![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/95/a22edb5df69235bc3117cfe2bde77079.jpg)
(フェルナン・クノップフ、【私は私自身に対して扉を閉ざす】1891年、ミュンヘン・ノイエピナコテーク所蔵)
今回は、ディキンスンの詩を何篇か紹介させていただこうと思ったり♪(^^)
そして間に一篇だけ、わたしのヘヴォ詩☆を挟んでおりますことをご了承くださいませm(_ _)m
魂のすばらしい瞬間は
独りでいるとき現われる
友達や地上の機会が
無限に遠のいてしまったとき
または魂みずからが
あまりにも高くのぼりすぎ
その全能の地位よりも低い
一切の評価を拒んだとき
このような現世の放棄は
幽霊に劣らず美しい
だがほとんど
うぬぼれた態度をみせない
永遠の黙示は
愛された少数のひとたちだけに
魂の不滅の
巨大な内容をおしえてくれる
(「エミリー・ディキンスン詩集」、新倉俊一さん訳/新潮社より)
魂は自身の社会を選ぶと
後は堅く扉をしめる
もはやその神聖な仲間に
だれも押し加わってはならない
魂の貧しい門の前に
立派な馬車が止まってももう心を惹かれることはない
靴ふきの上にたとえ皇帝がひざまずいても
魂はもう心を動かすことはない
私は知っている
魂が広大な国からただ一人を選びとるのを――
それから後は 石のように
注意の栓をぴたりと閉ざしてしまうのを――
(「エミリ・ディキンスン詩集~自然と愛と孤独と~」、中島完さん訳/国文社刊)
隣りのひとたちや太陽を
心に留めるのと同じ意識が
死を心に留めるのだ
そしてそれだけが
日常の経験と
人間に課せられたあの
最も深遠な実験との
あいだを横切っている
意識自身にとって
その属性はなんと適していることか
あくまでも自己だけで
他のひとにはだれにも見つからない
自己へと向かう冒険に
魂は宿命づけられているのだ
それ自身の本性という
ただ一匹の猟犬を従えて
(「エミリー・ディキンスン詩集」、新倉俊一さん訳/新潮社より)
――わたし自身が思うに、孤独というものには二種類あって、ひとつは「不幸な孤独」、そしてもうひとつは「幸福な孤独」というものです。
さらに、このふたつの孤独の他に、「幸福な孤独」を一般の人に理解してもえぬ孤独、というものがあると思うんですよね。
ディキンスンは詩人としてその「幸福な孤独」を知る、<愛された少数のひと>だったのだと思います。
クノップフの絵に、「沈黙」という絵があって、どこか中性的な顔立ちをした男性が口許に人差し指を当てているという絵なのですが……おそらくこの絵も他のクノップフの作品同様、妹のマルグリットがモデルなのではないかな~という気がしたり(今手元に美術書関連のものが何もないので、正確に調べられないんですけど、わたしの記憶に間違いがなければ^^;)
クノップフの絵は、妹さんをモデルにしつつ、また同時にそれは彼自身でもある……と言われるそうですが、わたし個人の分析としては、クノップフは彼を訪れる詩神(美の女神☆)のイメージを妹さんに被せて描いたのではないかと、そのように感じています(だから、その絵は彼自身でもあり、妹のマルグリットでもあり、またミューズを表現したものでもありえる、ということですね)。
そして「沈黙」のこの、不思議と謎めいた表情をしている男性は、どことなく天使というか、天的存在を思わせるけれど、「自分が何者であるかということは、黙っていてほしい」と言っているように私には思えて仕方なかったり(^^;)
ようするに、ディキンスンのいう「魂の不滅の巨大な内容」というのは、そういうことですよね。
ミューズに選ばれた少数の人にだけ、なんらかの方法によってその「内容」が示されるわけですけど――一般の人に伝えるためにはある部分「通訳」のようなものが必要で、それはまあ批評家と呼ばれるような人たちがすればいいことかもしれないにしても、絵や詩に秘められた本当の意味を知っているのは、描いた本人や詩神だけである、というか。
今まで見たこともない
もっと淋しいものを思ってみようとした
極地での服役とか 骨の中の
死期がさし迫ったしるしとかを
自分と似たものを見つけるために
もはや回復の見込みのない事柄を探してみた――
