どうしても今日には詣っておきたかった事情もあって東本願寺へ。
塀沿いの法語行灯の中に、〈苦し「み」 悲し「み」 悩「み」、いずれも人生の味 〉ー といったことが記されたのがあった。
人の心の底など見通せる(見通される)ものではないと思うも、人の中に生きるとき、こうしたことがわかる細やかな神経、思いやりや優しさをもっていたい。
父の母親は寺に生まれた。だからといって特別熱心なということは表面上は感じてこなかったが、この祖母や父の姿に倣い生きてきた日々に、仏縁はひそかに結ばれていたと気づかされる。
〈秋分の日の電車にて床にさす光もともに運ばれて行く〉
心が和んだ。ああ、短歌はこんなに静かに情景を丁寧に歌っていいのか。多く学ぶところがあった。作歌に迷ったら、佐藤佐太郎を読みなさい。そう言って下さったのは、誰だったのだろう。
〈苦しみて生きつつをれば枇杷の花終わりて冬の後半となる〉
私は考えた。それまでの私は、自分の心の激しさや思いの丈を三十一文字にぶつけるのが短歌だと思っていた。それは違ったのだ。佐藤佐太郎の作品は、そのことを私に思い知らさせてくれた。
(石蕗の章 佐藤佐太郎 より)
道浦母都子さんの『歌人探訪 挽歌の華』をゆっくりと、それこそ一日一人のペースで読んでいる。
1947年に生まれ早稲田に入学。反戦デモに参加するようになって、学生運動の挫折、その後の孤独といったことなどにも、なぜか心魅かれる歌人のお一人でいたが、道浦さんの「原稿用紙千枚分を三十一文字で表現するような一首ができるかもしれない」の言葉もまた強く印象付けられて記憶されている。
情熱を秘めつつ、物静かな人がいい。
ってお気持ち、わかるような気がします
私もこの歳になって、お寺に詣ることが多くなりました。
子どもの頃は、ハトにエサをやりに連れてもらってただけですのに、、、
東本願寺さんは落ち着きますね。
ゆっくりと座って、気持ちを改められるので好きです。
しかも、屏風が立派ですし^^
東本願寺さんの周辺の仏具屋さんを見て回るのも好きです。
京都タワーが見えて、ナイスショット!ですね
心安らぐ場所にもなっていくようですね。
いつ行っても「ようお詣り」と迎えてくれる気がします。
なんとも心地よい、少し強めの風が吹き抜けて極楽でしたよ。
屏風は御遠忌のときの公開でご覧になりましたのでしょうね?
法蔵館にいったりもしますが、仏具店や渉成園にかけて、あのあたりもいいですよね。
私も時々歩きます。
おばあさまの御生家なのですね。
そして短歌の御本。良さそうですが、私には読みこなせません。
祖母も母も叔母も短歌は日記のように身近なものであったようで、私も子供のころから57577のリズムは知ってましたが・・・ムツカシイ・・・
で、前の記事の宮尾登美子さんの本。天涯の花は何十年も前に読み、
友人は剣山まで見に行き(ブログに載せ)懐かしいです。
宮尾さんのものは、そのほかにクレオパトラ・篤姫、序の舞・櫂・蔵・一弦の琴・鬼龍院はな子・きのね・春燈・・・・
小説は本当に少ないのですが彼女のものも10冊以上かな。
最近ブログでモノを言ってますが、物静かな人で終わりたいです(;^_^A
こんにちは。
酷暑続きの当地でしたが、いかがお過ごしでしたでしょう。
お久しぶりです。
道浦母都子という歌人への個人的な関心から発しているのです。
亡き弟が繋いでくれた縁だろうと思っています。
短歌や歌論や歌集(はごく一部)を読むことも含めて読書全般…、
私の場合は「書く」ことにつながるようで楽しんでいます。
葉室麟さんに宮尾登美子さんも、なのですね。それから? などとはお聞きしないことに(笑)
キレンゲショウマの花が咲くという一文が出て決ました。
珠子改め「きよみ」がお山で暮らし始めて間もないあたりを読んでいます。
伏線かな?と不安も感じたりしながら。
先達が唱える和讃を読みながら昨夜は寝てしまいました。
その冒頭の「帰命頂礼」に、先ほどある方のブログの中で出会いました。
「帰命無量寿如来…」は耳にも口にも親しいのですがね。
東本願寺は御本山なのです。