言の葉ひらひら - Wordy Leaves Dancing

「はじめに言葉があった」
"In the beginning was the Word."

サラリーマン川柳に垣間見る現代日本社会と日本的愛の変化球

2011-03-01 | 教の葉
(またまた長ったらしい論文風のお題で、ごめんなさい。趣味です。)

さてさて皆さん、今年もサラリーマン川柳の締切りが近づいて参りましたよ!(第一生命の回し者ではありません。)私がミシガンに住んでいた頃は、お世話になっていた日本人家族がよくサラリーマン川柳をお食事会などで皆さんに紹介されていたので、ある程度は親しんでいたのですが、それから数年間ご無沙汰しておりました。で、ただいま日本語と日本文化をアメリカ育ちの日本人・日系人の子ども達に伝えるべく奮闘中ですので、「おお!そういえばサラリーマン川柳というものがあったなぁ!」と思い出したのであります。授業のネタに使おうと、早速リサーチ。さぁ、どれだけ浦島花子になっておりますことやら・・・

などと、思いつつこちらを見てみたのですが、インターネットのおかげか、あまり取り残され感はありませんでしたよ。(ホッ)で、ついつい一気に過去二十年分ほど読んじゃったのですが(ベスト10だけね)、過去二十年の日本社会を少~し垣間見た気持ちになりました。さて、サラリーマン川柳って、だいたい次の5つのパターンに分けられると思うんですが、

その1:残念な配偶者・家族に呆れる類い
その2:残念な会社の人間・システムに呆れる類い
その3:残念な政治・世相に呆れる類い
その4:残念な自分を自嘲する類い
その5:残念な体型を笑う類い

これらの思わず膝打つ「残念!」な本音をペーソスとユーモアで味付けて、五七五に仕立てたものを、「サラリーマン川柳」と呼べばよろしいでしょうか。しかし、どれを授業で使うか結構迷いましたね~。「それじゃあ、お父さん可哀想じゃない?」「それは奥さんにあんまりじゃありませんか!」「この国、ホントに大丈夫か?」と言いたくなってしまう句、絶対多数!これでは、日本を誇りに思ってもらうことなど出来ないわ!と先生は激しく(?)悩み、(サラリーマン川柳で日本を誇りに思うこと自体に無理があるとは思われますが、それは置いといて)お父さんもお母さんも子どもも日本も殆ど傷つかない「良い子のサラリーマン川柳」ってことで、下記の十句を選んでみました。

1.やせたのは 一緒に歩いた犬の方(→説明不要)
2.コスト下げ やる気も一緒に 下げられる(→説明必要)
3.まだ寝てる 帰ってみれば もう寝てる(→説明必要)
4.「前向きで」 駐車場にも 励まされ (→説明必要)
5.太るなら おいしいもので 太りたい(→説明不要)
6.カーナビを 使える頃には 道覚え(→説明必要)
7.入歯見て 目もはずしてと せがむ孫(→説明不要)
8.目で言うな 言いたいことは 口で言え(→説明不要)
9.うわさの木 根も葉もないのに 良く育つ(→説明必要)
10.まじっスカ スカがついてて ていねい語(→説明必要)

というわけで、ほとんど説明が必要だったのですが(笑)、それは想定内。でも、少しは日本語と現代日本社会の勉強にはなったかと。私的には最後の「まじっスカ スカがついてて ていねい語」がヒットでしたね。ていねい語の説明もできたし。はい、間違えても「~っスカ」がていねい語とは教えてませんから!これは、「~ですか」という正しいていねい語の若者ことば的変形型だ、と。「まじ」は知ってましたけどね。でも、知らなかった「~っスカ」を教えちゃったってことは、逆に教育的ではないような・・・まぁ、言葉はナマモノですから!(←苦しい時の言い逃れはいつもコレ!?)そう、「言葉は教科書にあるだけじゃねぇ!現場で変わってんだ!」ってやつですよ。(古いか)

