「『虫養い』、いう言葉が大阪にはあるんや」
年の瀬に、駅のホームにある立ち食い蕎麦店で働く祖父を、東京から中学生の孫が突然訪ねてきた。理由は言わない。
仕事は虚しくないのかと尋ねる孫に「ムシヤシナイ」という言葉を教え、「とりあえず何かを食べて腹の虫をなだめ、力を補う」役目を大事に思うんやと話して聞かせた。
親子の関係がうまくいかず、「親父を殺すかもしれない」と深刻だったが、晴れやかな顔つきで帰って行く。
高田郁さんの短編集『ふるさと銀河線 軌道春秋』の一編にある。
一家を養う夫のリストラ。15歳少女の進学問題。息子を亡くした夫婦の悲しみ。突然病魔に襲われる…。慎ましい暮らしに生じる問題は身近だった。
読み終えた余韻の中、東京にある存命寺住職・酒井義一氏が書いておられたことが思い出されるのだった。
「人間がこの世で感じる苦しみを一言で表現すれば、『思い通りには生きていけない』という言葉で言い尽くされるのではないでしょうか」
だが、思い通りにならない現実だからこそ、思いもしていなかった言葉や人との出会いがあり、大切な気づきも与えられる。
浄土真宗本願寺派の勧学を勤められた山本仏骨氏が、死の直前に病床でつぶやかれたという
「まあ、どこにおってもお慈悲の中だからのう」という言葉が引かれている。
― たとえどような状況に身を置いたとしても、いつでもどこでもどんな時でも、み仏の光は人間をけっして見捨てずに、照らし続けているということです。
翻弄されながらも、幾多の言葉や人との出会いに息をつき直し、生きる力を貯め、みっともなくても生きようとする姿に安堵し、感動する自分がいて、生きるって、こういうことの繰り返しだと思ってみたりする。
そして、静かに自分の暮らしの隅々を見つめていく…。
(少しずつ濃くなる色味に、開花が待ち遠しい)