(ローレンス・アルマ=タデマ【ヘリオガバルスの薔薇】1888年、個人所蔵)
これが詩人だったのだ
日常の意味あいから
驚くべき感覚を蒸留してしまう人――
年毎に戸口で枯れてゆく
何気ない草花から
すばらしい香油をとり出す人――
以前には私たちだってそれを摘んだのにと
みんなは不思議がる
絵画でいえば 美を暴く人
それが詩人――
比較するなら 私たちは
絶え間ない貧困と呼ばれそう
財産など気にもかけないから
略奪も傷つけることはない
詩人には自身が財産なのだ
時間の外側で――
(『エミリ・ディキンスン詩集~続自然と愛と孤独と~』、中島完さん訳/国文社刊より)
ディキンスンについては、前からずっと何か書きたいとは思ってたんですけど――彼女のことがあまりに好きすぎるせいか、どうも自分的に気に入った文章を書けずに終わってしまうんですよね
そんなわけで、エミリーのことを断片的に色々書いてみるのはどうかな~と思って、彼女のどんなところが好きかとか、そんなことを軽い気持ちで書いてみようと思いました♪(^^)
ディキンスンに纏わるエピソードとして有名なのが、生涯の半ばで家に引きこもるようになり、その後ほとんど隠遁生活と呼んでいい生活を送った……ということかもしれません。
まあ、簡単にいえば、今でいう社会的な意味での<引きこもり>といってもいいと思います。
これを「神経症的な性格によるもの」と考える研究者の方もいるようですし、また彼女自身が「自分の芸術のスタイル」としてそのような生き方を自ら選びとった、と捉える方もいます。
わたし自身はまあ、その中間くらいかな~と思ったりするんですよね(^^;)
ただ、ひとつだけ言えるのは、エミリーが自分の内面に内的宇宙とも呼ぶべき広大な土地を発見し、それを外的自然や宇宙と同調させる術を知っているタイプの詩人だった、とは言えると思います。
彼女の詩の中に、自分を途方もない金持ちだと歌った詩があると思うんですけど、エミリーは自分の中に<純金>があるのを発見して以来、生涯それを守ることに心血を注ぐ生き方をしたのだ、ともいえるかもしれません。
まだ少女の頃
神さまがそれを私にくださいました
幼く小さいときが
人々はいちばんよく贈り物をしてくれるもの――
私はそれを手に持って
決して下に置くことなどしませんでした
食べることも眠ることも控えました
なくなることを怖れたのです――
私が学校へ急いでゆくときなど
「お金持ちよ!」そんな言葉が
通りの角で 人々の唇から聞こえました
私は微笑を押えるのでした――
「お金持ち!」 この私がお金持ちなのでした
黄金の名前を手にすることと
黄金の純粋な棒を所有すること
この違いが 私を大胆にさせました――
(『エミリ・ディキンスン詩集~自然と愛と孤独と~第4集』、中島完さん訳/国文社刊より)
ディキンスンのお父さんとお兄さんという人は、ともに町の名士だったので、彼女自身は何か暮らし向きに困っていたということもなく――家に引きこもっていたからといって、口さがない世間の人々にあれこれ言われて居心地の悪い思いを味わわなければならない……といったこともなかったようです。
エミリーはトマス・ウェントワース・ヒギンスンという批評家に、31歳の時に「自分の詩が息をしているかどうか」と手紙で訊ねているのですが、ヒギンスンは彼女の詩人としての才能を見抜けず、「出版には適さない」という返事を出しています。
そのせいでエミリーは生前は無名のまま終わり、死後に<永遠の名声>を確立することになるわけですけど――まあ、ディキンスンの伝記を知っている方は大体、「ヒギンスンってバカじゃね?」と言いたい誘惑に駆られるというか(^^;)
でも、それと同時に、彼がエミリーの命を救ったというのも事実だと思うんですよね。
もちろん、ここでいう命というのは、肉体的な命のことではなく――精神の、とか魂の、ということなんですけど……そしてヒギンスンの一番の功績は何より、ディキンスンに直接会って話をし、その時のことを後世の人に伝えている、ということでしょうか。
その時の会見の模様をヒギンスンが奥さんに宛てた手紙でどう語っているか、抜粋したいと思います。
「女性はおしゃべりをし、男性は寡黙です。だから私は女性を恐れるのです」
「もし私がある本を読んで、身体全体がどんな火でも暖めることが出来ないくらい冷たくなったら、私にはそれが<詩>だとわかります。まるで私の頭の先が取り去られるように体で感じたら、それが<詩>だとわかるのです。これだけが、私が詩を知る方法です。他に方法があるでしょうか」