それから放課後、選ばれなかった「良い子の、じゃないサラリーマン川柳」を見直していたら、ある言葉を思い出しました。「実は、女は好きな男に呆れたがっている。」(誰だったかな?多分、紫門ふみあたり)これは読んだ当時、結構目からウロコだったんですが、作者曰く「堂々と呆れることができるのは、事実をあからさまに言えない他人ではなく、愛情を受けている者の特権」ということなんですね。つまり、「呆れる」とは「愛の変化球」なんですと。わかります?「恋女房 いつか知らずに 肥え女房」なんて、自分の旦那に言われるなら笑えますが(旦那いないけどね)、よう知らん男に言われたら腹立ちますからね!でも、親しい仲にも礼儀あり。「『残念!』と 俺の給料 妻が斬り」なんか、腹立つでしょうね、妻なら余計に・・・言ったことないですけどね、妻じゃないから(笑)「赤い糸 やがて夫婦は コードレス」なんて上手いけど哀しすぎる(涙)。サラリーマン川柳さん、少しは結婚に夢見させてくださいね。・・・なんて無理、サラ川なんかじゃ、夢見れない。(と、なぜか突然に一句)

話がビミョーに外れていっておりますが、「残念!」と斬られてもOKなのは、愛あればこそ、そして関係あればこそ、なんじゃないでしょうか?他人や他国に同じこと言われたら、もうオシマイですから。「なんでアンタに言われなきゃいけないっつーの!」って怒っちゃいますから。身内だから言われても我慢できるし、受け止められるのではないかと。しかし、この類いの「愛の変化球」は非常に日本的だと思われます。日本人の間で、「うちの主人ったらね・・・」「本当にうちの子ったら・・・」で始まる呆れ話の多さといったら!しかし、これも愛だと思えば納得です。でも、アメリカ人は「サラリーマン川柳」なんか真にうけちゃって、楽しく読めないことでしょう。(こちらに長い私にも楽しく読めないとこありましたけど。)アメリカ人は身内や自分を堂々とけなしたり呆れたりしませんし、「愚妻ですが・・・」とか「たいしたもんじゃありませんが・・・」なんて前置きを使いません。褒めてナンボ、の世界ですもん。耳心地良い世界ではありますが、(なにか裏があるのでは?)と思ってしまうのは、日本人的サガなのかもしれません。逆に、たまにはスパーンと斬られるのもいいかな、なんて。(愛があればね。) 

ここでふと、リンクしました!最近、聖書のエゼキエル書を読んでいたら、イスラエル人の斬られっぷりが哀しくて、「神様、そこまで言うの?ヒドいわぁ!」って落ち込みモードだったんですけど(影響されすぎ)、これも愛あればこそ、関係あればこそなんだ!そうか!そうか!(一人で納得)「なんか、無理やりキリスト教的オチにしてないか?」って思われる方もいるかもしれませんが、今フト、そっちに繋がっちゃったので。とにかく、そんな風(↑)に思っちゃったかもしれないアナタの「愛の斬り」も、受けて立ちます!・・・お後がよろしいようで。

ボズられた!

2011-01-05 | 教の葉
明けましておめでとうございます!細々と生き延びている「言の葉ひらひら」ですが、アクセス・ランキングをチェックしますと、かなりの方が日々ご来板されている様子。感謝です!今年も物想う毎にこちらの葉に綴っていきたいと思いますので、よろしくお願い致します。

本日は、ちょっとした教室小話。(久しぶりに今日は教の葉!なーんて。)

