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言の葉ひらひら - Wordy Leaves Dancing

「はじめに言葉があった」
"In the beginning was the Word."

あつめてアート!

2008-02-23 | 美の葉


アートばなし第二弾!です。前回は孤島にて一人取り組むアートから、大陸での手つなぎアートに変わったお話でした。ワーシップ・アートという言葉も出てきてましたね。今回はその続きでーす。

約一ヶ月前ほど前に、私達の高校では祈祷週がありました。ここはキリスト教の学校なので、毎学期、特別講師を招いて説教を聞いたり、生徒が証をしたりします。生徒達もなかなか盛り上がっており、ちょっとec07を思い出しちゃいました。(懐かし~、皆さんお元気ですか?)講師は私とほぼ同い年のニッキーというアーチストの女性で、Prayer Room(祈りの部屋 <-これじゃないけど、こんなカンジ)作りと24/7 祈りのリレーの企画(24時間1週間ぶっ続け祈り)を持ってきました!かなりArty な匂いのする彼女と2週間過ごし、色々教わりましたよ~。ニッキー曰く、トラディショナルな教会では、神様を礼拝するのに、決まった形式や感覚しか使わないことが多い、と。例えば、礼拝では説教を聞く、賛美歌を歌う、と聴覚に頼ったものとなる。目が見るものは毎週同じ。(最近はパワポとかありますが。)そこで、他の感覚(視覚+嗅覚+触覚+味覚)もフル活用して、神様を知り、讃えちゃおう!と、いうコンセプトなんです。その一つに祈りの部屋作り。生徒やコミュニティーの人たちが集まって、色んなモノを持ち寄って一週間かけて造りました。私の家からチャペルまで徒歩1分なので、色々持ち込んだな~。なんか、幕屋造りのイスラエルの時代のような気がしたわ。

ではさっそく、祈りの部屋にご案内いたしましょう… ドアを開けると、いきなりストップサイン!まずあるのは、罪を告白書き捨てるためのゴミ箱。その横の壁には雑誌の切り抜きが貼ってあるaddiction board。「わかっちゃいるのにやめられない…」世の中、人を縛るモノで溢れています。それらの象徴の切り抜きの上にガムテープを貼って、主がコントロールして下さる様に祈ります。その向こうにはアート・テーブルがあって絵の具やパステルで祈りの絵を描くコーナーがあります。それから小石に祈りたい人のイニシャルを書いて水の流れる置物の中においたり、祈りながらロウソクに火を灯す場所もあり。世界宣教の為に祈りたい人は、世界地図にPost Itで祈りをぺたぺた貼れます。(日本のための祈りも結構ありましたよ。)そこの時計の周りには、「○○秒ごとにアフリカではエイズで子供が○○人死んでいっています。」「○○秒ごとに・・・」と書いてある。考えさせられちゃいますね。木の十字架に自分の名前を書いて、釘で打ちつけるコーナーもあります。他にも聖書を読むコーナー、祈りのジャーナルをつけるコーナー、キッズコーナーと色々あります。部屋全体を見渡してみると、壁はぐるーっと紙で覆ってあって、絵や祈りがかける様になっており、部屋は布やのれんで仕切ってあって、ランプやクッションやラグがあって(聖なる部屋なので土足厳禁。日本人には嬉しい)、自然の音のCDが流れていて、とっても心地いい空間。。。週末にはここでオールナイト・プレイヤー(もちろんplayerじゃなくて、prayer)があり、思い思いの祈りのスタイルで高校生達が祈っておりました。気持ちよくなって寝てる子もいたけどね。(←え、私じゃないですよ!私は祈りのリレーが途切れないように起こして回る役。)

