一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

愛された罪人

2017-02-24 07:35:08 | カトリック
「私たちは罪人です。しかし愛された罪人です」
今から数年前の2月に帰天された私の知る聴罪司祭はよくこう仰っていたのを思い出しました。
いよいよ来週から四旬節が始まります。テーマは罪と犠牲、贖いそして愛です。私たち人類は贖い主である主イエズスが死ななければ悲惨でありました。不幸のまま希望もありませんでした。しかし主は死ぬ義務も理由も無いにも関わらず、創造主が被造物のためにあの悲劇の死を遂げたのでした。全知全能の主です。死が無くとも私たちを救うのは簡単であったはずです。しかしなぜそうなさらずに、命をかけて私たちを救われたのかを、私たちはよくよく考える必要があります。
完璧ではない罪人の人間が、完璧で罪が全く無い主が贖って下さった事です。
それでは私たちがこの恩をどのようにお返ししたら良いでしょうか。この世の多くの人はまだ主を知りません。知らないばかりか、多くの人は意図的に主に対して忘恩そして侮辱さえしています。
私たちと神様の関係は時代が変わっても何も変わりません。被造物と創造主の関係です。私たちに対する愛も変わりません。変わったのは私たちの方です。神様と人間を対等の立場と見なし始めてきています(ヒューマニズム)。愛された罪人という看板を盾に神様に権利主張をし始めました。伝統を否定して新しい教えを信じ始めました(開かれた教会)。心さえ裏切らなければ体は何をしてもいいという有り得ない理論を持って主を裏切っています。
私たちの大切な家族の遺影を、ただの写真に過ぎないからと踏みつけても大丈夫でしょうか?
ミサで私たちは主にお会い出来ます。ミサ中被造物の私たちは創造主にどのような姿勢をするべきでしょうか。聖変化、御聖体拝領での伝統に反する立ち振る舞いを強要するのはなぜですか。ファリサイ派の人々はどのような人たちだったのでしょうか。言葉ではファリサイ派を批判はしますが、やっていることの次元は全く同じ事では無いでしょうか。
聖書の中で罪を許された人たちはどのようにしていたでしょうか。私たちは罪人であることを決して忘れてはいけません。
祈り犠牲を捧げましょう。

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