言の葉ひらひら - Wordy Leaves Dancing

「はじめに言葉があった」
"In the beginning was the Word."

ネガティブ・スペース

2006-07-23 | 美の葉
このネガティブ・スペースというものについて、私はこれまで色々と考えさせられてきた。これについて、幾つかの詩も書いたし、ブログでも語りたいと思ってきた。が、どこから手をつけてよいのかわからず、なかなか書き出すことができなかった。しかし、やっと機が熟したのだろうか、いま何かが私を突き動かしている。

まず、「ネガティブ・スペース」とは何か、という説明から入らなくてはならないだろう。先週、アンドリュース大学の教育学部にて、大学院生と博士課程の生徒の為のカンファレンスが持たれ、ダニエル・ピンクというスピーカーが「これからは右脳を使う人材の時代が来る!」というような内容のスピーチをした。右脳左脳の機能うんぬんについての話はここでは省略するとして、ネガティブ・スペースについての話が、私の印象に残った。それに、FedExの会社のロゴを使ったネガティブ・スペースの説明が非常にわかりやすかった。ポジティブ・スペース(正の空間)、ネガティブ・スペース(負の空間)というのは美術用語であるが、上記のロゴでいうとFedExと書いてある文字の部分がポジティブ・スペース。そのEとxの間の白い部分に注目!私も言われて初めて気がついたが、この矢印の形になっている所が、ネガティブ・スペース。普通だいたい最初に目に留まるのはポジティブ・スペースで、ネガティブ・スペースは単なるバックグラウンドとして捉えられていることが多い。しかし、このネガティブ・スペースにもメッセージや意味が隠されていることが多くあるのだ。

私がネガティブ・スペースという概念に最初に出会ったのは、小学生の頃に通っていた書道の教室である。そこのおばあちゃん先生は学校の書写を嫌い、「整った字を書けばいいってもんじゃない、生きた字を書け!」と言うような威勢のいい、面白い方だった。ある日その先生は、「墨で書く黒い部分だけのことを考えるんじゃないよ、筆を動かせば周りの白い部分の形も変わるだろ。そこのことも考えて書くんだよ。」と言った。そのときは「へえ、そういえばそうだなぁ」くらいにしか思わなかったが、今でも何故かその言葉をよく覚えている。それから、大学の彫刻のクラスの先生もこう言っていた、「ノミで彫ってかたどっているのは木の形だけじゃない、その周りの空間の形もだ。」さらにデザインのクラスでは、Figure/Ground Reversalという、見方によっては正と負の空間が入れ替わる絵(有名なのは坪の絵)について習った。視覚の世界ではこのポジとネガのスペースが隣り合わせになり、互いにバランスを取りながら、人間の目に訴えてくるのだ。

これは聴覚の世界にも当てはまることで、空白であるかのように思える沈黙や音楽の休止符にも、もちろん意味がある。武者小路実篤氏が「バッハの音楽を聴いていると、沈黙の美を引き立たせるために音が造られたように思われる」というようなことを書かれていたが、これには音楽の世界のポジとネガを聴き分ける耳の鋭さに感心させられた。更に、人と人とのコミュニケーションについても、ポジティブ・スペースとネガティブ・スペースがあるように思う。語られた言葉の形が明確であれば、その意味はわかりやすいが、語られなかった言葉にも形があり、その形には意味があるのかもしれない。「沈黙は金なり」という言葉もあるが、沈黙は知恵、気遣い、思いやりを意味することもあり、逆に無知、無関心、残酷にもなりうる。多くの場合、コミュニケーションのポジとネガの境は無意識の内に生まれるのだろうけれど。

