昨晩は寝る前に「八木重吉-詩と生涯と信仰」(関 茂著)を読んでおりました。八木さんはクリスチャン詩人として有名かと思いますが、最近そのよさがしみじみ感じられるようになってきた気がします。若い頃は、その飾り気のないスタイルに「なんか誰にでも書けそうな詩だなぁ。」なんて思っていましたが。(生意気な!)しかし、こんなにも研ぎ澄まされた詩は彼にしか書けないものですね。透明度の高い言葉と、その中にまっすぐ流れるひたむきさと実直さに、心が洗われます。この人の場合、詩と人間性が一体に感じられます。そして自分の詩は小手先だなぁ、と反省させられます。
この本の中に、彼が師範校友会雑誌に投稿した聖書についての文の引用があるのですが、これに昨夜とても感動しました。少し抜粋します。
「すべての詩の本が亡びても、私には一冊の聖書があればすこしもさびしいことはありません。イエスという人は、時々、非常な、無理な、到底人間には出来ぬようなことを人に欲求しているようにみえます。それについて私はながい間疑がはれなかった。しかしだんだんわかってくるようです。つまりイエスは、右の手に光を持ち、左の手に救いを持っていられたのだと思います。右の手の光で、私らをすっかり照らして、私らに自分の底をよく見させ、自分とはこんなものだということを知らせ、それから左の手で救い取ってくださるのだと思います。
「・・・しかし、つまりは、自分の気持は一つです。イエスが好きだ世界中で一番好きだということです。好きだから、イエスの云ったことに嘘はよもあるまいとおもう。もし嘘があってもかまわないとおもうのです。
「・・・そして、その人により、おのおの、個性を通して、千変万化の相ある真理をだんだん深く、探り当ててゆかれることと思います。千変万化でありながら、真に、一であるもの―それに触れてゆくでしょう。」
作品やその中に見られる技術に感心することはあっても、それらを造りだした作者の人生や生き様においても感銘を受けるということは、そう多くはないかもしれせん。詩においても、信仰においても、学ぶところの多い人に出会えて、幸いです。
この本の中に、彼が師範校友会雑誌に投稿した聖書についての文の引用があるのですが、これに昨夜とても感動しました。少し抜粋します。
「すべての詩の本が亡びても、私には一冊の聖書があればすこしもさびしいことはありません。イエスという人は、時々、非常な、無理な、到底人間には出来ぬようなことを人に欲求しているようにみえます。それについて私はながい間疑がはれなかった。しかしだんだんわかってくるようです。つまりイエスは、右の手に光を持ち、左の手に救いを持っていられたのだと思います。右の手の光で、私らをすっかり照らして、私らに自分の底をよく見させ、自分とはこんなものだということを知らせ、それから左の手で救い取ってくださるのだと思います。
「・・・しかし、つまりは、自分の気持は一つです。イエスが好きだ世界中で一番好きだということです。好きだから、イエスの云ったことに嘘はよもあるまいとおもう。もし嘘があってもかまわないとおもうのです。
「・・・そして、その人により、おのおの、個性を通して、千変万化の相ある真理をだんだん深く、探り当ててゆかれることと思います。千変万化でありながら、真に、一であるもの―それに触れてゆくでしょう。」
作品やその中に見られる技術に感心することはあっても、それらを造りだした作者の人生や生き様においても感銘を受けるということは、そう多くはないかもしれせん。詩においても、信仰においても、学ぶところの多い人に出会えて、幸いです。