するとやつれた慰めが湧いてくるのだ
どこか思いのとどく範囲に
神の愛から捨てられた
人間がもう一人
いることを信じて――
お互いの仕切りを引き倒そうとした
ちょうど向かいあった独房の中にいる自分と
その不安の双生児をへだてている
壁を破ろうとするひとのように
もう少しで彼の手をにぎれそうだった
すると深い喜びに高まっていった
私が彼を憐れんでいるように
おそらく彼自身も私を憐れんでいてくれるだろうと
(「エミリー・ディキンスン~不在の肖像~」、新倉俊一さん著/大修館書店刊)
私は美のために死んだ
墓になじむとすぐ
真実のために死んだ人が
隣りの部屋に横たえられた
彼は優しく尋ねた
「何故亡くなられたのですか」
「美のために」と私は答えた
「私は真実のため――二つは一つのもの。
私たちは兄弟です」と彼は言った
夜になると身内同士として
私達は部屋を隔てて語りあった
とうとう苔が私達の唇に達し
私達の名をおおってしまうまで――
弓プレスさん刊の「エミリ・ディキンスンの手紙」(山川瑞明さん、武田雅子さん編訳)によると、巻末の詩篇抄にこのような解説があります。
>>美と真理の一致はよく取り上げられるテーマだが、二者の墓での対話という設定にディキンスンらしい斬新さがある。
そして特に最後で、語り合う二人の唇を苔がおおうというイメージは永遠の時間をドキッとするばかりに具体性をもって捉えたもの。
これは美と真理が一体になった不滅を言うのだろうか、両者共に朽ち果てることを言うのだろうか。
わたしの個人的な解釈としては、やはり前者――美と真理が一体になった不滅のことを指すのだろうと思っています♪(^^)
ディキンスンのこの詩を読まれた方の多くが、おそらくは詩の行と行の間に何か抑制された、禁欲的なエロティシズムのようなものを感じると思うのですが、如何なものでしょう(笑)
ディキンスンの詩には、奇妙な恋愛詩や結婚を歌ったものが多いとの指摘がありますが、それらは遠まわしに詩神(ミューズ)との婚姻を歌っているので、それでわかりにくくなっているとわたしは勝手に解釈しています(^^;)
まあ、ワズワース牧師であるとか、現実に実在した人物との架空の結婚や精神的恋愛を歌ったものだとする解釈も可能とは思いますが、その場合でもやはり、詩神の存在を実在の人物に被せているだけ、という意味では、やはりミューズとの恋愛や結婚を歌ったものと定義しても間違いではないように思うんですよね。
では、最後にディキンスンの恋愛や結婚に関する詩を紹介する前に――それらの詩をよりわかりやすくするために、わたしのヘヴォ詩☆を先に挿入して、それからディキンスンの詩を写したいと思いますm(_ _)m
(わたしの書いたもの☆)
憎らしいことに
最近彼女は詩を書いていない――
そんなことでは「食べていけぬ」
などという俗っぽい理由で
僕の存在を断固拒否しているのだ
だから僕は今夜
彼女に官能的な口接けをひとつくれてやった――
それでようやく彼女は再び
詩を書きはじめ
「これでご満足?」などと高慢に澄まして
完成したものを僕に見せた
「まあ、悪くはない」と僕が言うと
彼女は肩を竦めてこう言い放った――
「金輪際、あなたのために詩なんて
一篇も書きませんからね」
怒り心頭に発した僕は
彼女の手をとるとベッドに押し倒すことにした
天使の知らない欲望について
彼女に充分教えるために――
(以下はディキンスンの恋愛及び結婚についての詩五篇です♪^^)
いつもあなたを愛していたと
証拠を見せもしよう
あなたを愛するまでは
私は十分生きることもなかったと
いつまでもあなたを愛すると
証をたててもいい
愛することこそ生命
そして生命は不滅を持つと
愛する人よ これを疑うのか
それならば私には
もう何もない
この十字架をただ見せるだけ
(『エミリー・ディキンスン詩集~自然と愛と孤独と~』、中島完さん訳/国文社刊)
わたしは「主婦」――いまはもう終えたのだ
もうひとつの身分を
わたしは皇帝――わたしはもう「女」だ
この方がずっと安全だ
娘時代はなんて奇妙だろう
このおだやかな月食からみると
天国の人々にとっても
地上はそう感じられるだろう
これが安らぎというものなら
もう一方は苦しみだ
でもなぜ比べる必要があるだろう?