アメリカはサンノゼの地で、日本語と日本文化を日系の子ども達に伝えるべく教えておりますが、一月の間は文化の時間にお正月の遊びをする予定です。今週は低学年は福笑い、高学年は百人一首・・・のはずが、ちょっと難しかったので坊主めくりになりました。けっこう楽しんでくれたようです。さて、この教室では英語厳禁、日本語ONLY・・・じゃなかった、日本語のみ!というルールがあるのですが、英語ネイティブの子ども達には難しいらしく、時々口が滑って英語が出てきてしまうこともあります。さて今日、坊主めくりをしていた時のことです。坊主を引いてしまった子が、"Oh, no! I got BOZED!"(やべ、ボズられた!)と口にしてしまい、一同大ウケ。この子達は、英語と日本語を組み合わせて新しい言葉を作るちゃんぽんの天才でもあるのです。昔こちらに載せましたコード・スイッチング、またはちゃんぽん語とも言えるのでしょうが、"I got BOZED."は、なかなかハイセンスなちゃんぽん語で、「英語はダメ!」と言いつつも、内心感心してしまいました。(名詞の「坊主」が動詞の受動態にされている)その他にも、放出された札が全くない時に姫を引いてしまった子どもが、「ムダな姫!」と言ったり、この教室ならではの会話を楽しむことができました。他にも、クリスマスの歌の練習のことを、いつも「らららの時間♪」と言う子がいたりして、可愛いものです。よく面白いな~と思うちゃんぽん語が聞こえてくるのですが、書き留めておかないと忘れてしまいますね!できるだけ、こちら言の葉でご報告するようにしたいものです。。。

では皆さんも、この新しい年にうっかりボズられないように、お気をつけ下さい!これまでちょっとアンラッキーだった人は今年はヒメられる(?)といいですよね。私としましては、姫や坊主に一喜一憂しない、安定した心を持てる一年になるようにと、願っています・・・

「あえいうえおあお」の意外な効用

2010-04-17 | 教の葉

4月になりました。日本では、学校でも職場でも新年度を迎える時期ですよね。去年の夏までアメリカの現地校で働いてきた私も準備期間を経て、いよいよ4月から日本人補習校で担任を持つことになりました。先日は入園・入学式があり、桜の花が会場に活けられていました。名前を呼ばれて、壇上に登る緊張した面持ちの子ども達。記念撮影。あ~、懐かしいなぁ、この雰囲気!私が小学校に入学した時は、名前を呼ばれ嬉しくて、たらんらんとスキップして壇上に向かい、先生に取り押さえられたっけなぁ~(笑)

教師をしていると言うと、決まって「何年生を教えていらっしゃるんですか?」と聞かれます。・・・んぐ、一言では答えられませぬ。私のクラスはマルチエイジ&マルチレベルの「日本語専科」-日本語を継承語として教えるクラス。最近はアメリカにおける日本人補習校のニーズも多様化し、アメリカ生まれで日本への帰国予定がない日系の子ども達のための日本語&日本文化教育の需要が高まっているのです。そこでこの半年間、継承語教育についてリサーチしたり、独自のカリキュラムを作ったり、授業案を練ったり、他の学年のクラスをはしごして教育実習をしていました。(日本語で教えた経験は、あまりありませんから。)そして、いよいよ子ども達を迎えての授業が始まったのです!

色々と面白いことがあったのですが、小出しにしていきましょう。今回は、モジュール学習について。短時間で音読教材をテンポよく読みます。最初の週は「口の体操」と称して、「あ・え・い・う・え・お・あ・お!か・け・き・く・け・こ・か・こ!」と50音やりました。これ、私が小1の時にもやりましたっけ・・・「アナウンサー学校では、大人もやっています。」って先生に言われて。思いっきり口を開けてやると、けっこう筋肉に効くのです。「日本語筋を鍛えるよ!」と言い、やっています。子ども達は週一回来るので、毎日違うグループを教えるのですが、ある曜日のグループにこれがバカうけ。「まず、先生がやるから見ていてね。。。あえいうえおあお」とやったら、どはははは!と皆笑う。「あえいうえおあお」の何がそんなに可笑しいのか!?どこが笑いのツボなのか予測不可能な子ども達、恐るべし。後で考えたら、ジム・キャリーよろしくゴム化した私の顔が可笑しかったのか!?