それからサバス・スクールでは、みんなで造るコミュニティー・アートにチャレンジ!ニッキーが自分の教会でやっているアートをいーっぱい見せてくれたので、だんだんアイデアが沸いてきたぞ!2人で色々考えて、とりなしの祈りの絵を作ることに。集まった生徒達に、線の部分にマーカーで生徒と先生達全員の名前を祈りつつ書いてもらい、影の部分には鉛筆でその人達のための祈りの言葉を書いてもらいました。(名前が足りなかったので、みんなの友達や家族の名前も足しました。あなたの名前もあるかも?)9つの正方形のパネルを組み合わせて、でっかいジーザスの絵の完成!構内の踊り場の壁にど~んと設置いたしました。(トップの写真がそれ)それを見てる生徒に、「あんたの名前も書いてあるよ!」「え、ホント?」と一生懸命探してる。いや~、たくさんの手で造るコミュニティー・アート、面白いな。昔だったら、「ココはああじゃないのに!」とか「あそこが歪んでるぅ…」とか気になっただろうに、今は集まってできたちょっとした歪みとか意外性も、素敵に思える。さて、明日のサバス・スクールでもアート・プロジェクトを頼まてます。インターネットでworship art, community art, などを見てたら、なんか面白いアイデアが浮かんできぞ… 近いうちにここでも又シェアいたしましょ。

そういえば、前述のec08(日本人クリスチャン・カンファレンス)でも「書く賛美」ってのがあって、若きクリスチャン・アーチストのyufuちゃんが、皆が色紙にかいた祈りを集めてでっかいレインポーにしていたなぁ。もっとさかのぼると、私の小学校1、2年担任だった小出先生は生徒一人一人に正方形の紙に塗り絵をさせて、それを集めてでっかい天国の絵を造ったっけ。一人一人の才能が際立つ個人プロジェクトもいいけど、みんなの手で造る作品も素敵。そこには、一人で作ったモノとはなにか違ったパワーが感じられるんですよね。みんなの造ってくれたモノをつなげていく過程で「どんな風になるのかな~」ってなんかワクワクするし。クリスチャン一人一人を集めて、キリストの体に造りあげている神様もこんな風に楽しんでいるに違いない、ですね!

なぜなぜアート?

2008-02-05 | 美の葉
近頃は、ちょっとアートな日々を過ごしております。大学の時はアートが副専攻だったので色々やってましたけど、その後ESL教師として働いていた時や、大学院で勉強していた時は、たまに頼まれた時ぐらいにしか描いていませんでした。。が、ここに来てから美術のクラスを教え始め、がぜん絵を描く機会が増えてきた!はいいんだけど、つまり私は置かれた状況によって、描いたり描かなかったりってことか? そこで、そんな自分が何故アートするのか?なーんてちょっと考えてみたりしました。。。(注: ちょっと、のつもりが、かなり長ーくなってます。)

小さい頃からお絵描きや工作が大好きだった私は、単にアートな時間が楽しくて取り組んでいたと思う。でも、人から褒められるようになったり、他の友達と自分の作品を比べたりする年頃になってから、造るプロセスの楽しさよりも、完成品であるプロダクトを眺めて「なかなかいいじゃん。」って自己満足に浸る喜びの方が大きくなっていったような気がする。でも実際には100%満足できるモノなんてなかなか出来ない。自分の思い描くものをはっきりカタチに出来ない、ピントのずれたカメラを扱っているようなもどかしさ。やり始めたら没頭するくせに、出来上がったらケチつけたくなるだけだし、めんどくさいなぁ、と。まぁ、そんな時期があったのでした。