インターナショナル・コミュニケーションの教科書には「西洋人のコミュニケーションは発信者重視であり、東洋人のコミュニケーションは受信者重視である。」とあった。つまり、西洋人は語り手が伝えるべき内容をいかに明確に全て伝えきれるかを重んじ、東洋人はいかに聞く側が語り手の言葉とその行間から内容と真意を漏らさずに受け取れるかを重んじる、ということらしい。西洋人と東洋人の会話のパターンがいつもこうであるとは言えないが、そのような傾向は確かにあるとアメリカと日本にほぼ同年数住んだ私も思う。飛躍し過ぎかもしれないが、東洋人のコミュニケーションにおけるネガティブ・スペースの割合、そしてそれが含むメッセージは、西洋人のそれより大きいのではないだろうか。

私の場合、話す時には言葉として表れるポジティブ・スペースにばかり気がいくし(そして言わなくてもいいことをポロっと言う)、聞く時にはネガティブ・スペースの形を適当に解読するのが苦手である。ネガティブ・スペースそのものに気づいていないことも多いが、気がついた場合にはおめでたいほど楽観的に受け取るか、有り得ないほど否定的に受け取ってしまうタチなのだ。(というか妄想の域に近い?)まぁ、コミュニケーションのポジとネガは、習字の白と黒ほどクリアじゃないから、判りにくいけれどもね。でも、ネガティブ・スペース = マイナスではないのに、マイナスイメージで捉えてしまうことが多いかも。これはネガティブ・スペースで満ち満ちているこの世の中で生きるにはなかなか損なことであって、意識して直す必要があるかもしれない。

そう、この世はネガティブ・スペースで満ちている。詩の空白。音楽が奏でられた後の余韻を引き出す静けさ。神の沈黙。形あるものが造られなかった七日目。そこにも確かに意味が込められていて、私達に何かを伝えようとしている。私を取り巻いている数々のネガティブ・スペースは、私が想像しているよりも遥かに優しく暖かいものなのかもしれない。

昨晩聴いた、ふだん寡黙な人のピアノが美しかった。

歌と踊りのWeekend!

2006-07-11 | 音の葉

先週末は、本当に歌と踊りのWeekend!でありました。

まず、金曜日の夜にアフリカはWatotoというウガンダの孤児施設の子供達のコンサートに行きました。これがすっごく良かった!自分も以前アフリカに住んでせいか、アフリカンな歌とリズムには自然に体が動き出してしまう。。。歌と踊りと衣装も可愛いかったけれど、子供達の証や歌っているときの顔が、彼らの人生を物語っていましたね。エイズが蔓延するアフリカには孤児がたくさんいて、トイレの穴やゴミ捨て場に手足を縛られて捨てられた赤ちゃんまでいるのです。(私がザンビアにいた時も、トイレの穴に捨てられた赤ちゃんがいて、仲間の看護士が助けに行っていました。)そんな子供達をWatotoは引き取って、家にhome motherと住まわせ、クリスチャン教育をしています。子供達はかつての苦しい暮らしについて、現在の恵まれた環境について、そして未来の明るい夢について語っていました。歌声もいいけれど、 Youtubeで彼らの歌と踊りと笑顔を見て頂きたいな。(コチラで子供達の証やWatotoミニストリーについても詳しく聞くことができます。)もちろん一番いいのはコンサートで観ることですけれど、あいにくMidwest Tourは終わってしまった模様...(私も突然誘われたので、もし知っていたらMidwestの人達に宣伝できたのに!と残念。)

それから、土曜日は教会でInternational Christian Chorusに加わって特別賛美をしました。その夜はコンサートに行けなかった人達と一緒にWatotoのDVDを観たんですね。(ハイ、かな~りハマってます。)その晩、DVDを観た子供が「お父さんとお母さんがエイズでなくて感謝します。自分におうちがあることを感謝します。自分もあんな風に神様を賛美できますように。」とお祈りしていたらしいです。何かが伝わったんですね。大変な境遇の人を見たりすると自分はそうじゃなくてよかったと思うことって口にはしなくても実はあるかもしれないけれど、自分も学べること、尊敬できることも素直に認められるってすごい!

