白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

理論と実践

2006-02-18 | 公開書簡
それにしても、
4人で、3切れの卵焼きを食べ分けるのに
みんななんであんなに苦労するんだろうね?





まず、3切れそれぞれ半分ずつに切り分けて、
元の大きさの半分の、6切れの卵焼きを
こしらえる。
このうち4切れを、4人で1つずつ食べる。
で、残りの2切れをこれまた半分に切り分けて、
元の大きさの4分の1の、4切れの卵焼きを
こしらえる。
これを4人で1つずつ食べると、
後には何も残らずに、きれいに食べ分けることが
出来るんでございますよ。
ちゃんちゃん。





つまり初めの3切れを、そのまんまの大きさで
食べようとさえしなけりゃ、
1人当たり、4分の3個の卵焼きが取り分になって
きれいに食べ分けることが出来るんだけど、
だいたいがみんな欲深く出来てるもんだから、
どうしても初めの大きさのまま食べたいんだな。
これはまあ、当たり前の心理といえばそうなんだけど、
そのまんまの大きさで卵焼きを食べ分けようとすりゃ、
とうぜん、必ず誰かひとりが食べることをあきらめて、
他の誰かに譲らなけりゃならなくなるってことですよ。





もっとも、人間関係がうまく行っているうちは、
互いの遠慮のかたまりとでも言おうか、
みんながどうぞお先にと譲り合うから
いつまでたっても皿の上の卵焼きは減らないで、
冷めて固まり不味くなるだけで済むんだろうけど、
いったん誰かが譲り合うことをやめて
先に箸をつけちゃうと、
対等な譲り合いのこころが地位の優劣に脅かされて
なんじゃあいつ、先に箸つけやがってばかやろう、と
それがつまらん不和や衝突のきっかけになって、
互いのいい関係にぴしりとヒビが入ることだって
あるかもしれないわけで。





そのうちほんとうに人間関係が壊れちゃって
みんな譲り合うことをしなくなって
自由闊達勝手気ままにふるまい始めると、
このやろうに卵焼きなど食わせてたまるかと
みんなが我先に卵焼きに殺到する。
結果、争いが争いを生むこととなって
事態は争いのための争いへと変わり果てて
卵焼きのことはみんなの頭から消し飛んでしまい、
哀れ卵焼きは誰かに足で踏み潰されてしまうか
隣の席のおっさんにさらわれて食われてしまって
(とんびの油揚げってやつか)
手に入ると思ったものも入らなくなってしまう。
据え膳も食えなくなった彼らはいっそう怒り狂い
終いには互いに包丁を投げ合って
殺し合いになっちゃうんですね。





譲り合いのこころっていうのはまあ、
こういう無益な戦争を起こさないために生まれたわけで、
初めに書いたような解決策が思い浮かばないような
阿呆どうしにでも出来る、きわめて人に優しい方法です。
頭を使えば、もっといい方法があるかもしれないけど、
みんなにわかりやすいものをわざわざ難しくするってのも
バカな話だし、
うまくいってるものをうまく行かなくするのも余計バカなんで、
とりあえず譲り合っておくうちにお互い妥協して、
譲ってもらったほうが次には譲るほうに回る、なんていう
道筋が出来て、知らないうちにうまく行くわけです。





もっとも、譲る人間がいつも決まっている、って言う場合も
多いんですけどね。





でも、世の中には卵焼きのように、
均等に分けられるものっていうのはほんとに少ない。
6切れのショートケーキにイチゴが5つしかない場合には
一層難しいだろうし、
占領した国土、儲けの分け前、なんていうと
仕事に対する貢献度とか力関係なんていう基準も出てくる。
一番やっかいなのは愛情の場合で、
愛情そのものも、それを与える存在も等分出来ないわけで。
誰かが幸せになれば、当然誰かが不幸になるしかない。
そして多くの場合、愛情そのものに対して
譲り合いの精神なんか絶対に生まれないのは、
みんな知ってるとおりです。





自分が幸せになることで他人を傷つけたり、
不幸にしたりするということがあることには
おそらく誰もが知っていること。
それが、どうしても譲れないものだということも
知っているはず。
「あなたのぶんまで幸せになるから、身を引いて」
なんていわれたら、どうします?





