白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

男の引き際

2010-02-05 | 日常、思うこと
丸ノ内OAZOの丸善4階、松岡正剛プロデュースによる
「松丸本舗」なる特設店舗を巡るのが、
最近の、帰途の習慣になっている。
アルトー/デリダの「デッサンと肖像」を見つけて、
20,000円と引き換えるか否か、今日も決心はつかず仕舞い。
川上未映子のポエジィ、と呼ぶには少し、じゅるじゅるな、
抱きたくなるような、抱き合いたくなるような、
ああ、なるほど、満たされたくなるような、
ぶっちゃけちまえばやりたくなるような、
無理だとしてもでも一瞬に賭けたくなるのもわかるような、
言葉、?、あるいは女、?、と1,000円を引き換えてきた。





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報道によれば、大相撲の横綱朝青龍が引退した。
これまで報道されてきた類の不祥事が事実だとすれば、
当然の決定、あるいは処分、ということになろう。
稽古をせずとも最高優勝が出来るだけの実力を有したまま
事実上の解雇、というのは、もったいない話ではある。
相撲に、美徳や品格、思想や伝統文化があると仮定すれば、
それを学ぼうとしなかった側にも、教えなかった側にも
同じ程度の問責があって然るべきだったのではなかろうか。
僕は好角家ではないが、魅力的な横綱ではあったと思う。
しかし、今回の一連の報道のなかで一番印象に残ったのは、
かの、貴乃花の一言だった。
曰く、肩で風を切って道の真ん中を歩くのが横綱ではなく、
堂々と道の端を歩くのが横綱である、と。





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男は、引き際というやつに美学を求めたがるものだと思う。
単純にいえば、未練と能力を天秤にかけて釣り合ったときに
どちらの側に指を掛けるかの選択、ということだ。
もしくは、未練と現実をしっかりと見定めて、
いかに上手く未練を捨て去り、すがすがしくいられるか、と
言いかえられよう。
その人格をとやかく言うものもあるが、
千代の富士の「体力の限界と気力の喪失」は立派だった。





もっとも、未練と能力が明らかに釣り合わなくなっても、
未練に指を掛けた姿が美しく見えれば、それは美学になる。
落合博満や工藤公康、村田兆治といった野球選手の事例が
それに当てはまろうし、
大多数のアマチュアミュージシャンがいつの間にやら
追い求める自分のあり方も、そうだと思う。
そうした意味においては、朝青龍の事例に美学はなかった。





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なぜこんなことを言うのかと言えば、
先日の札幌で、希有な経験をしたためでもある。
医者からは酒を控えるよう言われてはいたものの、
どうしても訪ねたいバーがあったのだ。





そのバーは、すすきの交差点にほど近い雑居ビルにある。
開店は昭和33年というから、今年で開業52年になる。
チーフバーテンダーは大正9年の生まれ、今年90歳、
今も週に数回程度、短い時間ではあるが店に立っている。
無論、日本最高齢の現役バーテンダーである。
弟子も全国に多数いて、日本屈指の評価を得ているひとが
少なくないという。
つまり、日本のバーテンダーの世界では「人間国宝」として
一身に尊敬を集めている方のお店に、お邪魔をしたのだ。





背筋はすらりと伸びていて、矍鑠としてお元気そうな様子、
その姿に安心をしていたのだが、ずいぶん耳が遠い。
カクテルの注文は、傍らの弟子が大声で伝える。
材料となるリキュール類も、弟子がテーブル状に準備する。
やがて、チーフがシェイカーを手にするのだが、
手先がどうにも覚束ない。
本来なら、そっとテーブルに置くべきリキュールの瓶も、
耳が遠いせいか、置かれるたびに、がたん、ごつん、と
テーブルにぶつかったような音がする。
一連の動きのなかで、かけている眼鏡につけられた鎖に
指が引っ掛かって、眼鏡が床に落ちる。





出来あがったカクテルは、確かに美味い。
そして、サービスで、紙で切り抜いてくれた僕の横顔も、
こちらをみつめる柔和な笑顔も、あたたかくて優しい。
僕は祖父ふたりを早くに亡くしているせいか、いわゆる
おじいちゃん、というやつに弱い。
日本人のもつ敬老精神というほど大袈裟なものではなく、
笠智衆のようなすがすがしい老い方に、純粋に安心する。
東京会館や三井倶楽部を経て、50年余りを札幌で過ごし
シェイカーを振りつづけたこれまでの人生を尊敬する。





