このネガティブ・スペースというものについて、私はこれまで色々と考えさせられてきた。これについて、幾つかの詩も書いたし、ブログでも語りたいと思ってきた。が、どこから手をつけてよいのかわからず、なかなか書き出すことができなかった。しかし、やっと機が熟したのだろうか、いま何かが私を突き動かしている。
まず、「ネガティブ・スペース」とは何か、という説明から入らなくてはならないだろう。先週、アンドリュース大学の教育学部にて、大学院生と博士課程の生徒の為のカンファレンスが持たれ、ダニエル・ピンクというスピーカーが「これからは右脳を使う人材の時代が来る!」というような内容のスピーチをした。右脳左脳の機能うんぬんについての話はここでは省略するとして、ネガティブ・スペースについての話が、私の印象に残った。それに、FedExの会社のロゴを使ったネガティブ・スペースの説明が非常にわかりやすかった。ポジティブ・スペース(正の空間)、ネガティブ・スペース(負の空間)というのは美術用語であるが、上記のロゴでいうとFedExと書いてある文字の部分がポジティブ・スペース。そのEとxの間の白い部分に注目!私も言われて初めて気がついたが、この矢印の形になっている所が、ネガティブ・スペース。普通だいたい最初に目に留まるのはポジティブ・スペースで、ネガティブ・スペースは単なるバックグラウンドとして捉えられていることが多い。しかし、このネガティブ・スペースにもメッセージや意味が隠されていることが多くあるのだ。
私がネガティブ・スペースという概念に最初に出会ったのは、小学生の頃に通っていた書道の教室である。そこのおばあちゃん先生は学校の書写を嫌い、「整った字を書けばいいってもんじゃない、生きた字を書け!」と言うような威勢のいい、面白い方だった。ある日その先生は、「墨で書く黒い部分だけのことを考えるんじゃないよ、筆を動かせば周りの白い部分の形も変わるだろ。そこのことも考えて書くんだよ。」と言った。そのときは「へえ、そういえばそうだなぁ」くらいにしか思わなかったが、今でも何故かその言葉をよく覚えている。それから、大学の彫刻のクラスの先生もこう言っていた、「ノミで彫ってかたどっているのは木の形だけじゃない、その周りの空間の形もだ。」さらにデザインのクラスでは、Figure/Ground Reversalという、見方によっては正と負の空間が入れ替わる絵(有名なのは坪の絵)について習った。視覚の世界ではこのポジとネガのスペースが隣り合わせになり、互いにバランスを取りながら、人間の目に訴えてくるのだ。
これは聴覚の世界にも当てはまることで、空白であるかのように思える沈黙や音楽の休止符にも、もちろん意味がある。武者小路実篤氏が「バッハの音楽を聴いていると、沈黙の美を引き立たせるために音が造られたように思われる」というようなことを書かれていたが、これには音楽の世界のポジとネガを聴き分ける耳の鋭さに感心させられた。更に、人と人とのコミュニケーションについても、ポジティブ・スペースとネガティブ・スペースがあるように思う。語られた言葉の形が明確であれば、その意味はわかりやすいが、語られなかった言葉にも形があり、その形には意味があるのかもしれない。「沈黙は金なり」という言葉もあるが、沈黙は知恵、気遣い、思いやりを意味することもあり、逆に無知、無関心、残酷にもなりうる。多くの場合、コミュニケーションのポジとネガの境は無意識の内に生まれるのだろうけれど。
インターナショナル・コミュニケーションの教科書には「西洋人のコミュニケーションは発信者重視であり、東洋人のコミュニケーションは受信者重視である。」とあった。つまり、西洋人は語り手が伝えるべき内容をいかに明確に全て伝えきれるかを重んじ、東洋人はいかに聞く側が語り手の言葉とその行間から内容と真意を漏らさずに受け取れるかを重んじる、ということらしい。西洋人と東洋人の会話のパターンがいつもこうであるとは言えないが、そのような傾向は確かにあるとアメリカと日本にほぼ同年数住んだ私も思う。飛躍し過ぎかもしれないが、東洋人のコミュニケーションにおけるネガティブ・スペースの割合、そしてそれが含むメッセージは、西洋人のそれより大きいのではないだろうか。
私の場合、話す時には言葉として表れるポジティブ・スペースにばかり気がいくし(そして言わなくてもいいことをポロっと言う)、聞く時にはネガティブ・スペースの形を適当に解読するのが苦手である。ネガティブ・スペースそのものに気づいていないことも多いが、気がついた場合にはおめでたいほど楽観的に受け取るか、有り得ないほど否定的に受け取ってしまうタチなのだ。(というか妄想の域に近い?)まぁ、コミュニケーションのポジとネガは、習字の白と黒ほどクリアじゃないから、判りにくいけれどもね。でも、ネガティブ・スペース = マイナスではないのに、マイナスイメージで捉えてしまうことが多いかも。これはネガティブ・スペースで満ち満ちているこの世の中で生きるにはなかなか損なことであって、意識して直す必要があるかもしれない。
そう、この世はネガティブ・スペースで満ちている。詩の空白。音楽が奏でられた後の余韻を引き出す静けさ。神の沈黙。形あるものが造られなかった七日目。そこにも確かに意味が込められていて、私達に何かを伝えようとしている。私を取り巻いている数々のネガティブ・スペースは、私が想像しているよりも遥かに優しく暖かいものなのかもしれない。