その頃、絵を描くプロセスそのものが好きな人に会ったんですよね。暇さえあれば、目に入るものを描き散らしている。使うのもその辺にあるペンとか付箋つきの紙。「描くのどうして好きなんですか?」って聞いたら、「紙の上で自分の手が動いているだけで楽しい。」だって。「出来た絵がたいして上手くなくても、なんか不完全なところに愛着がわくんだよね。自分が描いたものだし。」とも言ってたなぁ。書道をする私の母は、筆を持っただけでワクワクするらしい。あと誰か忘れたけど、有名な画家がどうして絵を描くのか聞かれた時、「絵の具の匂いが好きなんだよね。」って言ったとか。(カッコええ。)「楽しい42.5キロでした!」で有名な走るの大好き高橋尚子選手とか、「そこに山があるから登る。」って言った登山家にも似たものを感じるわ。でも、自分はプロセスを楽しむ余裕がなくなっていた… それに好きな事だって、いつもいつも楽しいわけじゃないし、つらい時も続ける努力に意味があるはずだし。(ロンバケ瀬名君のようだ。←懐かし~。)でもその時は、描く事を純粋に楽しんでいるその人が、かなり羨ましかったなぁ。

さて私には、受動的に座っていると、いつでもどこでも居眠りできるという特技(?)があるのですが、絵を描くとなぜか目が覚めてくるという習性も持ち合わせているのです。再び教職に戻ってから、会議中や礼拝中に寝てしまうと他の先生や生徒達の手前よろしくないので(っていうか手前じゃなくてもよろしくないし)、ひそかに絵を描いておりました。そんなある日、難易度を上げてより目を覚まそうと利き手ではない左手スケッチにチャレンジ!これが結構面白いんですよ。上手く描けなくて当たり前。で、不器用に動く左手の描く線を客観的に楽しめる。そうして集まった線の中に浮かび上がった不恰好な像に、けっこう愛着を感じたりして。で、同じ人物を右手と左手で描いてみたら、「右手の方が正確だけど、左手スケッチの方が味があっていいわ。」と友達。視覚をつかさどる右脳と左手がつながっているから…かどうかはよくわかんないけど、とにかく左手スケッチに一時ハマってました。プロセスもプロダクトも楽しめて、上手くなくても愛せる絵。今思うと、いいセラピーになってたのかもしれません。

ところで最近、「アートのクラスに入りたいんですけど、でも…」と私のところにやって来る高校生達が「でも」の後によく口にするのは、「私そんなに上手くないから…」とか「自分は完璧主義だから、上手く描けないとイライラする!」とか「誰それみたいに上手くないから。」という言葉。おいおい、どっかで聞いたような台詞だな~と思いつつ、(←自分だろ)「いや~、そんなの気にしなくても、楽しめればいいんじゃない?」と答えていた私。でも、ちょっと違うかな。素直に楽しめない自分がいるからそう訴えているのに、「楽しめばいいよ」じゃ答えになってないし。それにプロセスが楽しければ仕上がり(プロダクト)なんてどうでもいい、では困る。(「楽しいだけじゃどうしていけないんですか!?」ってのだめも苦悩したのだ。←またドラマネタ)多分、色んなプロセスを通して、自分がなぜアートするのか、楽しめない自分がいるのはどうしてか、どうしたらプロセスを楽しみつつも意味があるプロダクトを生む事ができるのか、自問自答しながら自分で答えを見つけるしかないんだろうな。自分もまだまだ試行錯誤中…

これまでの私にとって、絵を描いたりモノを造ることは、一人作業を意味していたんですよね。例えば音楽ならソロもできるけど、オーケストラや合唱のようにその他大勢と協力して創り上げることもできる。でも、アートは孤島でやるものだな、と勝手に思ってた。自分の、自分による、自分のための芸術、みたいな。人とコラボして何か造るのは苦手だったな~、自分のイメージと違うモノが混じってくるから。でも最近いい感じに、私のアート孤島が壊されてきたんです。大陸続きの半島になるつつある。(コミュニティー・アートやワーシップ・アートというものに触れたからでもあるのですが、それについては長くなるので、また今度。)ただアートのためのアートじゃなく、何か別の目的のためにアートする。自分のためだけじゃなく、誰かのためにアートする。…そんな転換期が来ている気がする。いわゆる目的と手段の入れ替わりなんだけど、アートを通して何を成し遂げるってことを体験的に考えさせられていますね。

