言の葉ひらひら - Wordy Leaves Dancing

「はじめに言葉があった」
"In the beginning was the Word."

賜物の片割れ?

2005-09-16 | 神の葉
今日はある先生と語り合い、大変感銘を受けました!始めはお互いに自分の専門分野について話をしていたのですが、だんだん教える事そのものの面白さの話になったのです。その人の「THE・教師をしていて良かった!と思う瞬間」は、日々の生活を見守りながら生徒の訴えたい気持ちをキャッチして、ベストタイミングで悩みを聞き、その後のぐんとした成長を見れること、だそうです。生徒達を見ていると、「なんか悩みを抱えてそうだな~」から「この子はそろそろ話しに来るな」そして「今日だ、もう今日しかないッ!」とピンと来るんだって。スゴイですね。それで生徒は話すことによって、自分の問題をやっと把握できたり、客観的に見れたり、それを乗り越える事が出来るようになるんだって。ただ反対に、悩みを聞いた先生はその分、重みがこたえて自分が影響されるので大変らしい。「浄化装置が必要」って言ってました。そりゃ、人間汚水処理場状態はキツいでしょう。ところが、ここで話は新しい展開に…

その先生曰く、「人は神様を信じて受け入れた時、生まれつきのものとは別の、神様だけの為に用いる新しい賜物がもらえるんだって。」某クリスチャン学校でそういう教師セミナーがあったらしい。自分がどんな霊の賜物を持っているか知るためのテスト(祈る・施す・教える・もてなす・説教する、等いろいろあったな)なら受けた事あるけど、クリスチャンになった時に授かるNEW賜物なんて、初めて聞きましたよ。(コリント人への第一の手紙12章参照)で、その人も「そのタレントって何だろー?」と数年考え続け、やっと最近分かったそうです。それが前述の「生徒の声にならない声をキャッチし、そしてその声が語られる・それを引き出すタイミングを知る感覚」。そこで私は考えた。「それは賜物の片割れなんじゃない?」だって頼まなくても、神様は私たちに色んなギフトや賜物を与えて下さるけど、ぜんぶ棚ボタって訳じゃあない。私達が必要を感じて神様に祈ったり願ったりする事もできるように、すぐに落ちてこない餅もあるんですよね。それを引き寄せるための荒縄(チャレンジ)だけが垂れてたり。だから、絶対必要なもう片方の賜物である「浄化装置」は求めないと与えられないのかも。(汚水管だけもらってもねぇ)そんなお話をしたのでした。

さぁーて、私のNEW賜物は何だろう?私なんて、残りの片割れを求めるどころか、最初の賜物の片割れの認識もできてないんですけど?!これから祈って見つけていくとしますか。

動物だって・・・

2005-09-14 | 言の葉


またまた遅くなっちゃいました。大学院生活、結構忙しいです。難しい教科書開きながらよく睡魔に襲われています。(←忙しいというのか?)引越しもしたばかりであちこちに箱があってよくぶつかっています。そんな中、自然散策をしてきましたので、ここにshareいたします。アメリカもミシガン州は、早くも紅葉の時期が来たようです。私もこのBlogに美しく色づいた言の葉をつけたいものですが、まだまだ青いものばかりのようで…

「はじめましての言の葉」で人間は言葉を扱えることから「人間に生まれてきて良かった!」と書いたんですけど、最近、言語学のクラスで驚くべき事を習っているんです!オラウータンが手話を学んで、自分のペットの猫(動物が動物のペットを持つのもすごいな)が死んだ時、「僕は悲しい」って手話したそうです。(これは前にも聞いた事があったけど)しかし先週聞いてもっとびっくりした最新版は、マダカスカルの言葉をしゃべるあるオウム数羽ににある簡単なゲームを教えて、その後わざとルールを間違えてゲームをしたら、オウムが "No!No!"って言って、"This way, this way!"って言いながら正しいルールで遊んで見せたんだって!オウムのしゃべりはオウム返しじゃなかったの?びっくりさせ過ぎ。

あと、言語を扱う訳じゃないけど、もう一つコミュニケーションする動物編。メスのコオロギはオスのコオロギの歌を聞いて好みのオスを選ぶのですが、それがオスの出す音波の域に関係すると実験によって分かったそうです。ある音波の域がモテて、それ以外だとあまりメスが寄り付かないとか。「非モテ音波を出すオスは可哀相ですね」と発言したら、教授が「でも年魔のメスは許容域が広くなるんだ。だから大丈夫。」とおっしゃいました。クラス一同大笑い。でも、それって本当かいな?動物の世界も結構シビア…