例えばぼくの場合は、誰かの生活を乱したくないとか、
ぼくが幸せになることで誰かを不幸にしたくない、という
意識が相当に強いんですよ。
誰かに迷惑をかけたくない、誰かに幸せになって欲しいと
思うあまりに、結果として、
自分が取る行動がその人にとって迷惑そのものでしかないとか、
自分に不幸を強いることになることが多いんです。
だからといって、これを反省しろといわれてしまうと
ぼくはもう誰とも一言も話が出来なくなり、
誰との交わりも断ち切って天涯孤独になるしかなくなる。
「人間」とは「ひとのあいだ」であるとするなら
ぼくはもう誰の間にもいない「単独者」となってしまい、
「人間」ではなくなってしまうことになるわけです。





誰かの幸せとか、苦しみを和らげることとか、
いろいろなことを教えることとか、
まあひっくるめて誰かの力になろうとしているとき、
その相手が、どうしようもなく大切になるときが
あるんですね。
けれども相手は、ぼくの力を借りて幸せになり、
どこかへと飛び去っていくためにぼくに近づく。
ぼくによって幸せになろうという気持ちはあっても、
ぼくの幸せそのものとなろう、というひとは
どれだけいたんでしょうね。
ぼくは、まあ、どう見られているかわからないけれど
必ず、相手の幸せになろうと思ってふるまいます。
だから、そのたびに、いつも取り残されるわけです。
「それは情であって、愛じゃない」とか
「そういうことをもとめたんじゃない」とか
いろいろ言いのこして、多くの人が去ったわけです。
下心じゃん、という人もいましたが、
じゃあ、おまえはほんとうに邪心なく俺に接したのか?
という問いを立てれば、お互い様でしょう。
そういうと、大概の人は、黙るか、むきになります。




ぼくがきちんとした恋愛関係なんかを結ぶことを
試みることが無くなったのも、
きちんとした人間関係を作るという点では
ほとんど障害者のようになってしまったのも、
(あらかじめ相手に対して、自分にとっての役割を
 決めてから接するとか)
利用されて棄てられる経験やら
拒絶されるという経験が多すぎたからかも知れない、
などと思うことがありますね。
どうせなら、相手にとって都合のいい相手に
なりつくしてしまえ、と思ったりして、
浮気相手や相談相手にはなるけれども、
深い愛情でもって誰かと結ばれることはあきらめた。
人付き合いというものも表面的なものしかないし、
必ず道化や仮面を準備していたりするわけです。
自分は何も望んではいけない、という思いから、
誰かのために与えることしかしない。
結果として、枯れ果ててしまうのではないかと
思うこともあります。
水を与えてくれるものは、何でしょうね。
それはあるのでしょうかね。





黙っていればいいことをべらべらしゃべって、
自分から悪者になることをすすんでひきうけるのも
そのためです。
その瞬間には諍いとなっても、時間がたてば
相手は幸せに、満ち足りていることが多い。
その様子まで、ぼくはしっかりと見届けている。
だから、ぼくは相変わらず信用されないまま、
いまも1人なのですが、
誰かの幸せのために不幸を引き受けることには
慣れてきています。





信用されず、迷惑な悪者であることと、
道化になること、そして誰かの力になろうとすること、
これらのなかに引き裂かれて生きているのでしょうか。
そうすることで、傷つくのは自分だけでいい、と
納得して、失敗者として生き定めてやろうという
覚悟でいるような、いないような。





けれど、ぼくの傷など、他人からすれば
どうでもいいことです。
ぼくのことなども、どうでもいいはずで、
彼らはぼくに勝手にしろ、と思っているはずです。
あるいはぼくのいることそのものに全く気付かずに、
今日も幸せになろうとしているわけです。





誰かの幸せを助け、誰かの力になろうとすることが、
もし、その誰かに対する、
あるいは、「人間」そのものに対する、
かたちをかえ、動機すらもすりかわった復讐であるならば、
こんな恐ろしいことはないのです。
その点、ドストエフスキーの「悪霊」のなかの
スタブローギンに近いのですかね。
倫理というものに関心を持ちながら、
意識的な凌辱者、ということにおいて。





復讐から生じる献身ほど、恐ろしいものはない。
自分を傷つけた相手に身をゆだねるひとも
いましたしね。





ぼくには、4人で3切れの卵焼きを分けることに
苦労をいとわないことが、
とてつもなくおそろしいことに見えるのです。





そんなことを考えながら、次の瞬間には
「空耳アワー」の映像ファイルを見て笑っている。
ぼくが恐いといわれるのは、ある意味で
表面と内面のずれが大きいこと、
苦悩と笑いが一瞬にして入れ替わるようす、
いろんなことをしゃべって尽きない、ということなどに
底知れなさ、いわゆる闇の深さが見えるからなのかしら。





自覚なき闇、ってやつですか。
あなたの闇は抱えきれない、とはそういう意味か。
なるほど。





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