例えば小さい事なんですが… 今の職場では、放課後とか週末の高校生の自由時間の見張り役が回ってくるんで、始めはただブラブラしたり、マル付けしたり、本を読んだり、寄って来る高校生の相手をしてました。でもある日、上野駅周辺の似顔絵描き屋みたいに似顔絵スケッチをすることにしたんですよ。すると、今まで馴染みの薄かった生徒達も「描いて~!」とやって来るようになって。で、描いている間に、色んな話してくれたり。この週末も何人か描いたけど、将来の夢を語る子あり、自分の生い立ちを語る子あり、政治論を語る子あり、アートが今までは届かなかった生徒に対しての橋になってるんだな、と思えて嬉しかった。描きながらおしゃべりなんて、今までじゃありえない。まぁ「人物画が苦手だから練習させてね。」って言って描いてるんで、技術アップという表向きの「目的」も一応あるけど、生徒とコミュニケーションを図る「手段」の方が、この場面では大きかったな。孤島を抜け出し、上手く描く以上の意味を感じられた時間でした。

そうそう、語学についても、同じ事が言えますね~。ある言語能力を取得する事自体が「目的」の時期が過ぎ、その言語が自分にとって意義ある事の為の「手段」になる時期がくる。(恋しちゃったりとかね、古今物語集の女好き僧侶みたいに。)それから新しい次元に進んで、そこで新しい課題=目的を見つける。もともと明確な目的を持ってその手段として外国語を勉強する人ももちろんいるけど、(外交官になりたいとかね、ノルウェイの森の永沢さんさんみたいに。)学ぶ事そのものに目覚めちゃう時期が来ると、よりパワーアップ出来るはず。第二言語環境に放り込まれる留学生や移住者は、この目的と手段が否応なしに激しく交互に繰り出されるハシゴを必死で登るから、語学力が身につくのかも。(あんまり激しいハシゴだと疲れてあきらめてしまうケースもあるか…歩幅とハシゴ段の間隔が合うのが大事。)私の場合、留学してなかったら英語なんて苦手で嫌いなままだったと思われる。アートほどセルフメイド・モチベーションが持てないもん。(そのアートだって、冒頭で書いたように、置かれた状況や自分の心境によって、やる気がかなり左右されているんですけど…)でも、そういう「やらなきゃヤバイ!」環境にいない場合、モチベーションが外からザクザク降ってこないから、ハシゴの段も自分の中で見つけて足していく責任感と根気と成熟さが問われますよね。それに長くアメリカに住んでいると、ハシゴの段差も狭くなって登るのも楽になってくるから、自発的に英語を学ばないとだめだな~、と思う今日この頃。まぁ、神様はうまくしたもので、ESLに加えて、高校英語教えなきゃいけないという「やばい」状況をお与えになったので、そうじゃなきゃ勉強しなかったであろう英文学やシェイクスピアに取り組んでおります。はぁ~、結局、何の道を極めるにも、「目的と手段」「外的モチベーションと内的モチベーション」「孤島と大陸」「完成度と愛着度」「楽しむ事と努力する事」「プロセスとプロダクト」が交互に繰り出されるハシゴを地道に登るようなものかもしれない。思いがけない時に絶景が現われたり、はたまた雲の中に入ってしまったり。他の誰のものとも比べられない、そんな終わりなき旅っすね。

ネガティブ・スペース

2006-07-23 | 美の葉
このネガティブ・スペースというものについて、私はこれまで色々と考えさせられてきた。これについて、幾つかの詩も書いたし、ブログでも語りたいと思ってきた。が、どこから手をつけてよいのかわからず、なかなか書き出すことができなかった。しかし、やっと機が熟したのだろうか、いま何かが私を突き動かしている。