そして、何気なくネットサーフィンしていたら、「あえいうえおあお」の意外な効用を発見!なんと「あえいうえおあお」で肌が5歳若返る!(らしい)よ~し、これからはいっそう気合をいれて子ども達と共に「あえいうえおあお」に励もうではないか!(子どもは若返る必要はないが。)これぞ職権乱用ならぬ、職権得用。スクリーンの向こうのみなさんも、さぁご一緒に!「あ・え・い・う・え・お・あ・お!」・・・ありがとうございました。


Sister Act のウーピーとかけて、マッチ箱のザラザラととく。そのこころは…

2008-12-08 | 教の葉
昨晩は私の部屋に、いち女子生徒がお泊りしていきました。私の住んでいる高校女子寮では、土曜の夜は好きな友達の部屋で寝てもいい「お泊りナイト☆」なんです。で、一緒にSister Act(天使にラブ・ソングを…)を鑑賞。彼女は観た事がなかったらしいけど、私は高校生の頃にリアルタイムでデートで見たっけなぁ。(懐かし~。)でも、彼女が来なかったら、きっとこれ二回も見なかったと思います。(っていうか、まだ観てない続編の方が観たい。)しかし、時間をあけて同じ映画や本に触れると、前には気付かなかった事を学べるものですよね。これぞ、年の功。なーんて。

この映画が出た当時、ウーピー・ゴールドバーグの歌が酷評されていて、「そんなに下手かなぁ。」って思ってたけど、このストーリーの設定上、あんま上手かったら逆にダメじゃん、と昨日思いましたね。(実力は知らないけど。)ウーピー演じるデロリスは彼女いわく、「取替えのきく」しがないクラブ歌手。私思うに、そんな下手ではないけど「この人じゃなきゃ!」とか「もう一回聞きたい!」と思わせる「らしさ」のある個性的な歌声ではない。そこで、わけあって修道院に送られたデロリスに、ある敬虔なシスターがこう訊きます-「私は世の為、人の為、奉仕をしたくて修道院に入ったんです。でも…私でなければできない、そんな奉仕をしたい。そう思うのは高慢ですか?」はい、いい質問です。私も最近、それ考えてたんです!それって高慢じゃないかって。でも、自分らしさは神様に与えられているんだから、それを生かしたい、と思うのは自然、いやきっと使命なんですよね。でも誰のために?神様や人のためじゃなく、「私見て見て!」的自己顕示欲が強いと高慢になってしまうし。(←自分ありがち)与えられたタレントをその量と質に関わらず、卑屈にも高慢にもならずに、素直に有効利用したい今日この頃。。。

あと、今回映画を観ながら思ったのは、「ウーピー(というかデロリス)、歌は微妙だけど、教えるの上手いじゃん!」 歌う技術と賛美の心の両方を教え、シスター達をやる気にさせた彼女。バラバラだった歌声を、お互いの声をよく聞くことでまとめた彼女。(そういえば、我が敬愛するクワイヤーの指揮者(またの名を船長)の不思議な名台詞は "Listen louder than you sing!"「歌うより大きく聞きなさい。」だったな。)みんな調和しているけれど、「和して同せず」な歌声で、一人一人の個性を活かした彼女。オペラ調おばあちゃん、ドス効きおばちゃん、超ハイソプラノおばちゃん、コンテンポラリーお姉さん、それぞれが見せ場で輝いていた。周りの声をよく聴くってことは、人を没個性にさせるどころか、自分の持ち場、持ち味を客観的に判らせ、謙虚にしてくれるんですね~。

さぁて、お待たせいたしました、ここからがなぞときの答えです!「Sister Act のウーピーとかけて、マッチ箱のザラザラととく。そのこころは…他者を輝かせるのが天命。」どうでしょう。実は、このマッチ箱のザラザラ、ってのは「ノルウェイの森」からのパクリなんですけどね。読んだことのある人は、タイトルを見てピン!ときたかも。(また村上春樹かよ、って思う人もいるでしょうが、私は彼の小説のファンではなく、部分的ハルキストとでもいうか…彼の比喩とエッセイと言葉に対する態度が好きなんです。)さて、ノルウェイの森にはレイコさんという素敵なキャラが出てくるのですが、彼女が一流のピアニストになることに挫折し、結婚&出産を経て、ある女の子にピアノを教えた経験を語るくだりで、このマッチ箱の喩えが出てきます。(以下引用)