しかし、バーテンダーとしての所作振る舞い、構え、
仕事の美しさとなれば、話は違う。
生涯現役、と言えば聞こえはいいが、酷な言い方をすれば、
引き際というものは誰にも訪れる。
それが、能力的な死か、生物的な死かは別にしても、
日本語は「老醜」という言葉を準備さえしている。
例えば、朝比奈隆の最晩年は、スコアをめくり間違え、
振り間違え、指揮はどんどん不明瞭になり、
オーケストラが必死にアンサンブルを立て直すような、
綱渡りの演奏会が多かったと聞く。
近年のスポーツでは、清原和博の例が記憶に新しい。
無論、必死の覚悟で、持てる力をすべて注いでいる。
それでも、どうにもならぬ姿は、痛々しく、つらい。





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美しいままに散るのが美、という、ともすれば
軍国主義的価値観に塗りたくられてしまって歪曲した
日本人の「儚さ」への憧憬は、
「儚」という字を観れば一目瞭然、「ひとのゆめ」、
この世界を夢幻無常とみる心根から生まれているのだろう。
一生を、走馬灯に例えるひとの何と多いこと。
そしてその走馬灯は、なんと美しく夢見られていることか。





銀座屈指のバーとして知られた「クール」のオーナーは、
自分の眼の黒いうち、すなわち、自分の技術が衰えぬうち、
仕事をすべて自分ひとりでやり遂げられるうちに、
身を引くべし、として、引退し、店を閉じたそうだ。
そのひとと、かの札幌のひとの姿を見比べると、
身の引き際というものについて否応なしに考える、と、
僕の行きつけのバーのマスターが白絆創膏顔で語っていた。





なぜ絆創膏なのか、と尋ねたところ、
マスターは、数寄屋橋で自転車でこけて引っ繰り返って
額を割って救急車で運ばれて、縫った挙句に
調べてみたら、肋骨にひびが入っていた、と語った。
今が身の引き際じゃないか、と冗談を飛ばしたら、
マスターは、そうかもしれませんね、と、笑っていた。





そして札幌に行ったものだから、思わず、考え込んだ。





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正直にいえば、僕には何も身を引くべきものがない。
音楽にも文章にも仕事にもひとにも、何にも習熟していない。
それでも、身の引き方を考えるのだから、笑止千万である。





ピアノをやめる。
演奏の一切をやめる。
文章をやめる。
ひとへの思いをやめる。
これらの行為は、別に、誰にとっても大したことではない。





その代わり、
ピアノを続ける、
演奏を続ける、
文章を続ける、
ひとへの思いを続ける、
これらの行為も、別に、誰にとっても大したことではない。
その代わり、じぶんひとりで行うことなど、出来やしない。





誰かに求められている、というとき、引き際を見失いやすく、
その場に留まりたくなる、ということなのだろうか。
そうだとすれば、男の引き際は、とてつもなく孤独である。
それをダンディズムと呼ぶか、美学と呼ぶか、
結局は、自己愛の結晶化作用なのかもしれないが、
惜しまれつつやめることは、そう誰にも出来ることではない。





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いずれにせよ、縁の遠い話だ。
未練がましいくせに、恐ろしく冷淡にもなるからだ。
引き際の話など、出来る器ではなかった。
ひきょう者らしく、逃げ去ることにしよう。
道の真ん中を、風を切って。





身を引くこととは、自らを寒く、冷たくすることかしら。
あるいは、蜻蛉のようにあることかしら。
しかしそれでは、姿を消すのと相違あるまい。
決して失踪するのではない。
それに「老醜」を覚悟することも美学になるやもしれぬ。
しかしそこには、もう求めるものはいなかろう。
ひとりあることはつらいものの、ひとりでに立っている、
それはそれで、強いということなのかもしれない。





いろいろあっても、なぜかひとりでにここにあること。
その状態で移り変われることに、肯定を見出だしたい。
何とかして。






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2 コメント

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Unknown (lanonymat)
2010-02-16 23:27:51
コメントを頂き、ありがとうございます。

人間、うまくできているなと思うのは、
歳を重ねると、納得、という理性的判断が
知の活動からどうやら追い出されるらしい、
ということです。
わかったような、わからないような、という
状態で、ただ相手に頷いているという光景を、
身近な老いの中にいくつも見るので。
それはかつて最も重大な関心であったはずの
「結末」において最も顕著に現れます。

引き受ける、という責任論から始めずに、
いろいろあっても、なぜかひとりでに
ここにあること、
その状態で移り変われることに、肯定を
見出だしたい、と述べたのは、
老いによる「空白」を肯定するために
どうしても必要なこころの作業であると
思ったためでもあります。
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Unknown (sta)
2010-02-15 23:12:57
いい文章ですね。
何か、こう、心に響く話でした。

歳を重ねれば重ねるほど、その結末をどう迎えるかについて考えてしまいますが、結局のところ周りがどうとかではなく、自分自身が納得行く形で進めるかどうかだけな気もします。

それを自分自身の意思だけで決めることも中々に難しかったりするのですけれど。

凛として老いて行きたいものです。
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