昨晩は私の部屋に、いち女子生徒がお泊りしていきました。私の住んでいる高校女子寮では、土曜の夜は好きな友達の部屋で寝てもいい「お泊りナイト☆」なんです。で、一緒にSister Act(天使にラブ・ソングを…)を鑑賞。彼女は観た事がなかったらしいけど、私は高校生の頃にリアルタイムでデートで見たっけなぁ。(懐かし~。)でも、彼女が来なかったら、きっとこれ二回も見なかったと思います。(っていうか、まだ観てない続編の方が観たい。)しかし、時間をあけて同じ映画や本に触れると、前には気付かなかった事を学べるものですよね。これぞ、年の功。なーんて。
この映画が出た当時、ウーピー・ゴールドバーグの歌が酷評されていて、「そんなに下手かなぁ。」って思ってたけど、このストーリーの設定上、あんま上手かったら逆にダメじゃん、と昨日思いましたね。(実力は知らないけど。)ウーピー演じるデロリスは彼女いわく、「取替えのきく」しがないクラブ歌手。私思うに、そんな下手ではないけど「この人じゃなきゃ!」とか「もう一回聞きたい!」と思わせる「らしさ」のある個性的な歌声ではない。そこで、わけあって修道院に送られたデロリスに、ある敬虔なシスターがこう訊きます-「私は世の為、人の為、奉仕をしたくて修道院に入ったんです。でも…私でなければできない、そんな奉仕をしたい。そう思うのは高慢ですか?」はい、いい質問です。私も最近、それ考えてたんです!それって高慢じゃないかって。でも、自分らしさは神様に与えられているんだから、それを生かしたい、と思うのは自然、いやきっと使命なんですよね。でも誰のために?神様や人のためじゃなく、「私見て見て!」的自己顕示欲が強いと高慢になってしまうし。(←自分ありがち)与えられたタレントをその量と質に関わらず、卑屈にも高慢にもならずに、素直に有効利用したい今日この頃。。。
あと、今回映画を観ながら思ったのは、「ウーピー(というかデロリス)、歌は微妙だけど、教えるの上手いじゃん!」 歌う技術と賛美の心の両方を教え、シスター達をやる気にさせた彼女。バラバラだった歌声を、お互いの声をよく聞くことでまとめた彼女。(そういえば、我が敬愛するクワイヤーの指揮者(またの名を船長)の不思議な名台詞は "Listen louder than you sing!"「歌うより大きく聞きなさい。」だったな。)みんな調和しているけれど、「和して同せず」な歌声で、一人一人の個性を活かした彼女。オペラ調おばあちゃん、ドス効きおばちゃん、超ハイソプラノおばちゃん、コンテンポラリーお姉さん、それぞれが見せ場で輝いていた。周りの声をよく聴くってことは、人を没個性にさせるどころか、自分の持ち場、持ち味を客観的に判らせ、謙虚にしてくれるんですね~。
さぁて、お待たせいたしました、ここからがなぞときの答えです!「Sister Act のウーピーとかけて、マッチ箱のザラザラととく。そのこころは…他者を輝かせるのが天命。」どうでしょう。実は、このマッチ箱のザラザラ、ってのは「ノルウェイの森」からのパクリなんですけどね。読んだことのある人は、タイトルを見てピン!ときたかも。(また村上春樹かよ、って思う人もいるでしょうが、私は彼の小説のファンではなく、部分的ハルキストとでもいうか…彼の比喩とエッセイと言葉に対する態度が好きなんです。)さて、ノルウェイの森にはレイコさんという素敵なキャラが出てくるのですが、彼女が一流のピアニストになることに挫折し、結婚&出産を経て、ある女の子にピアノを教えた経験を語るくだりで、このマッチ箱の喩えが出てきます。(以下引用)
「私は自分自身に対してよりは他人に対する方がずっと我慢づよいし、自分自身に対するよりは他人 に対する方が物事の良い面を引きだしやすいの。私はそういうタィプの人間なのよ。マッチ箱のわきに ついているザラザラしたやつみたいな存在なのよ、要するに。でもいいのよ、それでべつに。…私、二流のマッチ捧よりは一流のマッチ箱の方が好きよ。はっき りとそう思うようになったのは、そうね、その女の子を教えるようになってからね。」この続きにも「素晴しい才能に恵まれながら、それを体系化するための努力 ができないで、才能を細かくまきちらして終ってしまう、スポイルされた人達」に対しての厳しいお言葉があり、教えることや学ぶことについてなかなか深く考えさせられます。レイコさんのような効果的に厳しい先生になりたい!必要以上に甘いんですよね、私。それに、自分自身「体系化するための努力」が苦手。マッチ棒としても、マッチ箱としても課題アリ。。。
先述の映画を見ながら、この小説を思い出したのは、デロリスがまさに「二流のマッチ捧から一流のマッチ箱」になったからなんですね。自分がマッチ棒なのかマッチ箱なのか見極めるのが、人生大切なのよ、ってとこでしょうか… でも、私はレイコさんほど潔くないので、「二流でもいいから時々マッチ棒になりたい!」とか「自分はマッチ箱として、一流なんだろうか?」とか思ってしまうわけで… それに、一流か二流かなんて他人が決めることで、マッチ棒であろうとマッチ箱であろうと、自分に与えられた役割に対してベストを尽くせば良いと思われ… (なぜか歯切れの悪い「北の国から」調)そして、ここまで書いてふと、マッチ箱は神様なのかな?と思ったり。神様御自身も輝いておられ、人をも輝かせるから、両刀遣いか。そしてここで宇多田ヒカルの"Deep River"を思い出したけど、エンドレス連想ゲームになりそうだから、今日はこの辺でおしまい。(オチがなくてすいません!)