「私は自分自身に対してよりは他人に対する方がずっと我慢づよいし、自分自身に対するよりは他人 に対する方が物事の良い面を引きだしやすいの。私はそういうタィプの人間なのよ。マッチ箱のわきに ついているザラザラしたやつみたいな存在なのよ、要するに。でもいいのよ、それでべつに。…私、二流のマッチ捧よりは一流のマッチ箱の方が好きよ。はっき りとそう思うようになったのは、そうね、その女の子を教えるようになってからね。」この続きにも「素晴しい才能に恵まれながら、それを体系化するための努力 ができないで、才能を細かくまきちらして終ってしまう、スポイルされた人達」に対しての厳しいお言葉があり、教えることや学ぶことについてなかなか深く考えさせられます。レイコさんのような効果的に厳しい先生になりたい!必要以上に甘いんですよね、私。それに、自分自身「体系化するための努力」が苦手。マッチ棒としても、マッチ箱としても課題アリ。。。

先述の映画を見ながら、この小説を思い出したのは、デロリスがまさに「二流のマッチ捧から一流のマッチ箱」になったからなんですね。自分がマッチ棒なのかマッチ箱なのか見極めるのが、人生大切なのよ、ってとこでしょうか… でも、私はレイコさんほど潔くないので、「二流でもいいから時々マッチ棒になりたい!」とか「自分はマッチ箱として、一流なんだろうか?」とか思ってしまうわけで… それに、一流か二流かなんて他人が決めることで、マッチ棒であろうとマッチ箱であろうと、自分に与えられた役割に対してベストを尽くせば良いと思われ… (なぜか歯切れの悪い「北の国から」調)そして、ここまで書いてふと、マッチ箱は神様なのかな?と思ったり。神様御自身も輝いておられ、人をも輝かせるから、両刀遣いか。そしてここで宇多田ヒカルの"Deep River"を思い出したけど、エンドレス連想ゲームになりそうだから、今日はこの辺でおしまい。(オチがなくてすいません!)

英語教育はマッサージのごとし!?

2006-08-10 | 教の葉
先日お話した高校生の団体は台湾へ帰りましたが、それと入れ替わりに一人の高校生が台湾からやってきました。彼はこの秋からアメリカの高校に留学すべく短期英語集中講座を受けに来たのです。そこで、私がワン・ツー・ワンで一日4時間、書く&読む&話す&聞く、そして文法の5技能を教えております。こんなにじっくり一人の生徒だけ教えたことはなかったので、深く細かく教えることができて良いですね。

でも、始めはいきなりボスに「はい、この子よろしく!」って頼まれて、何を教えたらいいんだか...?って感じでした。普通は読み&書き&文法のレベルを知るためのテストとか、そのレベルに合ったテキストとか用意してくれるんですけどね。彼は台湾のインターナショナル・スクールに行っていたんだけど、どの位英語が出来るのかは、かなり未知数。。。なので、とりあえず色々なレベルの教材を持っていって、手探りで始めてみました。それからだんだんニーズが判ってきた時点で、他の先生に相談してテキストも選びました。「これは習ったと言っているけど、本当にわかっているのかなぁ。」「これはスラスラ出来てしまったけど、簡単すぎるのかなぁ。」と試行錯誤の数日間。しかし最近は、「あ~、これが苦手なんだ。じゃあ、ここを重点的にいきましょう。」「こういう風に並べれば、階段を上るようにようにわかってくれるのね。」とポイントがつかめてきました。簡単過ぎでも、難し過ぎでもなく、ちょっとチャレンジングなレベルで頑張らせる。これ、教師冥利に尽きますね。

「あれー、この感覚って何かに似ているなぁ。。。」昨日のレッスンが終わった後、ふと考えておりました。よく考えてみたら、そう、マッサージの手順に似ているんですよ。実は、ウイマー大学にいた頃、教育専攻しながらマッサージ・コースも取っていて、キャンパスのNEWSTART プログラムで2年くらいマッサージのアルバイトをしてました。さーてここにて、基本的な全身マッサージの手順の講座をいたしましょう☆ (こちらはオイルを使ったSwedish Massage & Trigger Poitn Massageです。)