まず、「ネガティブ・スペース」とは何か、という説明から入らなくてはならないだろう。先週、アンドリュース大学の教育学部にて、大学院生と博士課程の生徒の為のカンファレンスが持たれ、ダニエル・ピンクというスピーカーが「これからは右脳を使う人材の時代が来る!」というような内容のスピーチをした。右脳左脳の機能うんぬんについての話はここでは省略するとして、ネガティブ・スペースについての話が、私の印象に残った。それに、FedExの会社のロゴを使ったネガティブ・スペースの説明が非常にわかりやすかった。ポジティブ・スペース(正の空間)、ネガティブ・スペース(負の空間)というのは美術用語であるが、上記のロゴでいうとFedExと書いてある文字の部分がポジティブ・スペース。そのEとxの間の白い部分に注目!私も言われて初めて気がついたが、この矢印の形になっている所が、ネガティブ・スペース。普通だいたい最初に目に留まるのはポジティブ・スペースで、ネガティブ・スペースは単なるバックグラウンドとして捉えられていることが多い。しかし、このネガティブ・スペースにもメッセージや意味が隠されていることが多くあるのだ。

私がネガティブ・スペースという概念に最初に出会ったのは、小学生の頃に通っていた書道の教室である。そこのおばあちゃん先生は学校の書写を嫌い、「整った字を書けばいいってもんじゃない、生きた字を書け!」と言うような威勢のいい、面白い方だった。ある日その先生は、「墨で書く黒い部分だけのことを考えるんじゃないよ、筆を動かせば周りの白い部分の形も変わるだろ。そこのことも考えて書くんだよ。」と言った。そのときは「へえ、そういえばそうだなぁ」くらいにしか思わなかったが、今でも何故かその言葉をよく覚えている。それから、大学の彫刻のクラスの先生もこう言っていた、「ノミで彫ってかたどっているのは木の形だけじゃない、その周りの空間の形もだ。」さらにデザインのクラスでは、Figure/Ground Reversalという、見方によっては正と負の空間が入れ替わる絵(有名なのは坪の絵)について習った。視覚の世界ではこのポジとネガのスペースが隣り合わせになり、互いにバランスを取りながら、人間の目に訴えてくるのだ。

これは聴覚の世界にも当てはまることで、空白であるかのように思える沈黙や音楽の休止符にも、もちろん意味がある。武者小路実篤氏が「バッハの音楽を聴いていると、沈黙の美を引き立たせるために音が造られたように思われる」というようなことを書かれていたが、これには音楽の世界のポジとネガを聴き分ける耳の鋭さに感心させられた。更に、人と人とのコミュニケーションについても、ポジティブ・スペースとネガティブ・スペースがあるように思う。語られた言葉の形が明確であれば、その意味はわかりやすいが、語られなかった言葉にも形があり、その形には意味があるのかもしれない。「沈黙は金なり」という言葉もあるが、沈黙は知恵、気遣い、思いやりを意味することもあり、逆に無知、無関心、残酷にもなりうる。多くの場合、コミュニケーションのポジとネガの境は無意識の内に生まれるのだろうけれど。

インターナショナル・コミュニケーションの教科書には「西洋人のコミュニケーションは発信者重視であり、東洋人のコミュニケーションは受信者重視である。」とあった。つまり、西洋人は語り手が伝えるべき内容をいかに明確に全て伝えきれるかを重んじ、東洋人はいかに聞く側が語り手の言葉とその行間から内容と真意を漏らさずに受け取れるかを重んじる、ということらしい。西洋人と東洋人の会話のパターンがいつもこうであるとは言えないが、そのような傾向は確かにあるとアメリカと日本にほぼ同年数住んだ私も思う。飛躍し過ぎかもしれないが、東洋人のコミュニケーションにおけるネガティブ・スペースの割合、そしてそれが含むメッセージは、西洋人のそれより大きいのではないだろうか。