「大抵の人は何も考えずにどうやって生きているのでしょうか。この世の中には(あなたも街で気づかれたに違いありませんが)たくさんの人々がいます。あの人たちはどうやって生きているのでしょうか。朝、服を着る力をどうやって手に入れているのでしょう」
「真実は大変まれなものなので、それを告げることは喜ばしいことです」
「生きていることに恍惚を覚えます――ただ生きていると感じるだけで十分な喜びです」
私は彼女に何かやりたいと思わないのか、決して家を離れないのか、どんな客にも決して会わないのかと訊ねた。
「私はそんなこと思ってみたこともありません。これから先ずっとそんな必要性を少しも感じはしないでしょう」
(更につけ加えて)
「私は十分はっきりと自分の思うことを申していないと感じます」
彼女はパンをすべて作る、というのは彼女の父上が彼女のパンだけを好むから。
「それに人々にはプリンが要ります」と大変夢見心地に言う、まるでプリンが彗星みたいに――だから彼女はプリンも作る。
(「エミリ・ディキンスンの手紙」山川瑞明さん・武田雅子さん編訳/弓プレス)
……おわかりでしょうか?(笑)
いくら文通していたとはいえ、初対面の相手にこうした感じで話をするというのは――エミリーが普段からかなり<特異>な(もっというなら<異常>な)人だったということが窺えると思います。
ヒギンスンは彼女との会見の印象について、次のように書いているので、こちらも抜粋してみますね。
「わたしの神経をこれほど消耗させる人と一緒にいたことがない。彼女に触れないのに、彼女は私から吸い取っていった。私は彼女のそばに住んでいるのではなくてありがたい。彼女は何度も私が疲れているのではと気にかけ、他人に対して思いやりが深いように見えた」
(「エミリ・ディキンスンの手紙」山川瑞明さん・武田雅子さん編訳/弓プレス)
つまり、あまりにも鋭くて無駄のない、謎めいた意味のある言葉遣いをする人間にとっては、「普通の人が求めるような普通の会話が出来ない」、ゆえに相手に苦痛すら与えてしまう、という側面があるわけです。
これを一種の神経症ととるか、それともエミリー自身にとっての<普通>が他の人にとっては異常であったと認識するかは、なんとも難しいところではないかという気がします(^^;)
こう説明しても、少しわかりにくいかもしれないので、補足すると――ディキンスンは今より百年以上も昔に生きた人ですけれども、家に引きこもって外へ出なかった、また人と関わることを極力避けようとしたという意味で、実はすごく現代的な人だったのではないか、ということなんですよね。
長く家に引きこもっていたり、あるいは対人関係に悩む人がカウンセリングの現場で、次のようなことを相談することがあるというのを聞いたことがあります。
Aさんが世間話として、「今日はいい天気だね」と話しかけてきた……ところがB君はなんて言ったらいいのかがわからない。何故かというと、今日がとてもいい天気だというのは、外の景色や空を見ればわかるのに――「そうですね」以上のことをどう答えたらいいのかが理解できない、という話。
つまり、相手が善意で自分に話しかけてくれているのはよくわかっている。けれども、「そうですね」以上のことを答えられない自分に苦痛を感じるというわけです(^^;)
ディキンスンの詩を読めばわかるとおり、彼女もまた<言葉>というものに物凄く鋭敏な感覚を持った人でした。
ゆえに、彼女にとっては「意味のない言葉を話すのが苦痛だった」、でも世間一般の人々というのは、意味のない何気ない言葉を話すのを習慣としている……そしてエミリーはそこに自分を慣らすことが出来なかったのではないかと、わたしはそう想像するんですよね。
ディキンスンの詩や手紙を読めば、彼女がいかに純粋で繊細、そして優しい気持ちを持った女性であったかがわかるわけですけど――そうした<気持ち>というのは大体、今の「引きこもり」と呼ばれる方にも通じるところが多いのではないかとわたしは感じています。
では、エミリーの「引きこもり宣言」とも読めそうな詩を最後に一篇紹介して、今回の記事の終わりとしたいと思いますm(_ _)m
魂は自身の社会を選ぶと
後は堅く扉をしめる
もはやその神聖な仲間に
だれも押し加わってはならない
魂の貧しい門の前に
立派な馬車が止まってももう心を惹かれることはない
靴ふきの上にたとえ皇帝がひざまずいても
魂はもう心を動かすことはない
私は知っている
魂が広大な国からただ一人を選びとるのを――
それから後は 石のように
注意の栓をぴたりと閉ざしてしまうのを――
(『エミリ・ディキンスン詩集~自然と愛と孤独と~』、中島完さん訳/国文社刊より)
これが詩人だったのだ