1.Effleurage - なるべく手のひら全体を平らを使って、各部を伸ばすように、また流れるように、押し撫でます。
2.Petrissage - パンをこねる様に、手の平全体でつまむように、ぎゅっぎゅっと揉みます。
3.Tapotement - 日本でもおなじみの軽くトントンたたく方法です。ゲンコでも、空手チョップ風でも、指先でもOK。
4.体が揉み解され、血行も良くなったところで、Trigger Poitnt に移ります。これは指圧みたいなもので、効く一点をぐーっと親指で押して、筋肉中の乳酸を押し出します。この「クーッ!とくる一点」を見つけるには、経験がモノを言うんですよね。まぁ、クラスで人体図とかに点つけて暗記させられますけど、人によってかなり違うし。テストの後でそれらをキレイサッパリ忘れてしまった私は、自分の親指の感覚のみが頼りっす。コレ見つけてヒットするの、お宝探しみたいで、結構好きかも。Trigger Poitntを押すのは、強すぎても、弱すぎてもダメ。1から10までの痛みメーターで10が超イタ!なら、7くらい(母呼んでこれが「イタきも」=イタ気持ちいい)でストップかけてもらって10秒押さえます。この間3回深呼吸。これを幾つかのスポットで繰り返し。私はついついガンガンやりすぎてしまいますが、揉み返しがきたりするので、注意。
5.ピン・ポイント攻撃(?)が終わったら、始めと逆の順番で3,2,1と戻り、フェザー・ストロークで優しく終わります。

なんで、このマッサージが英語教育に似ているのかって?まず、大まかな全体に取り掛かってから、段々範囲を狭めていくところ、始めの1,2,3の段階で体を「読」んで、後にピンポイントする所をひそかに探すところでしょうか。手では優しく揉んでいても、その下にかなりごろごろ感あるコリカタマリを見つけると、心の中では「後で待ってろよー!」って。(←鬼?)それからツボを押す際の、キツ過ぎず、優し過ぎず、ってのも同じです。効果が一番あるところまで刺激を増していく、と。体にも脳にも心にも丁度いい刺激を与えなきゃね!でもいきなりじゃなくて、リラックスも大事。

でも、このマッサージ法、英語教育だけじゃなくて他の教科にでも使えるし、色んな事に通じますね。人とのコミュニケーションとか、何かのスキルアップとか、体の鍛え方とか。神様も私達にこのように接してくることがありますよね!?(触れる前からツボはお見通しでしようが。。。)自分じゃ手加減しちゃうけど、神様の手にお任せすればきっと最善の効果が期待できます☆ なにしろ「耐えられない」痛みは与えられないんですから。

彼女のクラスは人生講座。

2006-02-16 | 教の葉
今学期は、創作詩、談話分析、そして英語教育法の3つのクラスを取っています。どれもそれぞれ面白いですが、英語教育法の教授がとってもパワフルで、授業も飽きず、眠れません!(他では寝てるってことですかって・・・?)それに授業の半分は英語教育法だけど、残りの半分は人生講座みたいになってるのもスゴイ。クラスメイトはたったの3人だけど大盛り上がりで、先生が何かいい事言うと、隣で立ち上がって拍手をしたり、叫んだり、目を潤ませたりと、もう大変。私はといえば、先生の話に触発され、発言したくていつもウズウズしています。

B教授は、長い間アフリカで宣教師としてクリスチャン学校で教えてから(アフリカは個人的にツボ。私も一年暮らしたから。)、アメリカの様々なクリスチャン学校で教師をしたり、校長をしたりしてきました。その間に、娘が不治の病になったり、旦那さんが亡くなったり、色々苦しいこともあったのですが、「いい時だけじゃなく、辛い時にも、神様はそこにいて下さるのよ。」と熱弁。今は60代ですが、博士課程に励み、BFもいて、とってもパワフル。突然、愛と恋の違いの講義が始まったり、恋愛体質分析テスト配られたり・・・え、これって何のクラスでしたっけ?って感じ。(といいつつ、困ってない私。)ちゃんと英語教育学も学んでいますよ!しかし、先学期の教授陣は言語畑や英文学系でしたが、B教授は完全に教育畑の人で、「教育とは、教科を教えるのものではなく、人間を教えるものです!」と熱い、熱い。いやー、教科は直接目的語(DO)で人間は間接目的語(IO)で、教えるという動詞に対して両方むにゃむにゃ・・・と考えてしまう私はどっち系?とにかく、先生が教える教科に精通する事も大事だけど、学んでいる相手が人間だって事を忘れない。そして人間として必要な様々なことの内のホンの一部が教科、それを責任持って人として人に教えるのだ、と私は解釈しています。人生、教科にくくれないことで大事なこと、たくさんあるしね。私もまだまだひよっこですわ。

最近、このクラスで学んだ興味深い事は、新しい学校を設立する際や、倒れそうな学校を救済する際のプロセスについてです。これは、会社とか、施設とか、イベントとか、人間関係にも応用できそう。

  1.新しく何かを起こそうとする (Forming)
  2.意見がぶつかり合う (Storming)
  3.意見が一致し、基準ができる (Norming)
  4.それぞれが責任を理解し実行する (Performing)
  5.完了する・終了する (Adjourning)

新しい学校を創りあげよう!とする時は、みんなでごたごたしながらも揃って1―>4と進めるわけです。そして、4までいったら軌道にのせ、安定させる。でもうまくいっているからといって、安心して毎年3や4だけを繰り返すだけでは駄目。状況や時代が必要としているものが変わっていないか、新しい使命や問題点はないか見極めて、また1からやらなきゃいけない時があるのだそうです。そして、完了・終了する必要や、次の人に委ねることが必要な時が5段階目。

それから、もう出来上がっている組織で、方向転換や改革が必要な所にリーダーとして放り込まれる時、一人イキナリ張り切って1から始めようとしてはいけない!(これやって失敗した、と教授は語っていた・・・)まずは周りのやり方・考え方を学ぶために、横からすうーっと3に入ります。(白鳥蘆花に入る?)そこで彼等の理解と信頼関係の土台ができてから、1に戻る、のだそうです。「東に行かなきゃいけないのが分かっていても、しばらく一緒に西へ歩く。その間に彼等の歩き方を学び、どうやって東へ持っていくか考える。」(でも、そのままずーっと西に 流されないように!)なぁるほど。モーセも、一人イキナリ張り切って、失敗しちゃったもんね。遠回りに思えても、まず荒野で謙遜を学ぶことが大事なのかな・・・ 

見えないものが見えちゃう感性

2006-02-01 | 教の葉


先日「目から言の葉」を書いてから、数年前に教育実習をした時に小学校の生徒と交わした会話を思い出しました・・・

アートのクラスで色・形・線・デザインについて教えた後、休み時間になり生徒達は外に遊びに行きました。教室で後片付けをしていると、一人の生徒がまだ机に向かって何か描いています。

「先生、ちょっと来て見て。」

「なになに?」

「これ見て。笑ってるでしょ。」

そこには鉛筆で描かれたスマイルが。 :)

「うん、笑ってるね!」

そこで、彼は口の部分を消して、への字口を書き入れた。 :(

「こうすると悲しい顔になるよ。」

「うん、そうだね。」

内心、(当たり前だろう)と思っていたその矢先。

「おんなじ目なのに、口を変えただけで、目も悲しそうに変わるんだよね。」

「!!!」

白紙に描かれた点々の目。そこにある感情の違いがわかるとは・・・恐るべし子供の感性!

最近のクラスで、「教育の現場における私のAha!moment(目から鱗!エピソード)をシェアする」という宿題があり、迷わずこの話をしました。すると教授は「箱の中の羊が見えた星の王子様と同じね。」とコメント。そうですよね、彼も言っていたものね、「本当に大切なものは目に見えない。」これがわからなくてアートを教えたり、絵を描くことは傲慢なんじゃないかと思わされた出来事でした。また、子供の感性を失わせるような詰め込み教育はしたくないな、と痛感させられました。私達は大事な何かと引き換えに、この世の規律を学んではいないか・・・?って。私もこの生徒に気づかされるまで、:)の目の喜びや:( の目の悲しみが見えなくなっていたから。単なる記号になっていたから。描かれた目にも語る言葉があるんですよね・・・