この映画が出た当時、ウーピー・ゴールドバーグの歌が酷評されていて、「そんなに下手かなぁ。」って思ってたけど、このストーリーの設定上、あんま上手かったら逆にダメじゃん、と昨日思いましたね。(実力は知らないけど。)ウーピー演じるデロリスは彼女いわく、「取替えのきく」しがないクラブ歌手。私思うに、そんな下手ではないけど「この人じゃなきゃ!」とか「もう一回聞きたい!」と思わせる「らしさ」のある個性的な歌声ではない。そこで、わけあって修道院に送られたデロリスに、ある敬虔なシスターがこう訊きます-「私は世の為、人の為、奉仕をしたくて修道院に入ったんです。でも…私でなければできない、そんな奉仕をしたい。そう思うのは高慢ですか?」はい、いい質問です。私も最近、それ考えてたんです!それって高慢じゃないかって。でも、自分らしさは神様に与えられているんだから、それを生かしたい、と思うのは自然、いやきっと使命なんですよね。でも誰のために?神様や人のためじゃなく、「私見て見て!」的自己顕示欲が強いと高慢になってしまうし。(←自分ありがち)与えられたタレントをその量と質に関わらず、卑屈にも高慢にもならずに、素直に有効利用したい今日この頃。。。
あと、今回映画を観ながら思ったのは、「ウーピー(というかデロリス)、歌は微妙だけど、教えるの上手いじゃん!」 歌う技術と賛美の心の両方を教え、シスター達をやる気にさせた彼女。バラバラだった歌声を、お互いの声をよく聞くことでまとめた彼女。(そういえば、我が敬愛するクワイヤーの指揮者(またの名を船長)の不思議な名台詞は "Listen louder than you sing!"「歌うより大きく聞きなさい。」だったな。)みんな調和しているけれど、「和して同せず」な歌声で、一人一人の個性を活かした彼女。オペラ調おばあちゃん、ドス効きおばちゃん、超ハイソプラノおばちゃん、コンテンポラリーお姉さん、それぞれが見せ場で輝いていた。周りの声をよく聴くってことは、人を没個性にさせるどころか、自分の持ち場、持ち味を客観的に判らせ、謙虚にしてくれるんですね~。
さぁて、お待たせいたしました、ここからがなぞときの答えです!「Sister Act のウーピーとかけて、マッチ箱のザラザラととく。そのこころは…他者を輝かせるのが天命。」どうでしょう。実は、このマッチ箱のザラザラ、ってのは「ノルウェイの森」からのパクリなんですけどね。読んだことのある人は、タイトルを見てピン!ときたかも。(また村上春樹かよ、って思う人もいるでしょうが、私は彼の小説のファンではなく、部分的ハルキストとでもいうか…彼の比喩とエッセイと言葉に対する態度が好きなんです。)さて、ノルウェイの森にはレイコさんという素敵なキャラが出てくるのですが、彼女が一流のピアニストになることに挫折し、結婚&出産を経て、ある女の子にピアノを教えた経験を語るくだりで、このマッチ箱の喩えが出てきます。(以下引用)
「私は自分自身に対してよりは他人に対する方がずっと我慢づよいし、自分自身に対するよりは他人 に対する方が物事の良い面を引きだしやすいの。私はそういうタィプの人間なのよ。マッチ箱のわきに ついているザラザラしたやつみたいな存在なのよ、要するに。でもいいのよ、それでべつに。…私、二流のマッチ捧よりは一流のマッチ箱の方が好きよ。はっき りとそう思うようになったのは、そうね、その女の子を教えるようになってからね。」この続きにも「素晴しい才能に恵まれながら、それを体系化するための努力 ができないで、才能を細かくまきちらして終ってしまう、スポイルされた人達」に対しての厳しいお言葉があり、教えることや学ぶことについてなかなか深く考えさせられます。レイコさんのような効果的に厳しい先生になりたい!必要以上に甘いんですよね、私。それに、自分自身「体系化するための努力」が苦手。マッチ棒としても、マッチ箱としても課題アリ。。。
先述の映画を見ながら、この小説を思い出したのは、デロリスがまさに「二流のマッチ捧から一流のマッチ箱」になったからなんですね。自分がマッチ棒なのかマッチ箱なのか見極めるのが、人生大切なのよ、ってとこでしょうか… でも、私はレイコさんほど潔くないので、「二流でもいいから時々マッチ棒になりたい!」とか「自分はマッチ箱として、一流なんだろうか?」とか思ってしまうわけで… それに、一流か二流かなんて他人が決めることで、マッチ棒であろうとマッチ箱であろうと、自分に与えられた役割に対してベストを尽くせば良いと思われ… (なぜか歯切れの悪い「北の国から」調)そして、ここまで書いてふと、マッチ箱は神様なのかな?と思ったり。神様御自身も輝いておられ、人をも輝かせるから、両刀遣いか。そしてここで宇多田ヒカルの"Deep River"を思い出したけど、エンドレス連想ゲームになりそうだから、今日はこの辺でおしまい。(オチがなくてすいません!)