さてさて日曜日には日ごろお世話になっている方達のために、有志で集まって企画した感謝ミニ・コンサートを開きました。日本の夏の歌を歌ったり、ゴスペルを歌ったり、アフリカの歌&踊りをしたりとアット・ホームな雰囲気で楽しく過ごせたと思います。それから思いがけず、そこに集まっていた子供達がInternational Summer Festivalのために練習している南中ソーランを披露してくれました!これがまたかっこいいのですよ。なかなかキマってましたよ。その殆んどは元教え子ということもあり、感動ひとしお!みんな大きく、凛々しくなったなぁ~。夏休み。日焼けした少年達。そして、ソーラン節。いいですよねぇ。

というわけで、今週末は私も歌ったり踊ったりしましたが、子供の歌と踊りには負けましたな。ウガンダの子供達のアフリカの歌と踊りとその輝くばかりの笑顔。日本の少年達のソーランの力強い踊りと真剣そのものの表情。どちらも彼らにしか出来ないものでしたね。あとで、南中ソーランの指導をされた元教師の方とお話をすることができました。世界中の様々な踊りに魅せられて、その踊りはかなり本格派、そんな彼女曰く、「日本で子供達に踊りを教えた時、ビデオで撮って見たことがあるけれど、技術的にはすっごく上手というわけではなかった。でも、生で見ると、子供達の真剣さが伝わって、単に上手い踊りより感動するものがあった。」また、土曜日に教会に向かう車の中では、中学校でコワイヤー・コンダクターをしていたルーミーが「音をはずす事は誰にでもあるけれど、笑顔はいつでも誰にでも出来るのだから、絶対笑顔を絶やさないこと。」と教えていた話を私達にしてくれました。テクニックより情熱!と書いた前回の葉とも通じるものがありますね。いや、テクニックが要らないわけではもちろんなく、前述のウガンダの子供達も毎日何時間も練習しているし、南中ソーランの子供達も自主練習に燃えているそうです。でも、それはやっぱり心が入っているから出来るんじゃないかな。私も熱く歌って踊るぞー!

歌って踊ってハッピー☆サバス!

2006-07-08 | 神の葉
「罪から救われて、キリストの愛にあって歓喜することこそ
福音の本来意図するところなのです。真の祈りは感謝と不可分です。
真の祈りには必ず感謝が含まれています。
常に祈る人は常に賛美しています。
安楽の中にいようと苦痛の中にいようと、
ものごとがうまく行こうと最大の逆境にあろうとつねに賛美しています。
彼は起こってくるすべてのことを神に感謝し、それを神から来たものとみなし、
それをただ神のために喜び受けるのです。
そしてどんなことでも、それが神の完全なみこころに一致するか
否かのみを考えて、選び取るか拒否するか、
好むか嫌うかをきめるのです。」
-ジョン・ウェスレー (新約聖書注解書)

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。
すべてのことについて感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって、
神があなたがたに求めておられることである。」
-Iテサロニケ 5:16-18

「感謝」の週をお過ごしください! - Kuriks

Sing and dance for Happy Sabbath!

2006-07-08 | leaves on GOD
“To be saved from sin and to rejoice in love of Christ
is the true essence of the gospel.
A true prayer is inseparable from praise.
A true prayer always contains thanksgiving.
A man of prayer is always praising.
Whether he is in comfort or affliction,
Whether things are going his way or he is in crisis,
he praises all the time.
He thank God for everything that’s happening,
regards them as they’re from God,
accept them joyfully only for God.
In everything, he only considers
whether it’s according to God’s perfect will or not
when deciding to choose it or reject it, like it or dislike it.”
- John Wesley
(Notes on the New Testament)
(Not exact wording)

“Be joyful always; pray continually;
give thanks in all circumstances,
for this is God's will for you in Christ Jesus.”
- I Thessalonians 5:16-18

