一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

日本二十六聖殉教者

2017-02-06 07:31:26 | カトリック
昨日は二十六聖人の祝日でした。
殉教者というとどういうイメージでしょうか。聖ペトロも殉教しましたし、使徒の殆どは殉教者です。そしてローマ帝国がカトリックを国教にするまでの間たくさんの殉教者が生まれました。主の教会の繁栄はまさに殉教者が礎になっています。数々の惨たらしい刑は想像に絶するほどです。
しかしこの精神はどこからくるのでしょうか。それは十字架の精神です。十字架上の主をご覧ください。初めて目にする人でさえ、なんて残酷なのかと思うことでしょう。しかし十字架上の人はまったくもって罪の汚れもありませんでした。むしろ善いことだけをなさいました。主イエズスはどうして、なぜ、十字架で死ななくてはならなかったのでしょうか。聖書や要理を読んでいれば分かります。そうです。私たちのためでした。罪人のために全知全能の主が死んだのです!
本来ならばこの主のために私たちの命を投げ捨てたとしても足りません。何故ならば被造物である私たちの命と創造主の命は比較にはなりません。決して同等では無いのです。それほどまでに私たちのために何故いけにえになったのでしょうか。
それは愛です。私達には命よりも大切にするものがあるでしょうか。親が子供の命を守るために身代わりになって死ぬことがあります。これも愛です。
では殉教者は誰のために死んだのでしょうか。なぜ死んだのでしょうか。これは主に対する愛だからです。これほどまでに主のために命をかける宗教はありませんでした。なぜならば主が私達のために貧しく生まれてきて無残に死んだからです。十字架の精神なのです。殉教者は主に倣いました。私達は常に十字架を背負っています。
しかし、多くの人はこのような主に対して忘恩の限りを尽くしています。主の愛をはき違えて、自由きままに行動しています。「愛」を振りかざして、主の言いつけを守ろうとしません。主よりも被造物を愛しています。主よりも被造物の言うことを聞いてしまいます。現代の日本ではカトリック信者を迫害することは無いと思うでしょう。しかし迫害はいろいろな形を取って存在しています。殉教者が残した信仰を骨抜きにしようとしています。殉教者に対するイメージも変えようとしています。信仰だけを求めましょう。
私達が強められるように絶えず祈りましょう。



<日本二十六聖殉教者の信仰を求むる祈り>

「主イエズス・キリスト、主は十字架の刑によりて、聖ペトロ・バプチスタ、聖パウロ三木、及びその他の殉教者をして、主の御かがみにならわしめ、日本国民の信仰の初穂として、彼らの鮮血を納め給えり。

 願わくは、二十六聖殉教者の御取次ぎによりて、 堅固なる信仰と迫害に堪うる勇気とを我らに得しめ給え。 アーメン。」

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