日常の意味あいから
驚くべき感覚を蒸留してしまう人――
年毎に戸口で枯れてゆく
何気ない草花から
すばらしい香油をとり出す人――
以前には私たちだってそれを摘んだのにと
みんなは不思議がる
絵画でいえば 美を暴く人
それが詩人――
比較するなら 私たちは
絶え間ない貧困と呼ばれそう
財産など気にもかけないから
略奪も傷つけることはない
詩人には自身が財産なのだ
時間の外側で――
(『エミリ・ディキンスン詩集~続自然と愛と孤独と~』、中島完さん訳/国文社刊より)
ディキンスンについては、前からずっと何か書きたいとは思ってたんですけど――彼女のことがあまりに好きすぎるせいか、どうも自分的に気に入った文章を書けずに終わってしまうんですよね
そんなわけで、エミリーのことを断片的に色々書いてみるのはどうかな~と思って、彼女のどんなところが好きかとか、そんなことを軽い気持ちで書いてみようと思いました♪(^^)
ディキンスンに纏わるエピソードとして有名なのが、生涯の半ばで家に引きこもるようになり、その後ほとんど隠遁生活と呼んでいい生活を送った……ということかもしれません。
まあ、簡単にいえば、今でいう社会的な意味での<引きこもり>といってもいいと思います。
これを「神経症的な性格によるもの」と考える研究者の方もいるようですし、また彼女自身が「自分の芸術のスタイル」としてそのような生き方を自ら選びとった、と捉える方もいます。
わたし自身はまあ、その中間くらいかな~と思ったりするんですよね(^^;)
ただ、ひとつだけ言えるのは、エミリーが自分の内面に内的宇宙とも呼ぶべき広大な土地を発見し、それを外的自然や宇宙と同調させる術を知っているタイプの詩人だった、とは言えると思います。
彼女の詩の中に、自分を途方もない金持ちだと歌った詩があると思うんですけど、エミリーは自分の中に<純金>があるのを発見して以来、生涯それを守ることに心血を注ぐ生き方をしたのだ、ともいえるかもしれません。
まだ少女の頃
神さまがそれを私にくださいました
幼く小さいときが
人々はいちばんよく贈り物をしてくれるもの――
私はそれを手に持って
決して下に置くことなどしませんでした
食べることも眠ることも控えました
なくなることを怖れたのです――
私が学校へ急いでゆくときなど
「お金持ちよ!」そんな言葉が
通りの角で 人々の唇から聞こえました
私は微笑を押えるのでした――
「お金持ち!」 この私がお金持ちなのでした
黄金の名前を手にすることと
黄金の純粋な棒を所有すること
この違いが 私を大胆にさせました――
(『エミリ・ディキンスン詩集~自然と愛と孤独と~第4集』、中島完さん訳/国文社刊より)
ディキンスンのお父さんとお兄さんという人は、ともに町の名士だったので、彼女自身は何か暮らし向きに困っていたということもなく――家に引きこもっていたからといって、口さがない世間の人々にあれこれ言われて居心地の悪い思いを味わわなければならない……といったこともなかったようです。
エミリーはトマス・ウェントワース・ヒギンスンという批評家に、31歳の時に「自分の詩が息をしているかどうか」と手紙で訊ねているのですが、ヒギンスンは彼女の詩人としての才能を見抜けず、「出版には適さない」という返事を出しています。
そのせいでエミリーは生前は無名のまま終わり、死後に<永遠の名声>を確立することになるわけですけど――まあ、ディキンスンの伝記を知っている方は大体、「ヒギンスンってバカじゃね?」と言いたい誘惑に駆られるというか(^^;)
でも、それと同時に、彼がエミリーの命を救ったというのも事実だと思うんですよね。
もちろん、ここでいう命というのは、肉体的な命のことではなく――精神の、とか魂の、ということなんですけど……そしてヒギンスンの一番の功績は何より、ディキンスンに直接会って話をし、その時のことを後世の人に伝えている、ということでしょうか。
その時の会見の模様をヒギンスンが奥さんに宛てた手紙でどう語っているか、抜粋したいと思います。
「女性はおしゃべりをし、男性は寡黙です。だから私は女性を恐れるのです」
「もし私がある本を読んで、身体全体がどんな火でも暖めることが出来ないくらい冷たくなったら、私にはそれが<詩>だとわかります。まるで私の頭の先が取り去られるように体で感じたら、それが<詩>だとわかるのです。これだけが、私が詩を知る方法です。他に方法があるでしょうか」
「大抵の人は何も考えずにどうやって生きているのでしょうか。この世の中には(あなたも街で気づかれたに違いありませんが)たくさんの人々がいます。あの人たちはどうやって生きているのでしょうか。朝、服を着る力をどうやって手に入れているのでしょう」