わたしは「主婦」!そこでやめよう!
(『エミリー・ディキンスン詩集』、新倉俊一さん訳/新潮社刊より)
神聖な資格はわたしのもの
しるしのない主婦!
わたしに与えられた鋭い身分――
カルヴァリの女王!
王冠だけない王位!
神が女性たちに与える
気絶を知らずに婚約した者
ガーネットにガーネットを
黄金に黄金を合わせるとき
一日のうちに
生まれて――花嫁となり――死衣装に包まれる――
メロディをなでるように
「わたしの夫」と彼女たちは言う
これがその調子かしら?
(『エミリー・ディキンスン詩集』、新倉俊一さん訳/新潮社刊より)
夜明けには わたしは妻でしょう
日の出よ おまえはわたしのために旗を振ってくれるの?
花嫁になるのはなんとつかの間でしょう
さあ 真夜中よ、おまえを通過して
もうあの東に 勝利に辿りついたのです
真夜中よ、さようなら わたしを呼んでいます
天使たちが天国でざわめいています
静かにわたしの未来が階段を昇り
わたしは子供のころのお祈りを口ごもっています
もうすぐ子供ではなくなるのです
永遠よ、さあ 参ります
救い主よ、あなたのお顔は前に見たことがあります!
(『エミリー・ディキンスン詩集』、新倉俊一さん訳/新潮社刊より)
ながい別離だったが――ついに
再会の時がやってきた
神の審きの座のまえで
最後で二度目のとき――
肉体のない恋人たちはめぐりあった
ただの一瞥の天国――
それはお互いの目の特権で
天国のなかの天国だ――
二人にはどんな生涯の期限もなく
まだ生まれてない新しきひととして装われている
ただすでに互いに見つめ合って
限りない存在となっているだけだ
婚礼とはいつもこのようなものだろうか
天国の主人と
ケルヴィムとセラフィムの天使たち
それにつつましいお客――
(「エミリー・ディキンスン詩集」、新倉俊一さん訳/新潮社刊より)
(エドワード・バーン=ジョーンズ、【黄金の階段】1880年、ロンドン・テイト美術館所蔵)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/71/86739860785e4e26eeb4c305c45d917d.jpg)
今回は、ディキンスンの詩を何篇か紹介させていただこうと思ったり♪(^^)
そして間に一篇だけ、わたしのヘヴォ詩☆を挟んでおりますことをご了承くださいませm(_ _)m
魂のすばらしい瞬間は
独りでいるとき現われる
友達や地上の機会が
無限に遠のいてしまったとき
または魂みずからが
あまりにも高くのぼりすぎ
その全能の地位よりも低い
一切の評価を拒んだとき
このような現世の放棄は
幽霊に劣らず美しい
だがほとんど
うぬぼれた態度をみせない
永遠の黙示は
愛された少数のひとたちだけに
魂の不滅の
巨大な内容をおしえてくれる
(「エミリー・ディキンスン詩集」、新倉俊一さん訳/新潮社より)
魂は自身の社会を選ぶと
後は堅く扉をしめる
もはやその神聖な仲間に
だれも押し加わってはならない
魂の貧しい門の前に
立派な馬車が止まってももう心を惹かれることはない
靴ふきの上にたとえ皇帝がひざまずいても
魂はもう心を動かすことはない
私は知っている
魂が広大な国からただ一人を選びとるのを――
それから後は 石のように
注意の栓をぴたりと閉ざしてしまうのを――
(「エミリ・ディキンスン詩集~自然と愛と孤独と~」、中島完さん訳/国文社刊)
隣りのひとたちや太陽を
心に留めるのと同じ意識が
死を心に留めるのだ
そしてそれだけが
日常の経験と
人間に課せられたあの
最も深遠な実験との
あいだを横切っている
意識自身にとって
その属性はなんと適していることか
あくまでも自己だけで
他のひとにはだれにも見つからない
自己へと向かう冒険に
魂は宿命づけられているのだ
それ自身の本性という
ただ一匹の猟犬を従えて
(「エミリー・ディキンスン詩集」、新倉俊一さん訳/新潮社より)
――わたし自身が思うに、孤独というものには二種類あって、ひとつは「不幸な孤独」、そしてもうひとつは「幸福な孤独」というものです。
さらに、このふたつの孤独の他に、「幸福な孤独」を一般の人に理解してもえぬ孤独、というものがあると思うんですよね。
