桜の開花が進むにつれてそわそわと、じっとしていられずに腰を上げる日々が続いた。
今日4月1日。少し気持ちを整えたくて東本願寺に参拝した。数珠をもって。
「宗祖親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年 慶讃(きょうさん)法要」が3月25日から始まった(~4/29)。
美しく整備されて生まれかわった門前に、何台のバス?
今回初めて御影堂と阿弥陀堂が一体となって勤まっている。
今日は中日、音楽法要が勤まる。席は予約していないので、後席の一角に設けられた自由席のエリアに腰を掛けた。前方には各地からバスで来られた方々が多いのだろうか。
分断、分裂が言われる今の時代だが、せめて日々の暮らしの中では自己満足よりも、互いに響き合い通い合って生きることに喜びを見いだしたい。
〈他者とともに生きる〉。そのためには、他者への想像力が問われる。相手の身になることはできないが、一人ひとりの人生の中で、相手の痛みを思いやる感性、「ねんごろのこころ」を持つ優しさを心に添わせて、日々道を歩んでいくことが大切なのではないのかな。
孤立せず、仲間を作って他者とともにバラバラに生きる。
宗務総長による〈表白〉の中で、心に残る言葉があった。
「なにか方向や答えを建てようとすれば、それは分断につながっていきます。しかし、私たちは生きるために立場を建てざるを得ない存在であります。その立場は時に、他者を傷つけ排除するか、あるいは立ちつくすしかない現実を作り出してしまいます。……」
で考えさせられたのです。分断や争いを超えてゆく道…。
「ひとりでも ひとりじゃない 昔も今もこれからも」
慶讃テーマソング「ひとりじゃない」(歌詞・串馬千聖)の中にこんな一節が。
※ 親鸞聖人生誕850年特別展「親鸞 生涯と名宝」 京都国立博物館 (3/25 - 5/21)
※ 「真宗と聖徳太子」 龍谷ミュージアム (4/1 - 5/28)
※ 「若き日の親鸞」 五木寛之『親鸞 -青春篇』を原作として 南座 (4/10 - 4/29)
今日4月1日。少し気持ちを整えたくて東本願寺に参拝した。数珠をもって。
「宗祖親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年 慶讃(きょうさん)法要」が3月25日から始まった(~4/29)。
美しく整備されて生まれかわった門前に、何台のバス?
今回初めて御影堂と阿弥陀堂が一体となって勤まっている。
今日は中日、音楽法要が勤まる。席は予約していないので、後席の一角に設けられた自由席のエリアに腰を掛けた。前方には各地からバスで来られた方々が多いのだろうか。
分断、分裂が言われる今の時代だが、せめて日々の暮らしの中では自己満足よりも、互いに響き合い通い合って生きることに喜びを見いだしたい。
〈他者とともに生きる〉。そのためには、他者への想像力が問われる。相手の身になることはできないが、一人ひとりの人生の中で、相手の痛みを思いやる感性、「ねんごろのこころ」を持つ優しさを心に添わせて、日々道を歩んでいくことが大切なのではないのかな。
孤立せず、仲間を作って他者とともにバラバラに生きる。
宗務総長による〈表白〉の中で、心に残る言葉があった。
「なにか方向や答えを建てようとすれば、それは分断につながっていきます。しかし、私たちは生きるために立場を建てざるを得ない存在であります。その立場は時に、他者を傷つけ排除するか、あるいは立ちつくすしかない現実を作り出してしまいます。……」
で考えさせられたのです。分断や争いを超えてゆく道…。
「ひとりでも ひとりじゃない 昔も今もこれからも」
慶讃テーマソング「ひとりじゃない」(歌詞・串馬千聖)の中にこんな一節が。
※ 親鸞聖人生誕850年特別展「親鸞 生涯と名宝」 京都国立博物館 (3/25 - 5/21)
※ 「真宗と聖徳太子」 龍谷ミュージアム (4/1 - 5/28)
※ 「若き日の親鸞」 五木寛之『親鸞 -青春篇』を原作として 南座 (4/10 - 4/29)
今の時代は、「悪人正機説」よりも身近な問題として核心をついていると思います。
>孤立せず、仲間を作って他者とともにバラバラに生きる。
すごく共感します。
根っこだけは絡み合って繋がっていても、ある程度の距離は必要なんでしょうね。
生家が浄土真宗の門徒だったので、子供のころから蓮如の「御文」を聞かされて育ちました。
五木寛之の「蓮如」は、戯曲ですが参考になりました。
倉田百三の「出家とその弟子」も戯曲でしたね。
毎日を生きる私たちには、他者、周囲の人に向けるほんのちょっとの心配りだったり、
痛みを共感し合う感性のようなものが大切に思えてきますよね。
受けとめやすい教えの心でしょうかね。学んでいきたいです。
「個性的」という言葉ほど便利な言葉は見出し得ない、と谷沢栄一さんが書いておられたのを読んだことがあって、
私も「個性」という言葉でカバーしてしまうことが腑に落ちませんでしたので、あれこれ考えるきっかけになりました。
理解し合えなくても、わかろうとする感性だったり、相手の考えに共感できる部分も探りながら
適度な距離も取り、共に生きて生きたいですね。
集団と仲間とは違う、という人がいました。
「蓮如」はずいぶん前になりますが読みました。「親鸞」は地元紙に連載されましたので毎日が楽しみでした。しかも新聞小説で唯一読み通した作品なのです。
「出家とその弟子」は高校生のとき朝の読書の課題図書でした。
先日、一燈園を訪ねたことを機に久しぶりに再読しました。
ムズカシイ本で頭を痛くするより、小説やエッセイなどで触れることが多いです。
昨日は25度を超えて、夏日でした!
大仕事から上がってきました(^^♪多分、体重1キロ減(笑)
まずは本の話から。「親鸞」はい、新聞小説で読みましたよ。
でも、「歎異抄」は私が投げ出した本の中の1冊です。
カント「純粋理性批判」吉本隆明「共同幻想論」の3冊です。
他のものは理解如何によらず最後まで読みましたけど。
私など狭い世界で生きておりますが、ご近所親族などにしろ・・・ちょっと気を使ってるかな?
でもうるさい婆さんにならないように、聞き役で、決して他へは話さずを心がけてはいますって、
なんかいいひとっぽいいい方ですね~~~
ご立派な方々の前で言うべき言葉ではありませんね(;^_^A
吉本隆明氏は「家が浄土真宗だったから」というところから、親鸞への縁を手繰り始めたようですね。
信仰まではいかない思想家、とお聞きしたことがあります。
亡き弟が吉本隆明(や高橋和巳)の著書を好んで読んでいたこともあって、私もと手にしたものもあります。
人を理解するということは難しいですね。
思いの発する元は何だろうなんて考えながら耳を済ませたりしています。
わからないままは多いですよ。でもいいのです(笑)
いろいろ聞かせていただきます。若い頃は、その捨て所に困りましたが、
今はまあ、なんとか収めどころも深くなった…ような気もします。