Have a “thankful” week! - Kuriks

中田選手の引退、そして語学力とコミュニケーション力の違い

2006-07-06 | 言の葉
始めに断っておきますが、私は今回のワールドカップ/ブラジル戦で初めてサッカーTV観戦したぐらいのスポーツにあまり興味がない人間です。(好きで観るのは四年に一度のオリンピックくらい。)ですので、サッカーファンや中田ファンの方達に違うだろう!と思われることを書いてしまうかもしれませんが、あくまで今回の投稿の主役は「言葉」ということで、お許しください。

さて、インターネットのニュース欄で目に留まった中田選手の引退の話題を追ってみたら、こんなブログの記事を見つけました。そこには中田選手のサッカー暦に加えて、こんな事が書かれてありました。

「彼は言葉は話せても、伝え方が苦手だったと想います。」
「必ずしも語学が堪能な人が能力が高いとは限らない、というか、それが裏目に出る場合もある。」

よく知りませんが、確かに彼は英語もイタリア語も出来るけれど、誤解されやすく不器用なイメージがあります。(多分にマスコミのせいでしょうけど)今回の引退宣言をするにも自分のHPを選んだように、他人のフィルターを通して自分の言葉が曲げられるのを嫌う彼は、「世間から見られている自分」と「自分が思う自分」との間のギャップを、自身のHPに直接自分の言葉を綴る事によって埋めているようにも見えます。私もブログを書くようになって、ブログを通されたイメージと現実の私との間にギャップがあると言われたりするんで、なんかわかります。でも、不特定多数に読まれる事を前提に自分で意図的に選んで書く言葉と、普段関わり合う人達に無意識にさらけ出している自分に距離があるのは、しょうがないことだと思いますね。どちらの姿も現実であり真実であるけれど、その両方が本人の誤算や他人の誤解による誤差が含まれる可能性を多大に持っています。いったん自分が出した言葉って自分の一部のように思っていても、独り歩きすることもあるし、裏切ることもあるし、より大きくなって還ってきてくれることもあるんです。言葉って不思議ですよね~。

言葉を教えるものとして、やはり考えるのが語学力とコミュニケーション力の違いです。語彙を増やし、文法をマスターし、発音をきれいにし、色んな言い回しやイディオムを覚えても、それは単なる表面上の知識と技術です。それらを学ぶことももちろん大事ですけれども、コミュニケーション力を持つこととは違います。それは何かを伝える力。前述のブログに、このようにも書いてありました。

「言葉はあくまでも道具、その土地、土地での慣習に過ぎないのです。」
「大事なのは正確な内容ではなくて、伝えたい熱意や想いだったりするのです。」

少し前の忘筌、忘蹄、恋する男にも書きましたが、荘子も「言葉は魚を捕まえるアミ、兎を捕まえる罠のようなものだ。」と言っています。道具の性能もさることながら、魚のイキのよさ、兎のジャンプ力も大事。でもコミュニケーション力のつけ方は学校でなかなか教えてもらえない。だけど、伝える力、伝える道具、そして伝える何かを身につける場を与える教育って必要ですね。

先ほどの「必ずしも語学が堪能な人が能力が高いとは限らない」という言葉を読んで、村上春樹氏(またまた登場!)が言語力と気持ちの通じ合う率が必ずしも比例するわけではない、ということを述べていた文章を思い出しました。

「自分が流暢に話せないことを弁解するわけではないが、すらすら外国語が喋れてコミュニケートできるからといって個人と個人の気持ちがすんなり通じ合うというものでもないと僕は思う。すらすらとコミュニケートできればできるほど絶望感がより深まっていくということだってあるし、つっかえつっかえ話し合えばこそ気持ちが通じ合うということだってある。」(「やがて哀しき外国語」)より)

つたない言葉で気持ちが通じ合う、そんな場面を垣間見せてくれる本があります。開高健の「ベトナム戦記」-ベトナム戦争最前線の現場からのルポタージュ本。何かを伝えようとする気持ちと言葉について考えさせられるエピソードが幾つかあります。(以下抜粋)

