(これ10月頃書き始めたのに、書き終えたのが今になってしまった。。。)
「言の葉なしなしの木はもう死んでしまったのではないのか?」と思われていたかもしれませんが、ちゃんと生きとります。根に栄養を蓄えつつ…なんてのは言い訳で、なかなか更新ができずにすみませんでした。。。この半年余りの間に、私の人生の中では大きな変動がありました。夏の間に卒業試験&卒業論文をクリアし、8月に大学院を卒業をしたも束の間、一週間後には新天地バージニアにて仕事を始め、この数ヶ月けっこう頑張っていたのです。ようやく、仕事にも慣れ、新しい土地や人々にも馴染んで、「これが日常。」モードで暮らせるようになりましたけどね。
さて、新しいお仕事は再び「英語教師」であります。しかも、ESLクラス(英語が母国語でない生徒に英語を教えるクラス)のみ担当だったはずが、普通の英語のクラスもひとマス持ち、さらに美術も教えるという事になりました。(←これは嬉しいおまけ)まぁ、小さなプライベートの学校じゃ、後から担当科目が増える・変わるのは日常茶飯事らしいっす。とにかく、いろいろ勉強になってますね~、特に高校英語。ほとんどアメリカ人高校生によって構成されているクラスなので、初めは「変な英語を使ってナメられてはあかんぞ!」と気を張っていたのですが、ネイティブ・アメリカンと張り合ってもしょうがないので、お互い気付いた部分を教え合い助け合おう!というスタンスでやっております。私もいまだ文法ミスとかスペルミスとかちょこちょこありますけど、あっちだってまだまだ15,6歳。文の書き方にも作品の読み方にも、ちょくちょくツッコミどころがありますからね。まぁ、楽しくやってます。
さて、現在わたしのESLクラスには、主に韓国語が母語の生徒とスペイン語が母語の生徒がおりまして、「授業中は英語しか使っちゃだめ!」と言っているのに、なかなかそうはいかないんだな、これが。私も高校で留学した頃、「日本語は使っちゃだめ!」って先生達によく言われたっけな。そりゃ、使えば使うほど英語は伸びるわけだけど(使い方にもよるが)、24/7ずーっと外国語で生きるのも大変。母語によってもたらされるアイディンティティーってのもあるし。母語と第二言語の使い分けや比重は、個人が責任もって意識的に決めないとね。だけど英語を学ぶ時間の中では、母語に逃げて欲しくない!と先生は思うわけです。(授業内容理解のために必要ならともかく、ほとんどおしゃべりと思われる…苦笑)
でも、お祈りは別。前は公立でしたが、ここはキリスト教の高校なんで、授業を始める前にいつもお祈りをするんですけど、時々生徒もお祈りします。これは母国語オッケー。「ジーザスはどの言語で彼らと語られる?…もちろん彼らと同じ言語で。」と書いたポスターを教室に貼ってるくらいだから。(これは大学院の教授からの卒業祝い☆)さて、この中で、非常に美しいお祈りをする生徒がいるんですよ。でも、スペイン語なんで、私には全くわかりませんけどね。(笑)でも、他の生徒に「君は僕の爺ちゃんみたいな祈りをするね。」とからかわれたり(「御在天の~父なる~恩神様~」みたいなのか?)、「彼の祈りって他の誰よりのも素敵♡」とか女の子に作文に書かれりと、何やらとっても良さげ・・・それからスペイン語がわかる他のティチャーも「奴の祈りは泣ける。」って言ってたし!ホントにわからんのが残念。でも、わからないなりにもじーっと聞いていると何だかとても敬虔で魂のこもった祈りに聞こえる…気がする。ちなみに彼は将来牧師になりたいらしい。君の祈る言葉、先生は楽しみに聴いています!それから将来も、楽しみにしています。
おまけ:言語ってバベルの塔でバラバラになっちゃったけど、竹の根っこみたいにどっかでつながっている気がする。言語学にも、普遍文法(人間の言語だということからくる共通性がある構造)って仮説がありますけど、こうやって一緒に祈ると、それをより感じます。遠い昔、私たちは一つの言葉で人とそして神と語り合っていたのだろうということを… バラバラになってしまった言語だけど、寄せ集めてみると、モザイクみたいな、元の絵とはまた違った美しさがあるのかもしれないわ。。。
