栗太郎のブログ

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出羽の旅 (4)  米沢

2007-08-26 17:36:02 | 見聞記 東北編

さて。
山形から米沢に向かうのだが、一般的な国道13号を下らずに、西向きに向きを変えた。
その道は、国道348号を通って小滝峠を越えて白鷹町に抜ける。
たどり着いたここ置賜(オキタマ)地方は、かつての米沢藩北部。
西に新潟県境の朝日岳を望む盆地である。

山形県内陸部は、山形市を中心とする村山地方にしても、ここの置賜地方にしても、南北に伸びる盆地の河川沿いにいくつかの町が連なっている。
例えば、信州伊那谷も似た地形だと感じるが、こちらのほうが肥沃な印象を受ける。
なぜならば、一目にして田んぼが多いからだ。
ここの盆地を家の敷地にたとえてみれば、高く繁った垣根の内側いっぱいに、ぎっしりと青々とした芝生(田んぼ)が敷き詰めているような印象を受ける。
まるで、緑の空気を満喫する世界。
そう、ここは明治初期に日本各地を旅した英人探検家、イザベラ・バードが「アジアのアルカディア(桃源郷)」と称えた土地なのだ。
もちろん僕も同じ印象を受けた。

見直した気分に浸って南下していると、米沢市内に入っていた。


米沢市内、まずは上杉神社へ。






ここはかつての米沢城の跡。
右手に、謙信の銅像が真っ先にお出迎えをしてくれた。




一般的にいうと初代は景勝なのだが、やはりここでは謙信なのだね。
精神的にもそうあるべきだと、僕も思う。
なにせここ米沢は、謙信以来の家臣団が大挙移り住んだのだから。

ちょっと先の左手には、鷹山の石碑があった。。
江戸期の米沢藩と言えば、上杉鷹山ヨウザンの名が必ずでてくる。




彼の名は、ジョンFケネディも口にするほどの改革成功者として名高い。
養子と迎えられた鷹山だが、母方は上杉の血筋でもあり、元をたどれば米沢初代藩主・景勝の昆孫(孫の孫の孫。曾孫の曾孫。)なのである。
上杉家にとっては他人ではない。
奇なる運命かな、彼が相続してまもなく先代の子が産まれる。
まるで秀次のような間の悪さなのだ。
しかし、彼が偉いのは、のちに自分の跡目をそちらに惜しげもなく譲ってしまったことである。
水戸黄門(次男として生まれて相続した彼も、兄の息子に跡目を譲った)にしてもそうだが、名君として後世に名を残す人物は潔さが別格なのだ。

「成せば成る 成さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の ならぬなりけり」

彼の言葉が刻まれていた。
要は、愚痴っぽい言い訳を言ってる奴を、なにもしないでなに言っとるかぁ!と叱っている言葉だ。
かくいう僕もいまや二度目の二十歳、プチ傘寿、である。
この言葉が身に染み込む歳になってきたのを実感する今日この頃。


ところで。
そもそも、なぜ改革を必要とするほど藩政が困憊したのか?
これほどの穀倉地帯をもつ藩なのに?

その疑問の答えは、第一に天明の大飢饉と呼ばれる天災によるところが大きい。
そしてもうひとつの理由に、30万石の身代のわりに家臣団が多かったという背景がある。
景勝は会津120万石から米沢転封に伴い、家臣を残らず連れてきた。
つまり、石高に比べ、4倍もの養い侍がいるのである。
ただでさえ、食い扶持が少なくなる。そこに飢饉とくれば推して知るべし。
そんな貧乏侍の性根が深く、また謙信以来の質実たる家風も手伝って、米沢藩はことに質素な藩政だったらしい。


次に、上杉家廟所。
ずらりと並ぶ。人気の高い景勝、鷹山の墓所に花が。





もともと上杉二代目・景勝から幕末期の十二代斉定までの墓所であったが、明治になって、謙信の墓も米沢城内よりここに移してきた。
謙信の遺骸は、甲冑を着け大甕に収められていると言う。毘沙門天の化身らしいわ。

受付で香華料200円を払う。
係のオジサンと、直江のこと、幕末の奥羽列藩同盟のこと、武家の住まい(ウコギ垣とか)のこと、、、、楽しくおしゃべり。
すると。初老の参拝者が会話に割って入り、
「ちょっと。景虎って誰?(←謙信のことですよ。)」
「じゃあ、長尾と上杉っていうのはどうちがうの?なんで名前が上杉家にかわったの?(←関東管領。謙信が役職ごと譲り受けたの。)」などなど、ふてぶてしい歳格好に似つかわしくない初歩的質問のクサビを入れてきた。
邪魔をされて、僕は萎えた。
(オッサン、割り込みはいいんだけど、そっから説明が必要だったら話は長くなるよ...。)
僕は自分の日記も長いのを棚に上げながら、無知だけならまだしも横柄な態度のオッサンにカチンときた。
再来年、大河ドラマが始まるとこの手の方々が大挙押し寄せてくるのだろうね。

さ、日も暮れかけてきた。
林泉寺へと急ぐ。

越後春日山城下にもあるこの寺。もちろん上杉家と共に移ってきた。
ここに、直江兼続が眠る。





石田三成と気が合った正義感。唯一、家康に楯突く書状「直江状」を送りつけた豪胆な武人。
夫婦揃って並んだ墓碑は、珍しい家型だった。
周りも似たような墓が多いところをみると、この地方では普通のようだ。



沖縄の厨子甕によく似ている印象。
僕の骨壷のデザインは、これでもいいなと思った。





ちなみに、その大河ドラマのタイトルは『天地人』。
http:// www.nhk .or.jp/ drama/h tml_new s_tench i.html


上杉家。
戦国時代、織田と終始敵対し、関が原では西軍方につき戦端をひらく。
そのくせ将軍家(というより保科正之)に恩義を感じ、幕末は会津に組する。
ハッキリ言えば、どの時代も大抵が負け組みなのだが、何故か惨めさはなく、居住まいの清らかさを感じてしまう印象を深くした。



日没前の6時。
僕は会津経由、西会津街道をたどって家路についた。
帰宅は10時、4時間の行程。
「意外に米沢は近い。」そう思った夜でした。

おしまい。



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