小さな傘を持っては出たが、降らなかった。昨日までの蒸し暑さもずいぶんまし。東本願寺さん近くまで、叔父のためのお供を求めに出向いた。
叔父は母の二番目の弟で、目が少し不自由になった母親を兄の家から引き取り、一緒に暮らしていた。母が亡くなったとき、いわき市の家では母親が珍しく娘(私の母)の名前を呼んだと話してくれたことがある。母が母親のもとを訪ねることは2回、3回あったのかなという程度の記憶しかない。帰りたかっただろうに。時間を作って帰らせてあげればよかった、どうしてしなかったんだろう。今になってこんな思いが湧いてきた。電話口で叔母が何度も「おにいさん」「おねえさん」と私の両親を呼んでいたからだろうか。
街中の、きれいに手入れされた門先に合歓の花が咲いていた。筆先が刷毛のような、ピンクの花のやさしさ。この花が咲き出すと、庭の片隅に、目の届くところに1本欲しいなという思いがおこる。ほんのりと、けぶるように、夢見ている花の風情。若い頃の叔母の面持ちが重なるのは身びいきか。手元に残る写真を見ても、美しい人だった。
合歓の木は建築材はもちろん細工物にもならず“やくざな木”だ、と以前読んだことがあった。が、実は役に立たないということはなく、この木で作ったお櫃は水気をよく発散し、飯の変質が少ないと好んで使用する地方があったり、きめが荒く軟らかて粘りが強いので屋根板や鎌の柄に、桶などにも用いられ、大いに役立っているんだそうな。
一日で慶び事と弔い事の両方を済ませた。1年の半分が経過し、誕生月を迎えた。
「…月日を重ねつつ……われ枯れゆくまいぞ」
眠りにつかれた叔父上様への想いを
重ねておられるのでしょうか。
長い年月の間には人はみな
喜びも悲しみもたくさん味わいますよね。
いわき市を訪ねられなかった悔やみは
いつまでも残りましょうが、
Keiさんのその想いは叔父様に伝わっていると思います。
お櫃>もう長い間使っていません。
7月のお生まれなのですね。
一層充実の日々お過ごしください。
悲しいことはなければいいと思いますが、悲しみあればこそ
生きていることの意味も深さも喜びも味わいを増すということでしょうか。
若い頃にはさして思わないことでした。
「合歓は夜も花咲きをれば葉はなべて眠りにけりな月照らしつつ」と前川伊佐緒さんが詠んでおられたのですが、
叔母に手をさすられながら静かに眠りについた様子に慰められます。
何かにつけては気持ちを入れ直すことが増えたようです。
勢いに乗ってとはいかないものですね。ありがとうございます。