「ベトナム語がまるで通じないのだから日本語としゃべるのとおなじで、そうした方が顔や声に感じがでてかえってハッキリこちらの意思が通ずるのだという考えを彼(同伴のカメラマン)は持ち、かねがね実行していた。はだしの子供二人が新聞をさしだしてかけよると、彼はポケットから金をつかみだし、日本語で茫然と
『・・・・笑って暮せよ、な」とつぶやいた。」

以下はほぼ全滅まで追い詰められて逃げていく月夜の夜、政府軍のベトナム人将校と筆者が共に歩いた時の会話です。

「“I am very sorry.”(たいへんすみません)
満月のハイ・ウェイを戦略村に向かって歩きながら中学生のように小さいその砲兵隊将校は私にあやまった。
“Oh. What has happened?”(どうしたんです?)
将校がぽつりと、ひとこと
“My country is war.” (私の国、戦争です。)
とつぶやいた。」

伝えようとする気持ちは何かを伝える…そう信じて言葉を使いたいものですね。

新居にまつわるイベント:House Dedication

2006-07-01 | 今の葉


住家を探せ!」シリーズでは、現在のすみかに落ち着くまでのお話をさせて頂きましたが、それからもここに住める祝福を感じさせてくれることがごろごろ起こったのですよ。ただ広くて、きれいで、リーズナブルなだけじゃないわ、ここの家。ってなわけで、ネタ的には鮮度がちょいと落ちているのですが、覚えているうちにこのblessingsを書き留めておかなきゃ!と思いつつ今日に至ってしまったとな。ま、ぼちぼち書いていきましょか。

一年ほど前に引越しをしたとある友人一家、その新居を教会の牧師さんにHouse Dedicationしてもらっったのです。するととても祝福され、宣伝もしていないのに自然にバイブル・スタディーが幾つも始まったり、そこから人がキリストに導かれたりと、素敵なミニストリーが次々起こったんですよ。なので、今回引っ越したこの家でもやるっきゃないでしょ!と思っておりました。でも誰に頼もうかなぁ~と祈りつつも思いつかずに引越しからしばらくたったそんな時。日本からルーミーのお知り合いの牧師さんが夏季短期講義に出席されるため、こちらの大学にいらっしゃいました。そこで初対面のS田先生におそるおそるお願いしたところ、先生は快く承諾してくださり、コロッケも食べたしってことで(内輪ネタw)House Dedicationなるものを初めて体験しちゃいました!

まず、この新居を神様にどう用いて頂きたいのか住人が述べよ、というわけで「すでに今までの住居でもたくさん人が集まって楽しんだり憩える場所だったので、さらにspiritualな面でも来る人達が祝福されて癒されるといいですね。礼拝とかバイブル・スタディーをするためにopenでavailableな空間にしたいですね。」なんてことを言ってみました。それから先生が聖書から短いメッセージを語って下さいました。簡単にまとめると、まずコリント第一13章から愛がなければ、どんなにエラいことしても、意味がないということ。そこから詩篇127:1-2「主が建てられるのでなければ、建てるものの勤労はむなしい… あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることはむなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。」で、愛=神様、なので神様の愛がなければ家もむなしい、そんなお話だったと思います。よく聞く愛の章ですけれど、詩篇と合わせて住居の観点から考えるのは新鮮でしたねぇ。「なくてならぬものを与えられる」っていう約束も嬉しいですね。それにこの新居で神様のためにも、人のためにも、自分のためにも色々やりたいことがあるけれど、まずは愛だろ愛!ってことなのでした。

さらにこの夜、S田先生は上に住んでいる大家の元日本の宣教師&現神学部B教授について「彼はフラー神学校を出ていて、聖霊の働きにも色々詳しいんだよ。」と教えてくださり、さらに神様の働きを感じてしまった。B教授はただ今アフリカにおりますけど、もうすぐ帰って来られるし、これから何が起こるのか楽しみ楽しみ。