京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

ここはどこよ

2024年08月08日 | こんなところ訪ねて
ここはどこよと船頭衆に問へば  ここは枚方鍵屋裏
鍵屋浦には碇が要らぬ  三味や太鼓で船とめる  
                  「三十石船唄」


京阪「枚方市」駅(東見附)から隣の「枚方公園」駅(西見附)の区間を歩いて、江戸時代に「三十石船」の乗降地としてにぎわった鍵屋(資料館)を訪ねてみた。

本来は30石相当の積載量を持つ船のこと、江戸時代に淀川の伏見-大阪間を定期的に上下する客船を「三十石船」と呼ぶようになった。
屋形はなく苫掛けで、船員4人、乗客乗員28人。伏見から大阪への下りは半日か半夜、しかし上りは竿をさしたり綱を引いて船を引き上げるために倍の一日か一夜を要し、費用も下りの倍額だった - と資料館での記述を拝見。



船が枚方にさしかかると小さな船がそっと近づき、船客相手に大声で、汚い言葉で「酒くらわんか 餅くらわんか」と飲食物を商う。
煮売茶船は「くらわんか船」と呼ばれ、淀川の名物だった。
「三十石船」の乗客相手に煮売りの商いをした「くらわんか船」で使われたことから「食らわんか茶碗」という呼び名が生まれたのだろうという。

「食らわんか茶碗」を知るきっかけは向田邦子のエッセイ「食らわんか」だった。
気に入った季節のものを盛るとき、なくてはならない5枚の「くらわんか」の天塩皿があると書いていた(『夜の薔薇』収)。
「食らわんか」「よし、もらおう」となれば、大きい船から投げ下ろしたザルなどに厚手の皿小鉢を入れた。落としても割れないような丈夫な焼き物は(長崎県波佐見産のものが多かったそうだが)、汚れたような白地に、藍のさっぱりした絵付けだとも書いている。

 


この道は秀吉による文禄堤の上にできた道だ、と立寄った塩屋(屋号)さんで教えて下さった。店の向いが本陣の跡地になる。

 

庄屋と問屋役人を兼ね、幕末には農業経営を発展させ、金融業を営んでいたという大南善衛門家(屋号 田葉粉屋)が碑の後方に。



広大な敷地に蔵4棟を持つ泥町の大商家。泥町っていうには、水害も多かったのだろうか。

鍵屋資料館を訪ねた。

左手が主屋。

淀川沿いに、天正年間(1573-92)創業と伝わる鍵屋は「三十石船」の乗降地として賑わった。堤防で隔てられるまで、建物の裏手は川に面していたようだが、2Fから川が望める風景だった。大広間で、舟待ちの人々を想像してみた。


暑い中、案内するからと言ってくれた隣市に住む友人と汗をふきふきの半日だった。彼女も少し前に歩いたばかりだったのだ。
エッセイを読んで以来の心残りも晴れた。今一度もっと広範囲に川のほうまでも、秋風の吹くころならゆっくり歩けそうな気がする。
コメント (2)
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