私の場合、話す時には言葉として表れるポジティブ・スペースにばかり気がいくし(そして言わなくてもいいことをポロっと言う)、聞く時にはネガティブ・スペースの形を適当に解読するのが苦手である。ネガティブ・スペースそのものに気づいていないことも多いが、気がついた場合にはおめでたいほど楽観的に受け取るか、有り得ないほど否定的に受け取ってしまうタチなのだ。(というか妄想の域に近い?)まぁ、コミュニケーションのポジとネガは、習字の白と黒ほどクリアじゃないから、判りにくいけれどもね。でも、ネガティブ・スペース = マイナスではないのに、マイナスイメージで捉えてしまうことが多いかも。これはネガティブ・スペースで満ち満ちているこの世の中で生きるにはなかなか損なことであって、意識して直す必要があるかもしれない。

そう、この世はネガティブ・スペースで満ちている。詩の空白。音楽が奏でられた後の余韻を引き出す静けさ。神の沈黙。形あるものが造られなかった七日目。そこにも確かに意味が込められていて、私達に何かを伝えようとしている。私を取り巻いている数々のネガティブ・スペースは、私が想像しているよりも遥かに優しく暖かいものなのかもしれない。

昨晩聴いた、ふだん寡黙な人のピアノが美しかった。

大人度チェック:オペラ座の怪人

2006-05-15 | 美の葉


近くの大学で「オペラ座の怪人」を上演していたので、友人と見に行ってきました!実は以前に「オペラ座の怪人」を観劇したことがあるのですが、その頃は私がお子ちゃまだったせいか、よくわけがわからなかったんですよね。「なんでこの女はあっちの男、こっちの男にふらふらするんだ?」って。すると、連れて行って下さった方が一言。「この話は大人にならないとわからないのよね。」そうかぁ、オペラ座の怪人は、お・と・なの物語なのね、と頷きつつロンドンを去ったのが10年前…

そして再び「オペラ座の怪人」を観ることになり、10年後の自分の大人度はいかに…?と楽しみにしておりました。いやとにかく、音楽やセットや衣装が圧巻でした。なんかこう、独特の世界に浸りましたね。曲も10年ぶりに聴くのに、一気にメロディが蘇って来たし。すごいインパクトある名曲揃いだわ。歌も素晴らしかったです。特にクリスティーン。最初にヒロインに抜擢されたときの“Think of Me”の初々しさ、ファントムと舞台で歌う“Point of No Return”の艶やかさ、そして父の墓場でファントムを想って歌う“Wishing You Were Somehow Here Again”のせつなさ…それぞれの段階での複雑な女心が伝わってきて、なかなかよろしい。そして気になる私の大人度は…?

自分が大人になったというより、この10年間に私も色々な経験をしてきたんだなぁ、というのが率直な感想。恋ひとつ取っても、違う色合いや濃度の感情をもう少し知ったのかな。前より登場人物に感情移入できたり、忘れていたことを思い出したりしましたね、ハイ。同じものを観ても、その時の自分によって感じ方や得る物が違うのは、名作だからでしょうか。。。本でも、いいものは何回読んでも新しい発見があるしね。(子供の頃から次郎物語を読み返しては、そう思う。)そうそう最近、ある映画を観直して、自分の中の別の問題について改めて気づかされましたっけ。

結局、人間による作品には教えられる事があるとは言っても、自分の中にすでにあるものを明確にする写し鏡なのかもしれません。先学期(そう、今は夏休み!)、あのパワフル教授が“You see as you are.”「自分が在るようにしか、物事は見えない。」と言っていました。やっぱり自分が生きてきた中の実体験や、その感情の記憶や、そこからうまれた見解に共鳴するものがあるから、人は他人が切り取って他人が演じる人生を眺めて、涙したり、笑ったりするのでしょう。「オペラ座の怪人」-私の中にいたクリスティーンを再び歌わせてくれました。

