一心に本を読みふける人がいました。何かの物語なんでしょうか。心奪われてか、不動です。自分だけの時間ですから、本当にいい時間を過ごされています。近くに腰を下ろして姿を見ていました。
奈良へ、修二会の行事が修されている東大寺二月堂を参観したいと思いながら迷って行けないでいる私は、司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズより「奈良散歩」を読み返していた。
澤田瞳子さんの『与楽の飯』の世界が思い起こされてくるし、「雪散華」の杉本健吉画伯が、昭和24年にうどんの食べくらべをして一番になった話があったり…。読み飛ばしていた箇所に気づきもあって、これはこれで私も良い時間を過ごした。
修二会は、〈天平の実忠以来のやり方を、不合理を承知の上で、頑固に守っている。強烈な文化意識と言ってよく、その不合理こそ、人を酔わせる。そういう精神の酔いがなければ、自分を天平の実忠和尚のそばまで連れ昇らせてゆくことはできないのである〉
〈文化の不合理に堪えて、不断に繰り返すというところに、他とちがった光が出る〉
〈様式(スタイル)の新奇さだけを追うことが、何になるのだろう〉(言いたかったが遠慮した、と)
司馬さんの言葉を記憶しておこうっと。
で、コロナウイルスによる感染が拡大している今だが、大丈夫だろうと考えるか、大丈夫ではないかもしれない、と自粛するが賢明なのか。やめときなさいと言う声…。あ~ら、困りました。本音は行きたい。木沓で堂内の床を走るけたたましい音、五体投地の激しい所作が立てる音が耳元によみがえる。。。
素敵な風景ですね。
コロナウイルスも忘れてしまいそうです。
修二会、お水取りと聞けば私も多少は
テレビなどでその情景も浮かびます。
「お水取りが終わればもう春や」と祖母が言っていました。
天平以来の様式が受け継がれてこそ
その文化の価値があると言えるのでしょうか?
木沓と言えばオランダの少女が浮かびます。
平安の蹴鞠もですね。
新型コロナウイルス、季節もよく、体調も良いのに
じっと我慢、我慢です。
ウイルスにやられるのは悔しいですから。
美しい姿だと感じました。
家に籠ってばかりもいられず、こうした場所を選んでは歩いています。
マスクも不用ですし、気持ちも晴れます。
受け継がれる文化の芯があるということは素晴らしいですね。やはり独自の光を放つと思えます。
今の時代ならもっと便利に簡単にできることも、脈々と天平以来のスタイルを維持して
臨んでいることは尊いのではないでしょうか。
練行衆が着る紙衣のころもの反物や内陣を荘厳する椿も彼ら自身による手作りから始まるようです。
我慢ガマンが辛いですね。しかし我慢のしどきですね。
そう思いつつ決断がつきません。いえ、やめよう!と決めれば済むことでした。
「本を読む人」素敵な写真ですねえ。
鴨川の風景でしょうか。
私も暖かくなると、時々、近くの武庫川の河川敷で、こんな至福のひと
時を過ごします。
澤田瞳子さん、よくお読みですか。
私は3冊ほどしか読んでいませんが、「若冲」が印象深かった。
お水取りの写真を撮りに行って、苦い失敗をしました。
ツアーのバスで行ったのですが、車窓から途中の景色をバチバチ撮って
いたら、着いたときは電池切れ!
カメラを始めて間なしだったので、予備電池を持つ知恵もなく…
それ以来、電池はいつも2~3個準備!
加茂川べりを良く歩きます。
手前の道は走る人も歩く人も自転車も通ります。
作品を楽しんでるんでしょうね。
見ていて微笑ましくもあり、このたたずまいは美しくもありました。
そうですか、武庫川でリュウさんもこのような至福の時を過ごされるのですね。
これからの季節が楽しみですね。
先日も「若冲」を手に取りましたが、少し考え、またしても敬遠してしまいました。
往路から、よほど気持ちも弾んでいたのでしょうね。
電池切れはショックですね。でも、かえって目には焼き付いたのではありませんか。
コメントありがとうございました。どうぞよろしくお願いいたします。