でも、人間じゃなきゃBlogができないもん、やっぱり私は人間で良かった!(ってオチにしておこう。)

生徒のための祈りの本

2005-09-06 | 教の葉
新学期が始まり、二週間目に入りました。先週はドタバタしていましたが、だんだん毎日のリズムが掴めてきたようです。私は現在、教育学部である教授のGraduate Assistant(大学院生助手)の仕事を午前中にし、午後に大学院のクラスに出る生活をしています。教育学士を取得し卒業した母校に四年ぶりに戻ってきたわけですが、六年前には自分が受講していた教育のクラスで、今度は教える事も度々あります。目の前に並んだ大学生達を見て、「彼らもいつか教師になっていくんだなぁ。」と思うと、感慨深いものがありますね。自分もちょっと前にはあそこに座っていたんだな、って。きっと先生になってからの方が楽しいけど、今はしっかり準備してみんな良い先生になって欲しいな。

さて、アメリカの教育学部の学生達は、四年生になって教育実習をやる以前からも、近辺の学校で週に何度か実習をする機会がよくあります。(教育実習も15週間やるし!)私が助手をしているクラスはTeaching Beginning Reading(初歩の読み方)で、もうすぐで学生達が小学校に読み方を教えに行くので、彼ら一人一人が学校に持っていく教材バッグの中身を準備するのが、目下の私の仕事です。そのバッグの中に入れるリストの中に、色付きのカードを20枚くらいリングで止めたA Book of Prayers(祈りの本)というものがあるのです。何の為に使うのか教授に聞くと、学生達が教えている子供たちのために祈れるようにだそうです。今まで、公立の学校で教えていたので、「あークリスチャンの学校に帰ってきたなぁ。」とちょっと感動しちゃいました。一ヶ月ほど前にキャンパスで仕事を探していた時も、面接をした後に面接官が私の将来の為に祈ってくれたり、昔ならあまり気にも留めなかった事が、新鮮で有難く感じられるようになったかな。とにかく「生徒のための祈りの本」もいいアイデアですよね。「先生ダイアリー」と共に覚えておいて、また現場に戻った時に使ってみようっと。

宗教話あれこれ

2005-09-01 | 神の葉
アメリカに帰って来てから、友人達や彼らの知り合いの宣教師家族と散歩をしました。(1時間位歩いてキツかった!)宣教師家族はタイから一時帰国していたのです。(もう今頃はタイに戻ってるな)そこで、日本の宗教(神道・仏教)について聞かれたり、他の宗教について色々話したりしました。私はクリスチャン2世(いや3世かな?)で、あまり日本の宗教には明るくないんですが、一緒にいたもう一人の日本人の友達が説明してくれたので助かったし、勉強になりましたね。本とかで読んだり、人の話を聞いたりすることはあっても、経験的な知識があまりないので、なんか母国の宗教でありながら私には少し別世界のものみたいです。でも逆に、なじみがない人にはキリスト教の方こそ異国臭くて別世界のものみたいに感じるのでしょうね。でも、なじみ深さや居心地の良さは影響力が強いとはいえ、必ずしも信仰する宗教の選択に結びつかないかもしれません。アメリカでも仏教を信仰する人が増えているし、韓国でもキリスト教は熱心に広められ栄えています。ある個人が何かを信じたいと願っている時、心の琴線に触れたものが、宗教や慣習という枠組みを超えたところで信仰されていくのかもしれませんね。

さて、タイの宣教師の高校生くらいの息子が言っていました。「アメリカのキリスト教も真の神様に仕えるものではなく、自分の思い通りになる魔法使いを求めるような異教的なものになってきているんじゃないかな。ある意味、タイの信心深い仏教徒の方が実利主義の自己中心クリスチャンより救われ易いと思うよ。だって神を畏れる気持ちを持っているからね。」ここで私はまた酋長ツイアビの言葉を思い出したのでした。(昨日の「パパラギ」参照)どの宗教を信じても同じとは思わないけど、「私の宗教は正しいから自分は安心」とは言えないんじゃないかと。What you believe(何を信じるか)も大事だけど、How you believe(どのように信じるか)そしてWhy you believe (なぜ信じるのか)も大事にしないとね。 表向きはどうあれ、神様の方にどんな心を持って近づいているのか、それはやっぱり神様にしか見えない部分なのでしょう。他人や自分さえ偽ることができるのだから。