京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

米の飯さえあれば生きていける

2024年09月07日 | 日々の暮らしの中で
その日、家で大人のいざこざに巻き込まれ、登校拒否になってしまったYちゃんと、戦争で右足を無くし松葉杖を突いて登校中、その歩く姿を真似られ、からかわれて泣きだしたKちゃんの二人を元気づけるため、小3から中2の女の子ばかり10人が、誰言うとなく一握りの米を持ち寄り、摘んだヨモギやノゲシの葉を入れて大鍋で雑炊を炊いた。

塩で味付けしたあたたかい雑炊は、「小さな胸の中の悩みや悲しみを、白い湯気で包んで笑顔に変える魔法の力を持っていた」


「もう六十年も前の沖縄での事」として玻名城千代子さんが書いていた。(『人間はすごいな』収 「米の飯さえあれば」)
文中の「60年も前」というのは、現時点では74年ほど前になろうか。
夢を語り、「いつか銀シャリのおにぎりを持って」と言い合った少女たち。

年月は流れ、日本はいまだ飽食の時代を思わせる。テレビ画面にはパクパク、もぐもぐ、ものを食べる姿がうんざりするほど映る。さまざまの食べ物の写真もあふれるし…。
でも、本当の“豊かさ”だろうか。

玻名城さんは、「古希を過ぎ、貧しくなるばかりの老いの日々だが、銀シャリさえあれば生きていける」と結んでいた。

我が家の義母も生前はよく口にしていた。
「ご飯がないのはかなん」
米がなかったわけではなく、仮におかずは漬け物だけであっても、とにかく白米だけは気のすむよう満足に食べたい口だった。
寺という環境で育った義母なりの、白米への思い入れかもしれない。
義母は「もっと食べろ、食べろ」と私に口うるさかったが、私は家にいれば、一日1回夜、一膳の白米をいただく。この基本は若い頃から変わりようがない。


その米が、売り場の棚から姿を消した。品薄と言われてここ久しい。
新米の時期には「仏さんに」と大きな袋であげて下さるご門徒がおいでだ。変わらぬお気持ちへの感謝の念が深まる。
底をつく前にと意識はしていたけれど出会いに恵まれず、少々不安になりかけてきた先日、5キロの新米が手にはいった。

「米の飯さえあれば生きていける」
これを一つの灯りとして、これからはそう信じて生きなければならないのだろうか。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする