言の葉ひらひら - Wordy Leaves Dancing

「はじめに言葉があった」
"In the beginning was the Word."

Sister Act のウーピーとかけて、マッチ箱のザラザラととく。そのこころは…

2008-12-08 | 教の葉
昨晩は私の部屋に、いち女子生徒がお泊りしていきました。私の住んでいる高校女子寮では、土曜の夜は好きな友達の部屋で寝てもいい「お泊りナイト☆」なんです。で、一緒にSister Act(天使にラブ・ソングを…)を鑑賞。彼女は観た事がなかったらしいけど、私は高校生の頃にリアルタイムでデートで見たっけなぁ。(懐かし~。)でも、彼女が来なかったら、きっとこれ二回も見なかったと思います。(っていうか、まだ観てない続編の方が観たい。)しかし、時間をあけて同じ映画や本に触れると、前には気付かなかった事を学べるものですよね。これぞ、年の功。なーんて。

この映画が出た当時、ウーピー・ゴールドバーグの歌が酷評されていて、「そんなに下手かなぁ。」って思ってたけど、このストーリーの設定上、あんま上手かったら逆にダメじゃん、と昨日思いましたね。(実力は知らないけど。)ウーピー演じるデロリスは彼女いわく、「取替えのきく」しがないクラブ歌手。私思うに、そんな下手ではないけど「この人じゃなきゃ!」とか「もう一回聞きたい!」と思わせる「らしさ」のある個性的な歌声ではない。そこで、わけあって修道院に送られたデロリスに、ある敬虔なシスターがこう訊きます-「私は世の為、人の為、奉仕をしたくて修道院に入ったんです。でも…私でなければできない、そんな奉仕をしたい。そう思うのは高慢ですか?」はい、いい質問です。私も最近、それ考えてたんです!それって高慢じゃないかって。でも、自分らしさは神様に与えられているんだから、それを生かしたい、と思うのは自然、いやきっと使命なんですよね。でも誰のために?神様や人のためじゃなく、「私見て見て!」的自己顕示欲が強いと高慢になってしまうし。(←自分ありがち)与えられたタレントをその量と質に関わらず、卑屈にも高慢にもならずに、素直に有効利用したい今日この頃。。。

あと、今回映画を観ながら思ったのは、「ウーピー(というかデロリス)、歌は微妙だけど、教えるの上手いじゃん!」 歌う技術と賛美の心の両方を教え、シスター達をやる気にさせた彼女。バラバラだった歌声を、お互いの声をよく聞くことでまとめた彼女。(そういえば、我が敬愛するクワイヤーの指揮者(またの名を船長)の不思議な名台詞は "Listen louder than you sing!"「歌うより大きく聞きなさい。」だったな。)みんな調和しているけれど、「和して同せず」な歌声で、一人一人の個性を活かした彼女。オペラ調おばあちゃん、ドス効きおばちゃん、超ハイソプラノおばちゃん、コンテンポラリーお姉さん、それぞれが見せ場で輝いていた。周りの声をよく聴くってことは、人を没個性にさせるどころか、自分の持ち場、持ち味を客観的に判らせ、謙虚にしてくれるんですね~。

さぁて、お待たせいたしました、ここからがなぞときの答えです!「Sister Act のウーピーとかけて、マッチ箱のザラザラととく。そのこころは…他者を輝かせるのが天命。」どうでしょう。実は、このマッチ箱のザラザラ、ってのは「ノルウェイの森」からのパクリなんですけどね。読んだことのある人は、タイトルを見てピン!ときたかも。(また村上春樹かよ、って思う人もいるでしょうが、私は彼の小説のファンではなく、部分的ハルキストとでもいうか…彼の比喩とエッセイと言葉に対する態度が好きなんです。)さて、ノルウェイの森にはレイコさんという素敵なキャラが出てくるのですが、彼女が一流のピアニストになることに挫折し、結婚&出産を経て、ある女の子にピアノを教えた経験を語るくだりで、このマッチ箱の喩えが出てきます。(以下引用)

「私は自分自身に対してよりは他人に対する方がずっと我慢づよいし、自分自身に対するよりは他人 に対する方が物事の良い面を引きだしやすいの。私はそういうタィプの人間なのよ。マッチ箱のわきに ついているザラザラしたやつみたいな存在なのよ、要するに。でもいいのよ、それでべつに。…私、二流のマッチ捧よりは一流のマッチ箱の方が好きよ。はっき りとそう思うようになったのは、そうね、その女の子を教えるようになってからね。」この続きにも「素晴しい才能に恵まれながら、それを体系化するための努力 ができないで、才能を細かくまきちらして終ってしまう、スポイルされた人達」に対しての厳しいお言葉があり、教えることや学ぶことについてなかなか深く考えさせられます。レイコさんのような効果的に厳しい先生になりたい!必要以上に甘いんですよね、私。それに、自分自身「体系化するための努力」が苦手。マッチ棒としても、マッチ箱としても課題アリ。。。

先述の映画を見ながら、この小説を思い出したのは、デロリスがまさに「二流のマッチ捧から一流のマッチ箱」になったからなんですね。自分がマッチ棒なのかマッチ箱なのか見極めるのが、人生大切なのよ、ってとこでしょうか… でも、私はレイコさんほど潔くないので、「二流でもいいから時々マッチ棒になりたい!」とか「自分はマッチ箱として、一流なんだろうか?」とか思ってしまうわけで… それに、一流か二流かなんて他人が決めることで、マッチ棒であろうとマッチ箱であろうと、自分に与えられた役割に対してベストを尽くせば良いと思われ… (なぜか歯切れの悪い「北の国から」調)そして、ここまで書いてふと、マッチ箱は神様なのかな?と思ったり。神様御自身も輝いておられ、人をも輝かせるから、両刀遣いか。そしてここで宇多田ヒカルの"Deep River"を思い出したけど、エンドレス連想ゲームになりそうだから、今日はこの辺でおしまい。(オチがなくてすいません!)

心を照らす質問力

2008-12-03 | 言の葉
人との会話の中で「質問力」って、けっこう大事ですよね。私のESLの初歩会話のクラスでは、「時と場合に応じた英語の質問のストックをしとくと便利だよ」ってなわけで、こんなアクティヴィティをしています。

まず紙を三等分に折り、三つの質問欄を作ります。

Step1:初対面/他人用の質問 
ここには初めて会った人に対する質問を書きます。”What’s your name?” “Where are you from?” “What are you studying?” “When did you come to the United States?” のような、当たり障りのない質問を書く生徒が多いですね。

Step 2:数週間後/知人用の質問 
ここにはあまり親しくはない知り合いに対する質問を書きます。 “What did you do this weekend?” “What are you doing for Christmas?” “Where did you buy those shoes?” みたいに、ちょっと踏み込むけど、あんまりパーソナルな粋に触れない程度の質問です。

Step 3:数ヵ月後/友人用の質問 
ここには親しい友人に対する質問を書きます。 ここまでくると、生徒達の個性やお国柄が垣間見れる質問が並ぶもんです。“How are things going with THAT guy?” (どこの国の人も好きな恋バナ♡) “Can I borrow money?” (確かに初対面では聞けないわ。)“Did you take a shower?” しまいには、“You need to take a shower.” (←もう質問じゃないし。)

質問を書き終わったら、最初の5分間は初対面になったつもりで、色んなクラスメイトに質問をしてもらいます。そして次の5分間はStep 2、そして最後の5分間はStep 3というように、相手を変えながら互いに質問をし合い、会話を展開させていきます。たったの15分間で人間関係の発展三段階を早送りで見るようで、傍目にも楽しいアクティヴィティなんですよね~。それにこれ、他にも色々活用できそうっ。例えば…

友達 → 友達以上恋人未満 → 恋人
ノンクリ → 求道者 → クリスチャン

まぁ、ストックに頼り過ぎると会話がマニュアル化しちゃうけど、色んな場面を想像しながら質問力を磨いておくのも悪くないと思います。特に外国語の場合。だけど、純粋に相手をもっとよく知りたい!という気持ちが、人の心に届く質問力の核なんだろうなぁ。

そういえば、司会業が多いSMAPの中居君が質問力について面白いことを話していました。初対面のゲストを相手にトークを展開するのは、知らない家で部屋の灯りを付けるスイッチを手探りで探すようなものだ、と。「この人ならココかな?」ってスイッチを入れて、話題の溢れるアタリ部屋に灯りがついて話が弾むこともあるし、「あれ、あんな所についた!?」ってハズれることもある。最初の1、2分が勝負。なるべく早くスイッチを見つけて、話が弾む部屋を見つけられるのがプロ、だそうな。これには、質問力がモノをいいそうですね。それ以来、私の中でちょっと株が上がった中居君なのであった。(笑)

ところで今年度から、留学生向けのキリスト教入門クラスも教えています。そこで最近、気が付いた事ひとつ。神様って、人が罪を犯した時、まず質問することが多いんですよね。(答えを知っているにもかかわらず。)そう、いきなり責めない。

「どこにいるのか?」→善悪を知る木の実を食べたアダムとエバに向かって。
「あなたの弟はどこか?」→弟アベルを殺したカインに向かって。
「あなたを責める者はどこにいるのか?」→姦淫を犯した女に向かって。
「あなたは私を愛するか?」→イエスを三度否定したペテロに向かって。

神様の質問は、私達の罪深い心の部屋を照らしてくれる。神様と愛の関係にある人はその光に優しさを感じることができるし、そうじゃない人はまるで警察のサーチライトにでも照らされたかのようにびびって攻撃的になったり、逃げたり、いじけたりする。でも、全知全能の神様の質問の核は「あなたをもっと知りたい!」じゃなくって、「あなたに自分で理解してもらいたい」「私に愛させて欲しい」「私に信頼して欲しい」「私に清めさせて欲しい」…なのかも。

私達の質問も優しい灯りとなりますように。