昨晩聴いた、ふだん寡黙な人のピアノが美しかった。
まず、「ネガティブ・スペース」とは何か、という説明から入らなくてはならないだろう。先週、アンドリュース大学の教育学部にて、大学院生と博士課程の生徒の為のカンファレンスが持たれ、ダニエル・ピンクというスピーカーが「これからは右脳を使う人材の時代が来る!」というような内容のスピーチをした。右脳左脳の機能うんぬんについての話はここでは省略するとして、ネガティブ・スペースについての話が、私の印象に残った。それに、FedExの会社のロゴを使ったネガティブ・スペースの説明が非常にわかりやすかった。ポジティブ・スペース(正の空間)、ネガティブ・スペース(負の空間)というのは美術用語であるが、上記のロゴでいうとFedExと書いてある文字の部分がポジティブ・スペース。そのEとxの間の白い部分に注目!私も言われて初めて気がついたが、この矢印の形になっている所が、ネガティブ・スペース。普通だいたい最初に目に留まるのはポジティブ・スペースで、ネガティブ・スペースは単なるバックグラウンドとして捉えられていることが多い。しかし、このネガティブ・スペースにもメッセージや意味が隠されていることが多くあるのだ。
私がネガティブ・スペースという概念に最初に出会ったのは、小学生の頃に通っていた書道の教室である。そこのおばあちゃん先生は学校の書写を嫌い、「整った字を書けばいいってもんじゃない、生きた字を書け!」と言うような威勢のいい、面白い方だった。ある日その先生は、「墨で書く黒い部分だけのことを考えるんじゃないよ、筆を動かせば周りの白い部分の形も変わるだろ。そこのことも考えて書くんだよ。」と言った。そのときは「へえ、そういえばそうだなぁ」くらいにしか思わなかったが、今でも何故かその言葉をよく覚えている。それから、大学の彫刻のクラスの先生もこう言っていた、「ノミで彫ってかたどっているのは木の形だけじゃない、その周りの空間の形もだ。」さらにデザインのクラスでは、Figure/Ground Reversalという、見方によっては正と負の空間が入れ替わる絵(有名なのは坪の絵)について習った。視覚の世界ではこのポジとネガのスペースが隣り合わせになり、互いにバランスを取りながら、人間の目に訴えてくるのだ。
これは聴覚の世界にも当てはまることで、空白であるかのように思える沈黙や音楽の休止符にも、もちろん意味がある。武者小路実篤氏が「バッハの音楽を聴いていると、沈黙の美を引き立たせるために音が造られたように思われる」というようなことを書かれていたが、これには音楽の世界のポジとネガを聴き分ける耳の鋭さに感心させられた。更に、人と人とのコミュニケーションについても、ポジティブ・スペースとネガティブ・スペースがあるように思う。語られた言葉の形が明確であれば、その意味はわかりやすいが、語られなかった言葉にも形があり、その形には意味があるのかもしれない。「沈黙は金なり」という言葉もあるが、沈黙は知恵、気遣い、思いやりを意味することもあり、逆に無知、無関心、残酷にもなりうる。多くの場合、コミュニケーションのポジとネガの境は無意識の内に生まれるのだろうけれど。
インターナショナル・コミュニケーションの教科書には「西洋人のコミュニケーションは発信者重視であり、東洋人のコミュニケーションは受信者重視である。」とあった。つまり、西洋人は語り手が伝えるべき内容をいかに明確に全て伝えきれるかを重んじ、東洋人はいかに聞く側が語り手の言葉とその行間から内容と真意を漏らさずに受け取れるかを重んじる、ということらしい。西洋人と東洋人の会話のパターンがいつもこうであるとは言えないが、そのような傾向は確かにあるとアメリカと日本にほぼ同年数住んだ私も思う。飛躍し過ぎかもしれないが、東洋人のコミュニケーションにおけるネガティブ・スペースの割合、そしてそれが含むメッセージは、西洋人のそれより大きいのではないだろうか。
私の場合、話す時には言葉として表れるポジティブ・スペースにばかり気がいくし(そして言わなくてもいいことをポロっと言う)、聞く時にはネガティブ・スペースの形を適当に解読するのが苦手である。ネガティブ・スペースそのものに気づいていないことも多いが、気がついた場合にはおめでたいほど楽観的に受け取るか、有り得ないほど否定的に受け取ってしまうタチなのだ。(というか妄想の域に近い?)まぁ、コミュニケーションのポジとネガは、習字の白と黒ほどクリアじゃないから、判りにくいけれどもね。でも、ネガティブ・スペース = マイナスではないのに、マイナスイメージで捉えてしまうことが多いかも。これはネガティブ・スペースで満ち満ちているこの世の中で生きるにはなかなか損なことであって、意識して直す必要があるかもしれない。
そう、この世はネガティブ・スペースで満ちている。詩の空白。音楽が奏でられた後の余韻を引き出す静けさ。神の沈黙。形あるものが造られなかった七日目。そこにも確かに意味が込められていて、私達に何かを伝えようとしている。私を取り巻いている数々のネガティブ・スペースは、私が想像しているよりも遥かに優しく暖かいものなのかもしれない。
昨晩聴いた、ふだん寡黙な人のピアノが美しかった。