京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

遠い時代、他者への想像

2022年05月16日 | 日々の暮らしの中で

近鉄奈良駅から奈良国立博物館への道で修学旅行生の一団に出会った(昨日)。何か心に刻んで帰れるだろうか。何十年か前には、私もこうした行列の一員として京都奈良を歩いたのだった。特に何も残さずじまいだったと思う。


文学を通して、社寺仏閣への関心が深まっていった学生時代。信仰なき古寺巡礼者の部類だったが、今や自分の楽しみごとだ。人生の根底に、静かに干上がることもなく脈々と流れ続けてきた関心事。枯らさぬよう…。

早稲田の学生の一人が仏像に懐中電灯をさしむけたとき、彼らを連れていた会津八一氏が「懐中電灯で照らしたって、仏さんはわからないよ」と言われた言葉が忘れられないと山本健吉さん(『万葉大和を行く』)。
「見た」という印象自体を先ず蒐集する心があると指摘する。その口だ(った)。懐中電灯や単眼鏡でこそ覗き見ることはしないが、はっきり見たいと思う心理は強く働く。

一体の仏さまと相対して何を思うかは、その人の人生や生い立ち、趣味や教養、人間関係など様々なものが背景となって、固有の思いが生まれる。
はるか昔の平城京に造営された大安寺は、壮大な規模で伽藍を構えていた。千人にも及ぶだろう国内外の僧侶たちが往来し、ここに集ったという。
諸行無常。かつての繫栄も規模も今はないが、活気に満ちた時代への想像を膨らませてみることを私は愉しいと思えるのだ。


父親に抱っこされた2歳過ぎくらいの女児が、「おこってない おこってない おこってない」と小声で繰り返し口にしていた。
揚柳観音の前で(最前の正面の像)。憤怒の表情なのだが…。哀しみなどを子供はそこに見るのだろうか。

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