サロメ小町

2006-04-07 | 美の葉


昨晩はとんでもないものを観てしまいました!クラスの課題でクラスメイトと詩の朗読会に行ったのですが、満席だった為、代わりに隣でやっていた“Salome”という舞台を観ることに...(教授が許可してくれたので)これは、オスカー・ワイルドの戯曲の日本風アレンジで、台詞は英語なのですが、音楽、衣装や立ち振る舞いは歌舞伎風、という何とも不思議な劇でした。台詞回しもなんか歌舞伎調で、日本語の掛け声みたいのも入って、面白かったです。でも、私は本物の日本の伝統舞踊、歌舞伎、能とか狂言は観たことないんですよね。クラスメイトに「日本の舞台みたいだった?」とか聞かれてもあんまり判らなくて、残念なんだけど。それっぽくなるように頑張ってたけど、間とか動きがもっとキッチリしてたらなー、と思いましたです。セットや衣装、演技や内容は良かったですよ。台詞も詩的要素が多いので、ちゃんとレポート書けそうです。。。

内容は、聖書の中のバプテスマのヨハネの最期のエピソードに、踊りを踊ったヘロデヤの娘(サロメ)の恋愛感情を織り交ぜたものです。でも恋した男の首を請うなんて、狂ってますよね~。彼女の踊りも言葉も狂気をはらんでましたし。誘惑される度に彼女を拒む可愛そうなヨハネは、エジプトで主人の奥様の誘惑を拒むヨセフを思い起こさせたましたね。最後に、彼の首を抱いてサロメが「なんであなたの目は閉じているの?私をどうして見てくれないの?一度でも見てくれさえしたら、愛してくれたでしょうに...あなたの目は神しか見ていなかった...」と語りかけるのですが、良かったねヨハネさん、あんなおかしな女に目をくれないで。(殺されちゃったけど)本当に、見るものは人生を左右しちゃいますよ!皆さんも、変なものには目を向けないよう気をつけましょう!!(そういうオチかい。)

美術館の絵のような

2006-02-08 | 美の葉


今日はクラスのfield tripでシカゴ美術館に行ってきました。大学生の頃は、美術を副専攻していたのでよく行ったものですが、今回は結構久しぶりで違った気持ちでまた楽しめました。シカゴ美術館といえば、有名な画家の絵画が沢山ある贅沢なところ。印象派ではモネ、マネ、ピサロ、ルノアール、後期印象派ではセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、それからピカソ、ミロ、シャガール、ダリなど・・・ 大御所の絵画達は、何回見ても勉強になるし、その度に発見や感動があるものです。しかし、そのような「お偉い」作品とは別に、私を待っていてくれる、いわば友達のような別の意味で特別な絵があるのです。有名でもなく、売店で絵葉書としても置いていないような絵。そんな絵がいつ頃から気になるようになったのか定かではないのですが、そこに行く度に仲良くなるような感じで、今ではシカゴ美術館に行く度、一人でそっと挨拶しに行きます。今日は、何だか厳しく見透かれたような気がしたっけな・・・

ある時、べスパーでリーダーが「あなたにとってイエスとはどんな存在ですか?」と質問し、輪になった十数人のクリスチャンとシェアした事がありました。自分の体験を具体的に語る人あり、抽象的に自分にとってのイエスを表現する人もあり・・・ その中で今でも覚えている印象的な発言がありました。「僕にとってのイエスとは、ある美術館に行くと、なぜか必ず見に行く決まった絵のようなものだ。」それを聞いて、例の絵を思い出しました。描いた画家の名もいまだ知らず、ガイドブックにも載っていないあの絵が、私を呼ぶのは何故だろう・・・ 今日もその前に立ち、少し考えてみました。理屈ではわからない。でも、きっと私にとってのイエスも、それに似ているのかもしれない。私にとって彼は世界三大宗教の内のキリスト教の創始者イエスという「有名な作品」としてではなく、私の他の誰にも知られずそっと館内の隅に佇むもの、でもどうしてもそこに行かずにはおれない、そんな力を持つもののような気がします。