ディキンスンは詩人としてその「幸福な孤独」を知る、<愛された少数のひと>だったのだと思います。
クノップフの絵に、「沈黙」という絵があって、どこか中性的な顔立ちをした男性が口許に人差し指を当てているという絵なのですが……おそらくこの絵も他のクノップフの作品同様、妹のマルグリットがモデルなのではないかな~という気がしたり(今手元に美術書関連のものが何もないので、正確に調べられないんですけど、わたしの記憶に間違いがなければ^^;)
クノップフの絵は、妹さんをモデルにしつつ、また同時にそれは彼自身でもある……と言われるそうですが、わたし個人の分析としては、クノップフは彼を訪れる詩神(美の女神☆)のイメージを妹さんに被せて描いたのではないかと、そのように感じています(だから、その絵は彼自身でもあり、妹のマルグリットでもあり、またミューズを表現したものでもありえる、ということですね)。
そして「沈黙」のこの、不思議と謎めいた表情をしている男性は、どことなく天使というか、天的存在を思わせるけれど、「自分が何者であるかということは、黙っていてほしい」と言っているように私には思えて仕方なかったり(^^;)
ようするに、ディキンスンのいう「魂の不滅の巨大な内容」というのは、そういうことですよね。
ミューズに選ばれた少数の人にだけ、なんらかの方法によってその「内容」が示されるわけですけど――一般の人に伝えるためにはある部分「通訳」のようなものが必要で、それはまあ批評家と呼ばれるような人たちがすればいいことかもしれないにしても、絵や詩に秘められた本当の意味を知っているのは、描いた本人や詩神だけである、というか。
今まで見たこともない
もっと淋しいものを思ってみようとした
極地での服役とか 骨の中の
死期がさし迫ったしるしとかを
自分と似たものを見つけるために
もはや回復の見込みのない事柄を探してみた――
するとやつれた慰めが湧いてくるのだ
どこか思いのとどく範囲に
神の愛から捨てられた
人間がもう一人
いることを信じて――
お互いの仕切りを引き倒そうとした
ちょうど向かいあった独房の中にいる自分と
その不安の双生児をへだてている
壁を破ろうとするひとのように
もう少しで彼の手をにぎれそうだった
すると深い喜びに高まっていった
私が彼を憐れんでいるように
おそらく彼自身も私を憐れんでいてくれるだろうと
(「エミリー・ディキンスン~不在の肖像~」、新倉俊一さん著/大修館書店刊)
私は美のために死んだ
墓になじむとすぐ
真実のために死んだ人が
隣りの部屋に横たえられた
彼は優しく尋ねた
「何故亡くなられたのですか」
「美のために」と私は答えた
「私は真実のため――二つは一つのもの。
私たちは兄弟です」と彼は言った
夜になると身内同士として
私達は部屋を隔てて語りあった
とうとう苔が私達の唇に達し
私達の名をおおってしまうまで――
弓プレスさん刊の「エミリ・ディキンスンの手紙」(山川瑞明さん、武田雅子さん編訳)によると、巻末の詩篇抄にこのような解説があります。
>>美と真理の一致はよく取り上げられるテーマだが、二者の墓での対話という設定にディキンスンらしい斬新さがある。
そして特に最後で、語り合う二人の唇を苔がおおうというイメージは永遠の時間をドキッとするばかりに具体性をもって捉えたもの。
これは美と真理が一体になった不滅を言うのだろうか、両者共に朽ち果てることを言うのだろうか。
わたしの個人的な解釈としては、やはり前者――美と真理が一体になった不滅のことを指すのだろうと思っています♪(^^)
ディキンスンのこの詩を読まれた方の多くが、おそらくは詩の行と行の間に何か抑制された、禁欲的なエロティシズムのようなものを感じると思うのですが、如何なものでしょう(笑)
ディキンスンの詩には、奇妙な恋愛詩や結婚を歌ったものが多いとの指摘がありますが、それらは遠まわしに詩神(ミューズ)との婚姻を歌っているので、それでわかりにくくなっているとわたしは勝手に解釈しています(^^;)
まあ、ワズワース牧師であるとか、現実に実在した人物との架空の結婚や精神的恋愛を歌ったものだとする解釈も可能とは思いますが、その場合でもやはり、詩神の存在を実在の人物に被せているだけ、という意味では、やはりミューズとの恋愛や結婚を歌ったものと定義しても間違いではないように思うんですよね。
