栗太郎のブログ

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出羽三山の旅(2) 大日坊

2015-08-23 03:07:01 | 見聞記 東北編

湯殿山神社から下って、大日坊へ。
大日坊は、湯殿山の本寺として栄えた。神仏習合の時代、ここも湯殿山神社とふかく結びついていたわけだ。
そして湯殿山が女人禁制の頃(戦後に解除された)は、女性はこの寺までしか参拝できなかった。

国道から案内に従い坂道をのぼり、ぽつぽつと民家の建ち並ぶのどかな田舎の風景の中に寺はあった。
藁葺きの仁王門が目立つのですぐにわかった。鎌倉時代建立という。




中を覗くと、風神様と雷神様が。






雷神様のダンゴッ鼻がとっても愛らしい。
風神様の顔立ちは、龍なのか豚なのか、こちらも特徴のある鼻をお持ちのようで。
門の後ろ側に、阿吽の仁王像が背中合わせに立っていた。

門を抜けると、正面に本堂が見えた。
この辺りはさすがに標高が高いせいか、参道には、終わりかけとはいえ、この時(8月1日)でもアジサイが咲いていた。




僕は、仁王門から見る本堂までの景色にちょっと違和感をおぼえた。
この寺、大同2年(807)空海により開創というが、それだけ由緒ある歴史を持つ寺にしては、どうも参道が狭い。
おまけに、建物の周りには大きな樹木もなく、どうも解放感がありすぎて、どこかの御大尽さんの住まいのようにしかみえない。
あとで知ったが、なるほどそのわけは、寺は元々この場所ではなく500m上にあったらしい。
昭和11年に地滑りがあり、この地に移転したというのだ。
しかし、移転することじたいはまだしも、「地滑り」という災害がこの風景に不釣合いのように思えた。


今年未年は、秘仏ご本尊・湯殿山大権現のご開帳の歳にあたる。
本堂前には、それにちなんだ回向柱が立っていた。





拝観料500円。本堂に入り、ご本尊のすぐ前まで案内され、梵天で頭をバサッバサッとお祓いをしていただいた後に、ご住職からの説法をたまわる。
湯殿山派の別当寺4ヶ寺のうちのひとつであった大日坊。いわば、湯殿山参拝の人々の受付窓口みたいな存在であったのだろう。
江戸時代は、春日局との縁もあり、将軍家の祈願寺としての格式を持つ。
明治の廃仏毀釈の際、神社にならずに寺院で通したがために、嫌がらせを受け、焼き討ちにもあったという。

湯殿山大権現とは「金胎両部大日如来坐像」、つまり、金剛界大日如来と胎蔵界大日如来の2体。
真言密教の説く両界曼荼羅の中心をなすホトケ様だ。
見た目はよく似た2体の大日如来、見分けをつけるのは手の形。
「智拳印」といって、左手の人差し指を右手でぎゅっとつかんでいるのが、金剛界大日如来。
「法界定印(ほっかいじょういん)」といって、4本の指を重ねて親指の先をくっつけているのが、胎蔵界大日如来。
胎蔵界大日如来は女性を表すともいう。字をみれば、なるほど女性の身体的特徴を示しているなと思った。
もちろんここにある理由は、女人の参拝寺であったからだろう。
ちなみに、金剛界も、改めて字を読めばなるほど男性的だった。
そのせいで、そのまっすぐに伸びた指を握った印相は、男の大事なイチモツを隠し持っているようにしか見えなくなってしまった。


そのあと、こちらにいらっしゃる即身仏とご対面。
今回の旅でお一人目の即身仏のホトケ様。(このあと、何人ものホトケ様にお会いすることになる)
名を、真如海上人という。ほぼ骸骨である。
痩せた人を指して「干乾びて骨と皮だけ」とはよく言うが、このホトケ様は、皮が骨にへばりついているガリガリのお姿だ。
なのに、手の甲には血管が浮き出てるようにも見える。生きているとはまで言わないが、少なくとも息絶えてからまだ数ケ月、と言ってもいいくらいの抜け殻具合。

しおりによると、・・・
旧朝日村越中山に生まれ、純真な性格の持主として育ち、幼少のころより仏教の教えに心をひかれ~
徳望一世に高く、生き仏として多くの人々より尊ばれた。~天明3年(1783)96才で生身のまま土中に入定~
3年3カ月後に弟子や信者の手により掘り出し、これを洗い清め乾かして即身仏となる。  ・・・とある。

