京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

日本人のお出かけ好き

2022年08月24日 | 日々の暮らしの中で

弥次さん喜多さん(弥次郎兵衛と喜多八)は十返舎一九が滑稽本『東海道中膝栗毛』(1802-)で生み出したコンビだが、彼らも清水寺に参拝している。

本堂の大規模修理を終えた清水寺で、江戸時代の巡礼札が718枚も発見された(2021.2.2付記事)。堂内の絵馬を取り外したところ、壁面に取り付けられた長押(なげし)の内側から出てきたという。札上げで燃やされないよう隠したのだろう。最古の札は1635年のもので、甲州巨麻郡逸見荘(今の山梨県北社市)の居所と氏名があった。

1603年に江戸幕府が開かれ、芭蕉が「奥の細道」に旅立ったのは元禄2年(1689)。
弥次喜多の二人は1802年以降として…。江戸時代の初期、すでに中山道は整備されていたのだったか?
「1600年代中頃には日本中が平穏になって旅行者の数が増え、さらに元禄(1688-1704)の高度成長期に入ると、大勢の人が日本中を歩き回るようになっていた」と石川英輔さんの『江戸人と歩く東海道五十三次』にある。

人は宗門人別帳で土地に縛られており、居所を移すには寺請証文が要り手間がかかったこと、『帆神』(玉岡かおる)にも描かれていた。
旅行では寺か名主が作成した住所、名前、旅行の理由、目的を記した往来手形(身元保証書)を携行していればよかった。当節ではワクチン接種証明書とかPCR検査の陰性証明などを持ち合わせないと、気まずさを味わうのだろうか。そんなことはない?

〈病気や願掛けのための寺社参詣〉を目的として届けても、「伊勢参り大神宮へちょっと寄り」で、どうやら人気のお伊勢参りは一種の方便。さっさと参拝を済ませ、あとは私的な家族観光旅行…ってのは珍しくはなかったみたいだ。絶頂期には、日本人の5、6人に一人が全国から伊勢を目ざしたそうな。
日本人の「お出かけ好き」は今に始まったことではないって、まさに。てくてくてくてく。


石川氏によれば、江戸日本橋から京都三条大橋までの約450kmを平均14泊15日ぐらいで歩いたとある。
「三条橋上より…四方をのぞみ見れば、緑山高く聳えて尖(と)がらず。加茂川長く流れて水きよらかなり。人物また柔和にして、…。…京に良きもの三ツ。女子、加茂川の水、寺社」「悪しきもの三ツ。人気(じんき)の吝嗇(りんしょく)、料理、船便」などと記したのは20代の滝沢馬琴だが、京の風物には夢中になったらしい(『羈旅漫録』)。

「天明5年(1785)、田沼意次肝煎の蝦夷地見聞隊は、江戸を立った」。松前まで陸路を「船待ち加えて二十四日の旅路だった」と今読む本では書かれている。最上徳内が松前に渡ったところまで読み進めている。

23日、処暑とはいえ真夏日だった昼下がり。三条京阪で人と待ち合わせの合間に、弥次さん喜多さん訪ねて橋を西南詰めへと渡った。
日本史の資料集など開いて、あれこれ思いをとばしている。あああ、こっけいなことを。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« おばあちゃんの名前は? | トップ | 空の石盤に »

コメントを投稿

日々の暮らしの中で」カテゴリの最新記事