「真実は大変まれなものなので、それを告げることは喜ばしいことです」
「生きていることに恍惚を覚えます――ただ生きていると感じるだけで十分な喜びです」
私は彼女に何かやりたいと思わないのか、決して家を離れないのか、どんな客にも決して会わないのかと訊ねた。
「私はそんなこと思ってみたこともありません。これから先ずっとそんな必要性を少しも感じはしないでしょう」
(更につけ加えて)
「私は十分はっきりと自分の思うことを申していないと感じます」
彼女はパンをすべて作る、というのは彼女の父上が彼女のパンだけを好むから。
「それに人々にはプリンが要ります」と大変夢見心地に言う、まるでプリンが彗星みたいに――だから彼女はプリンも作る。
(「エミリ・ディキンスンの手紙」山川瑞明さん・武田雅子さん編訳/弓プレス)
……おわかりでしょうか?(笑)
いくら文通していたとはいえ、初対面の相手にこうした感じで話をするというのは――エミリーが普段からかなり<特異>な(もっというなら<異常>な)人だったということが窺えると思います。
ヒギンスンは彼女との会見の印象について、次のように書いているので、こちらも抜粋してみますね。
「わたしの神経をこれほど消耗させる人と一緒にいたことがない。彼女に触れないのに、彼女は私から吸い取っていった。私は彼女のそばに住んでいるのではなくてありがたい。彼女は何度も私が疲れているのではと気にかけ、他人に対して思いやりが深いように見えた」
(「エミリ・ディキンスンの手紙」山川瑞明さん・武田雅子さん編訳/弓プレス)
つまり、あまりにも鋭くて無駄のない、謎めいた意味のある言葉遣いをする人間にとっては、「普通の人が求めるような普通の会話が出来ない」、ゆえに相手に苦痛すら与えてしまう、という側面があるわけです。
これを一種の神経症ととるか、それともエミリー自身にとっての<普通>が他の人にとっては異常であったと認識するかは、なんとも難しいところではないかという気がします(^^;)
こう説明しても、少しわかりにくいかもしれないので、補足すると――ディキンスンは今より百年以上も昔に生きた人ですけれども、家に引きこもって外へ出なかった、また人と関わることを極力避けようとしたという意味で、実はすごく現代的な人だったのではないか、ということなんですよね。
長く家に引きこもっていたり、あるいは対人関係に悩む人がカウンセリングの現場で、次のようなことを相談することがあるというのを聞いたことがあります。
Aさんが世間話として、「今日はいい天気だね」と話しかけてきた……ところがB君はなんて言ったらいいのかがわからない。何故かというと、今日がとてもいい天気だというのは、外の景色や空を見ればわかるのに――「そうですね」以上のことをどう答えたらいいのかが理解できない、という話。
つまり、相手が善意で自分に話しかけてくれているのはよくわかっている。けれども、「そうですね」以上のことを答えられない自分に苦痛を感じるというわけです(^^;)
ディキンスンの詩を読めばわかるとおり、彼女もまた<言葉>というものに物凄く鋭敏な感覚を持った人でした。
ゆえに、彼女にとっては「意味のない言葉を話すのが苦痛だった」、でも世間一般の人々というのは、意味のない何気ない言葉を話すのを習慣としている……そしてエミリーはそこに自分を慣らすことが出来なかったのではないかと、わたしはそう想像するんですよね。
ディキンスンの詩や手紙を読めば、彼女がいかに純粋で繊細、そして優しい気持ちを持った女性であったかがわかるわけですけど――そうした<気持ち>というのは大体、今の「引きこもり」と呼ばれる方にも通じるところが多いのではないかとわたしは感じています。
では、エミリーの「引きこもり宣言」とも読めそうな詩を最後に一篇紹介して、今回の記事の終わりとしたいと思いますm(_ _)m
魂は自身の社会を選ぶと
後は堅く扉をしめる
もはやその神聖な仲間に
だれも押し加わってはならない
魂の貧しい門の前に
立派な馬車が止まってももう心を惹かれることはない
靴ふきの上にたとえ皇帝がひざまずいても
魂はもう心を動かすことはない
私は知っている
魂が広大な国からただ一人を選びとるのを――
それから後は 石のように
注意の栓をぴたりと閉ざしてしまうのを――
(『エミリ・ディキンスン詩集~自然と愛と孤独と~』、中島完さん訳/国文社刊より)
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