかあいつ、こんなことを俺に思い知らせたくて口聞いてくんないってんじゃねえだろうな」

 唯の手料理が食べられなくなって一週間後の金曜日、翼は手術と手術の合間に売店で買ったおにぎりにがっつきながら、パソコンでカルテの整理をしていた。一年ほど前に、以前まであった小さな売店がコンビニに変わり、今は夕刻でも売れ残りのパンや弁当しかないということはなくなっている。

 けれど、ある意味<質>的な問題として――翼は唯の手料理に飢えていた。以前はコンビニやスーパーの弁当に対し、「そこそこ食えるし美味い」といったように感じてきた翼だったが、一度当たり前のように中華飯店並みのチャーハンやラーメン、手作りハンバーグや餃子、コロッケ……そんなものを食べられるのが習慣になると、味覚がまったく満足しないどころか、若干受けつけないようにすらなっている。

「あ~あ。唯の作ったじゃがいものコロッケが食いてえな~」

 もちろん、翼は唯がいつも美味しい食事を作ってくれるから、セックス付きの家政婦よろしく彼女のことを求めているわけではない。というより、先に精神的な愛情があって、それが滲みでたようなものを唯が作ってくれて、少しずつ心と体に蓄積されていった結果として――愛情に対する激しい<飢え>が、翼には麻薬中毒患者のように生じていたのかもしれない。

「このままいったら俺、間違いなく唯のマンションで暴れて警察に逮捕されんじゃねえか?んで、交番で事情を聞かれてこう答えるわけだ……「彼女こそ、俺の運命の相手なんです。信じてください、刑事さん」みたいに。あ~あ、終わってんな、ほんと俺」

 それでも、これで自分が普通のサラリーマンだったとしたら、と翼は考える。仕事で疲れていたにせよ、彼女のマンション近くで恋人のことを待ち伏せする気力と体力が残っていたかもしれない。だが、今現在色々なエネルギー不足により、翼に出来ることはといえば、この部屋、あるいは家に戻ってから携帯で電話するということくらいだった。

(今日はせっかく金曜だってのに、また空振りってことになりそうだな)

 翼が溜息を着いてパソコンを閉じようとした時、不意にドアがコンコンと二度ノックされた。(どうせろくてねえMRかなんかだろう)と翼は思い、「はいはい、どうぞ」といい加減な声音で応じたのだが、その先には彼がこの時もっとも欲しかった存在が待ち受けていた。

「……唯」

 あまりに思ってみなかっただけに、翼は暫く口が聞けないほどだった。唯のほうでは「まだ怒ってる」という顔の表情をしてはいるものの、そんなことは翼にとってもうどうでもいいことだった。

「あ~、なんだおまえ、流石にそろそろ俺が恋しくなってきたのか?」

 彼女のことを恋しく思っているのは自分のほうであったものの、翼は間が持たないあまり、そんなふうに切り出した。

「あの、誤解しないでください。わたし、園田主任に言われて……手術関係の書類に、結城先生の印を押してもらってくるよう頼まれただけですから」

(よくやった、園田!!)と翼は思いながら、受け取った書類の所定の欄に自分の判を押した。先日あった手術中、麻酔科医が戸田で、外回り看護師が江口であったため、翼は思わず自分の今の窮状を吐露していたのである。「だからさ、園田。あいつのことをどうにかうまく説得して、俺と話すようにしてくんねえかな」と……。

(あいつには今度、焼肉を百人前くらい奢ってやろう。いや、あいつと哲ちゃんの整体院の費用を俺が負担してやってもいいくらいだ)

「それじゃ、失礼します」

 唯が妙に礼儀正しくお辞儀して、つんと取り澄ましたまま部屋を出ていこうとするのを、当然翼は止めた。

「それじゃ失礼しますって、そんだけか?先週にあったことは悪かったと俺も思ってるって。けど、俺、月曜から土曜の昼まで働きどおしですっかり疲れててな。なんかもう、おまえに弁解する気力も残ってなかったっていうか……」

「結城先生が、何を言ってるのかよくわかりません。わたしに弁解しなくちゃいけない何かやましいことがあるんだとすれば、近いうちに宅急便で荷物をお送りしますので」

「宅急便って?」

「うちに色々、漫画とかDVDとか、置いてあ……」

(るもののことです)と続けることは、唯には出来なかった。翼が彼女のことを強引に抱き寄せて、ドアの前で激しくキスしてきたそのせいである。

「もう、このろくでなし!!最低男!!もう本当に最低!!」

 唯は術衣の上に白衣を着ている翼の胸元を、そう言って何度も繰り返し叩く。

「もうそろそろ、おまえもつんけんしてるのに飽きただろ?あの日、部屋の前にいた女と俺はなんでもねえの。あいつ、何年かにいっぺん、昔の男の家に行ってはそいつが惨めな暮らししてんじゃねーかと思って、陣中見舞いに来るんだと」

「じゃあ、何年かしたらまたやって来るってこと?」

「いや、その頃にはもうおまえと結婚してるって言っておいたよ」

 翼はそう答えて、唯の首筋の匂いをかぎ、そしてまたキスした。

「こんなことで誤魔化されないんだからっ!!先生はずるいっ!!この卑怯者!!」

 先ほど自分が印を押した書類を踏みつけ、翼はソファの上に唯のことを押し倒した。

「おまえ、どうせもう退勤時刻だろ?だったら、少しくらい……」

 翼は臙脂色の手術着の下に手を入れかけたが、途端、唯に思いきり体を跳ね除けられた。

「まだ仕事が残ってるの!!もう、こんなことくらいでわたしが言うなりになると思わないで!!」

 真っ赤な顔をしてそう怒鳴る唯に、翼は書類を拾って渡した。彼の顔に余裕の笑みが浮かんでいるのを、彼女はどれほど憎らしく思ったことだろう。

 そして翼は最後に、こう殺し文句を唯の耳元に囁く。

「確かに俺はずるいし、卑怯者だ。けど、おまえのことを愛してる」

 部屋から出ていこうとした瞬間、後ろから抱き寄せられ、唯はそう囁かれたのだったが――そんな言葉は聞かなかったというように、そのまま急いでドアを出ていく。

(これでよし、と)

 翼はすっかり心身ともに自分が健康になったと知り、満面の笑顔で思いきり伸びをした。外科病棟まで行って残りの仕事をちゃちゃっと片付けると、久しぶりにオペ室の休憩室で唯のことを待つことにする。

「ははーん。もしかしてさっきので、先生唯ちゃんとうまくいきました?」

「もう、バッチリばっちり。流石園田、俺の心の友よ!!って感じ。今度焼肉でもなんでも、いっくらでも奢ってやる。哲ちゃんと一緒にな」

 辰巳と幸谷と今川がその場にいても、翼のほうではまったく気にしなかった。「ここはドクターが来るところではなくてよ」という冷たい眼差しにも一向動じない。そして唯が休憩室へやって来るなり、「さーて、帰るか」と横から彼女のことを攫うようにしてオペ室から出ていったのである。



 >>続く。





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