では、最後にディキンスンの恋愛や結婚に関する詩を紹介する前に――それらの詩をよりわかりやすくするために、わたしのヘヴォ詩☆を先に挿入して、それからディキンスンの詩を写したいと思いますm(_ _)m
(わたしの書いたもの☆)
憎らしいことに
最近彼女は詩を書いていない――
そんなことでは「食べていけぬ」
などという俗っぽい理由で
僕の存在を断固拒否しているのだ
だから僕は今夜
彼女に官能的な口接けをひとつくれてやった――
それでようやく彼女は再び
詩を書きはじめ
「これでご満足?」などと高慢に澄まして
完成したものを僕に見せた
「まあ、悪くはない」と僕が言うと
彼女は肩を竦めてこう言い放った――
「金輪際、あなたのために詩なんて
一篇も書きませんからね」
怒り心頭に発した僕は
彼女の手をとるとベッドに押し倒すことにした
天使の知らない欲望について
彼女に充分教えるために――
(以下はディキンスンの恋愛及び結婚についての詩五篇です♪^^)
いつもあなたを愛していたと
証拠を見せもしよう
あなたを愛するまでは
私は十分生きることもなかったと
いつまでもあなたを愛すると
証をたててもいい
愛することこそ生命
そして生命は不滅を持つと
愛する人よ これを疑うのか
それならば私には
もう何もない
この十字架をただ見せるだけ
(『エミリー・ディキンスン詩集~自然と愛と孤独と~』、中島完さん訳/国文社刊)
わたしは「主婦」――いまはもう終えたのだ
もうひとつの身分を
わたしは皇帝――わたしはもう「女」だ
この方がずっと安全だ
娘時代はなんて奇妙だろう
このおだやかな月食からみると
天国の人々にとっても
地上はそう感じられるだろう
これが安らぎというものなら
もう一方は苦しみだ
でもなぜ比べる必要があるだろう?
わたしは「主婦」!そこでやめよう!
(『エミリー・ディキンスン詩集』、新倉俊一さん訳/新潮社刊より)
神聖な資格はわたしのもの
しるしのない主婦!
わたしに与えられた鋭い身分――
カルヴァリの女王!
王冠だけない王位!
神が女性たちに与える
気絶を知らずに婚約した者
ガーネットにガーネットを
黄金に黄金を合わせるとき
一日のうちに
生まれて――花嫁となり――死衣装に包まれる――
メロディをなでるように
「わたしの夫」と彼女たちは言う
これがその調子かしら?
(『エミリー・ディキンスン詩集』、新倉俊一さん訳/新潮社刊より)
夜明けには わたしは妻でしょう
日の出よ おまえはわたしのために旗を振ってくれるの?
花嫁になるのはなんとつかの間でしょう
さあ 真夜中よ、おまえを通過して
もうあの東に 勝利に辿りついたのです
真夜中よ、さようなら わたしを呼んでいます
天使たちが天国でざわめいています
静かにわたしの未来が階段を昇り
わたしは子供のころのお祈りを口ごもっています
もうすぐ子供ではなくなるのです
永遠よ、さあ 参ります
救い主よ、あなたのお顔は前に見たことがあります!
(『エミリー・ディキンスン詩集』、新倉俊一さん訳/新潮社刊より)
ながい別離だったが――ついに
再会の時がやってきた
神の審きの座のまえで
最後で二度目のとき――
肉体のない恋人たちはめぐりあった
ただの一瞥の天国――
それはお互いの目の特権で
天国のなかの天国だ――
二人にはどんな生涯の期限もなく
まだ生まれてない新しきひととして装われている
ただすでに互いに見つめ合って
限りない存在となっているだけだ
婚礼とはいつもこのようなものだろうか
天国の主人と
ケルヴィムとセラフィムの天使たち
それにつつましいお客――
(「エミリー・ディキンスン詩集」、新倉俊一さん訳/新潮社刊より)
(エドワード・バーン=ジョーンズ、【黄金の階段】1880年、ロンドン・テイト美術館所蔵)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/71/86739860785e4e26eeb4c305c45d917d.jpg)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます