一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

危険な思想

2017-02-01 07:33:30 | カトリック
私が大学三年生の時、四年生のある方の卒業論文を手伝ったことがあります。その人の卒業論文はずばり、「隠れキリシタン」が題材だったからです。私は地元の図書館からあらゆる関連本を集めました。その人は大学の図書館から集めてきた本と私の本を読み漁りました。もちろん詳しく読んだ本もあれば掻い摘まんで読む本もありましたが、その頃はまだ亡くなって間もない遠藤周作氏の本もありました。
最近遠藤周作の沈黙という本が映画になりましたが、私の中で「沈黙」は信仰に悪影響の本だと思っているので、興味が無いのでその映画の詳細はわかりません。しかし、その映画の監督はかつてイエズスを侮辱した映画の監督であるので、今回の映画には何かしらのメッセージがあるのだと思います。良いカトリック信者は、同じく殉教した聖トマス・モア「我が命つきるとも」や「汚れなき悪戯」を観た方が精神衛生上よろしいかと思います。
さて、数々のキリシタン本の中で一際輝くのは遠藤周作のキリシタンに関する書物でした。カトリック信者では無いけども研究したといわれる学者達の方がまだキリシタンに対するイメージは、比較的中立かやや同情的なのですが、私と同じく『カトリック信者』と称する遠藤周作の立場はまったく異質だったのを覚えています。むしろ先輩に「遠藤周作ってキリシタンに厳しくない?」と言われた程でした。私の覚えている範囲で要約すると、キリシタン達には、『真の信仰の理解があったのか』『神はそこまで(殉教)求めていたのか』につきます。そして西洋の精神が日本において通用するものなかという自問さえしているのです!彼の神学者気取りで書いた要理みたいなものは、一歩間違えれば信仰を失う程の破壊力さえ持っているように思います。彼の影響力は現在もあるように思います。
今思えば、遠藤周作から信仰が感じられませんでした。むしろ彼のやりたかった事が日本カトリック教会において猛威をふるっているように思います。彼は早い段階で、(ある司教の言葉を借りると、現在も掲げられているのですが)【どこか遠いところでつくられた信仰様式からの脱皮】を目指していたのです。遠藤周作と仲の良い司祭をみてみるとよく分かります。これはかつて排斥された教会におけるインカルチュレーションの動きが見てとれます。日本人は頭が良いのでカルトとか奇跡とかそういう物を排除して聖書を読ませようとしていた努力さえしています。キリストの奇跡を科学的に説明できるという考えは、なんと高慢なのでしょう。神の御業が人間のちっぽけな頭で全て解決出来るという考えです。
そして現在日本におけるカトリック教会は様々な問題を抱えています。私たちの信仰さえ刷新してしまいそうです。文語体の祈りの排斥、神への崇拝による跪きの排斥、聖体拝領の方法、ラテン語の排斥、フォークミサ、子供化ミサ、女性の侍者、などかつてではありえない信仰様式の脱皮です。そしてそれが、御聖体からの脱皮、聖母マリアからの脱皮、主日のミサからの脱皮、告解からの脱皮、罪の意識からの脱皮、殉教心からの脱皮、敬虔からの脱皮、真の宗教と正統信仰からの脱皮などなど。あらゆる悪い影響が考えられます。数年前と数年後では信仰心も神様に対する意識が変わらないように祈りましょう。

キリスト信者の助け手聖マリア、私たちのためにお祈りください。