生徒のための祈りの本

2005-09-06 | 教の葉
新学期が始まり、二週間目に入りました。先週はドタバタしていましたが、だんだん毎日のリズムが掴めてきたようです。私は現在、教育学部である教授のGraduate Assistant(大学院生助手)の仕事を午前中にし、午後に大学院のクラスに出る生活をしています。教育学士を取得し卒業した母校に四年ぶりに戻ってきたわけですが、六年前には自分が受講していた教育のクラスで、今度は教える事も度々あります。目の前に並んだ大学生達を見て、「彼らもいつか教師になっていくんだなぁ。」と思うと、感慨深いものがありますね。自分もちょっと前にはあそこに座っていたんだな、って。きっと先生になってからの方が楽しいけど、今はしっかり準備してみんな良い先生になって欲しいな。

さて、アメリカの教育学部の学生達は、四年生になって教育実習をやる以前からも、近辺の学校で週に何度か実習をする機会がよくあります。(教育実習も15週間やるし!)私が助手をしているクラスはTeaching Beginning Reading(初歩の読み方)で、もうすぐで学生達が小学校に読み方を教えに行くので、彼ら一人一人が学校に持っていく教材バッグの中身を準備するのが、目下の私の仕事です。そのバッグの中に入れるリストの中に、色付きのカードを20枚くらいリングで止めたA Book of Prayers(祈りの本)というものがあるのです。何の為に使うのか教授に聞くと、学生達が教えている子供たちのために祈れるようにだそうです。今まで、公立の学校で教えていたので、「あークリスチャンの学校に帰ってきたなぁ。」とちょっと感動しちゃいました。一ヶ月ほど前にキャンパスで仕事を探していた時も、面接をした後に面接官が私の将来の為に祈ってくれたり、昔ならあまり気にも留めなかった事が、新鮮で有難く感じられるようになったかな。とにかく「生徒のための祈りの本」もいいアイデアですよね。「先生ダイアリー」と共に覚えておいて、また現場に戻った時に使ってみようっと。

先生ダイアリー

2005-08-24 | 教の葉


長い夏休みも終わりに近づき、学生ビザもやっと家に送られてきたので、残り少ない日本の夏を満喫しようと、ここ数日は外出ばかりしていました。投稿が遅くなってしまって、ごめんなさい!しかし、来週からは大学院での勉強が始まるので、今までのようにたっぷり投稿できないかも?いえいえ、英語教育についてしっかり学んで脳内刺激を増やし、更なる内容の充実をはかります!乞う御期待!

先日は、小・中学校の頃の女友達と浴衣でお出かけしました。(みんな、おんなっぷりが上がってました。浴衣のおかげ?!)いいですよね、日本の夏、って感じで。そこで色んなおしゃべりをしました。時間が戻ったような、時の流れを感じるような…素敵な時間を過ごせました。そこで一人の友達から、先生としてためになるいい話を聞きましたよ。彼女は最近、小学校の頃の担任の先生に会ったらしいのですが、その先生は教師暦O十年の今も、日記を付けているらしいのです。どの生徒とどんな話をしたか、などなど。ふれあい記録、とでも呼べるかな。意識的に記録を付ける事によって、出来るだけ全ての生徒と均等に交わりたいから、との事でした。そうしないと、ひいきするつもりはなくても積極的に話しかけてくる子や気の合う子とばかりになりがちだから。その日記を見て、「あの子とは最近話してないな、どうしてるかな。」と気づいて、アプローチにつながるわけです。すごいですよね。

去年頃にも、学校カウンセラーの友達が生徒と交わって印象に残った事を、日々書き留めている、って教えてくれました。私もやっとけば良かったな。私も生徒に教えられたり、考えさせられたり、笑わされたり、という事は日々あったのですが、の日限りになっていた事が多いかも。今、全部は思い出せない… 先生ダイアリー、見習わなきゃ!宝になるぞ。

ある牧師さんは、ブログと、霊的な学びの記録と、娘のための3つの日記をつけておられるそうです。(今の私には、このブログで精一杯ですけど...) 神様も私達の記録をつけておられますが、それは私達の日々の思いや行動を単にモニターするためじゃなく、ふれあい記録なんじゃないかな?いつか読ませてもらうの楽しみ。