天明といえば、全国的に大飢饉に襲われた時代。特に、東北地方は人食いまででるほど困窮を極めた。
上人は、飢饉で苦しむ人々の身代わりとして、その苦しみを一身に負うべく即身仏を志したという。
高尚な志である。が、即身仏を目指したのは20代、つまり70年も前のことだし、「補陀落渡海」とちがってすぐに実行できるものでもない。
即身仏になるには、五穀断ち十穀断ちの木食行を10年ちかく行ったうえで、身体の脂肪分を落とさないと、完全なる即身仏にはなれない。
高温多湿の日本では、腐ってしまうからだ。
飢饉が即身仏を目指した動機ではなく、入定をする決意の動機なのであろう。
上人すでに90代、いつ入定しようか、見極めているときだったのかもしれない。
なにしろ、自らの左目を刳り抜き、湯殿山に捧げて衆生救済を願ったほど、我が身に代えても人々の幸福を願った人だった。
・・・だった、のか?
なにやらほんとは、かつて、この近所の農民だったのちの上人様、担いでいた肥桶から、すれちがった武士に汚物がかかり、無礼討ちにされそうになり、
杭を抜いて応戦したらその武士を殺してしまった、そこでやむなく、大日坊に逃げ込んだ・・というのが、仏門にはいったきっかけとも聞く。
ともあれ長い年月苦行を重ね、最後には水と塩で42日間(だったか?)過ごし、身体が腐らないように漆を飲んだ上人様、
即身仏になるべく土中入定し、畳三畳ほどの石室の中で、息の絶えるまで読経をあげ鉦を鳴らし続ける。
しかし、それを憐れんだ老婆がいて、こともあろうに竹の中に饅頭を突っ込んだ。おかげで空気が途絶えて窒息死してしまったらしい。
ちょっとせつない最期だった。
ほかに、この寺にはもう2体の即身仏がいらっしゃったが、明治8年の火難の際に焼けてしまったという。
この真如海上人は、遺言により(だったか?)別の場所に安置されていたために無事だった。
このホトケ様、6年に一度、衣替えを行う。それまで着ていた法衣は、細かく裁断されてお守りとして売られていた。
ほかに仏前には、全国からお供えものが届いていて、たくさんの花と、お供物の木の実がそなえられていた。
木食行をされたホトケ様だから、やはり団子や果物ってわけにはいかないようだ。
ホトケ様以外は撮影OKというので、じゃあこのお供物は?と尋ねると、一瞬戸惑いつつ、いいですよ、のお答え。
では、ホトケ様が映らないようにぃ、、と口に出しながら一枚パチリ。




ご朱印の文字は、湯殿大権現、と書かれている。






・・・で、あとでこの寺の創建について考えた。
そもそも、空海が、ってことが眉唾なのだ。僕は、空海本人が東北に来たことがあるとはみじんも思っていない。
じゃあちなみに大同2年(807)って空海が何してた頃よ?ってことで、確認してみると、前年の大同元年にようやく唐から帰ってきて、このときはまだ大宰府にいた頃だった。
つまり大同2年というのは、約束よりも早く帰ってきてしまったため(20年の予定を2年で)に、そのまま都に帰れず、まだ大宰府で足止めを受けていた時だ。
そんな大変な時に、都よりも遠くに行くことさえ無理だし、だいいち、地方の寺院の開創のことなど構っていられないと思う。
気になることに、大同2年という年は、空海にちなんだ出来事のほかに、円仁や坂上田村麻呂にちなんだ伝承がやたらと多いらしい。
真言が空海にすがるように、天台は、東北ゆかりの円仁を持ちだしてくるのだろうけど、時代がまだ早い。(まだ13歳ですよ?)
たとえばwkiによると、清水寺の創建も、四国八十八か所のうちなんと1割もそうだという。
早池峰神社も赤城神社も、富士山本宮浅間大社(こちらは大同元年らしいが)も、この時代。
そして、各地の鉱山の開坑もこの時代に多い。そこは、真言、山伏、鉱山師、あたりのキーワードをつなげれば、謎を解けそうで。
そして、そんなもろもろの背景には、早良親王の祟りを怖れた平城天皇の御代であったことも、なにやら影響がありそうで・・・・・。

とイジリつつ、本筋から脱線しそうなので、この話は別の機会に。


(つづく)



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2 コメント

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宿坊 大日坊 (カメラ小僧)
2016-03-21 20:29:48
毎年夏になると、山伏修行体験が出来るそうである。
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>カメラ小僧さん (栗太郎)
2016-03-22 18:54:40
山伏修行体験、ですか!
教えていただきありがとうございます。では、今度、湯殿山に行くのは夏にするとします。ありがとうございました。
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