「言の葉なしなしの木はもう死んでしまったのではないのか?」と思われていたかもしれませんが、ちゃんと生きとります。根に栄養を蓄えつつ…なんてのは言い訳で、なかなか更新ができずにすみませんでした。。。この半年余りの間に、私の人生の中では大きな変動がありました。夏の間に卒業試験&卒業論文をクリアし、8月に大学院を卒業をしたも束の間、一週間後には新天地バージニアにて仕事を始め、この数ヶ月けっこう頑張っていたのです。ようやく、仕事にも慣れ、新しい土地や人々にも馴染んで、「これが日常。」モードで暮らせるようになりましたけどね。
さて、新しいお仕事は再び「英語教師」であります。しかも、ESLクラス(英語が母国語でない生徒に英語を教えるクラス)のみ担当だったはずが、普通の英語のクラスもひとマス持ち、さらに美術も教えるという事になりました。(←これは嬉しいおまけ)まぁ、小さなプライベートの学校じゃ、後から担当科目が増える・変わるのは日常茶飯事らしいっす。とにかく、いろいろ勉強になってますね~、特に高校英語。ほとんどアメリカ人高校生によって構成されているクラスなので、初めは「変な英語を使ってナメられてはあかんぞ!」と気を張っていたのですが、ネイティブ・アメリカンと張り合ってもしょうがないので、お互い気付いた部分を教え合い助け合おう!というスタンスでやっております。私もいまだ文法ミスとかスペルミスとかちょこちょこありますけど、あっちだってまだまだ15,6歳。文の書き方にも作品の読み方にも、ちょくちょくツッコミどころがありますからね。まぁ、楽しくやってます。
さて、現在わたしのESLクラスには、主に韓国語が母語の生徒とスペイン語が母語の生徒がおりまして、「授業中は英語しか使っちゃだめ!」と言っているのに、なかなかそうはいかないんだな、これが。私も高校で留学した頃、「日本語は使っちゃだめ!」って先生達によく言われたっけな。そりゃ、使えば使うほど英語は伸びるわけだけど(使い方にもよるが)、24/7ずーっと外国語で生きるのも大変。母語によってもたらされるアイディンティティーってのもあるし。母語と第二言語の使い分けや比重は、個人が責任もって意識的に決めないとね。だけど英語を学ぶ時間の中では、母語に逃げて欲しくない!と先生は思うわけです。(授業内容理解のために必要ならともかく、ほとんどおしゃべりと思われる…苦笑)
でも、お祈りは別。前は公立でしたが、ここはキリスト教の高校なんで、授業を始める前にいつもお祈りをするんですけど、時々生徒もお祈りします。これは母国語オッケー。「ジーザスはどの言語で彼らと語られる?…もちろん彼らと同じ言語で。」と書いたポスターを教室に貼ってるくらいだから。(これは大学院の教授からの卒業祝い☆)さて、この中で、非常に美しいお祈りをする生徒がいるんですよ。でも、スペイン語なんで、私には全くわかりませんけどね。(笑)でも、他の生徒に「君は僕の爺ちゃんみたいな祈りをするね。」とからかわれたり(「御在天の~父なる~恩神様~」みたいなのか?)、「彼の祈りって他の誰よりのも素敵♡」とか女の子に作文に書かれりと、何やらとっても良さげ・・・それからスペイン語がわかる他のティチャーも「奴の祈りは泣ける。」って言ってたし!ホントにわからんのが残念。でも、わからないなりにもじーっと聞いていると何だかとても敬虔で魂のこもった祈りに聞こえる…気がする。ちなみに彼は将来牧師になりたいらしい。君の祈る言葉、先生は楽しみに聴いています!それから将来も、楽しみにしています。
おまけ:言語ってバベルの塔でバラバラになっちゃったけど、竹の根っこみたいにどっかでつながっている気がする。言語学にも、普遍文法(人間の言語だということからくる共通性がある構造)って仮説がありますけど、こうやって一緒に祈ると、それをより感じます。遠い昔、私たちは一つの言葉で人とそして神と語り合っていたのだろうということを… バラバラになってしまった言語だけど、寄せ集めてみると、モザイクみたいな、元の絵とはまた違った美しさがあるのかもしれないわ。。。