期末が近づいているというのに、本が私を呼んでいるので困ります。去年の夏に買って、「分厚いから時間のあるときに読も。」と思っていたのに、最近手をつけちゃったんですよ。あらら、そしたら毎日読むのが習慣になってしまった・・・そしてついに一昨日読み終わりました!(これで勉強に専念できる?)11年前に起こった地下鉄サリン事件の被害者の方へのインタビューをもとに書かれたノンフィクション「アンダーグラウンド」。色々と考えさせられた作品でした。
1995年3月20日といえば、私がまだカルフォルニアで大学生の頃。この地下鉄サリン事件に限らず、日本のニュースをテレビやインターネットなどで目にすることもなく、家族に電話で教えてもらっていた時代でした。今は自分でネットから情報収集しますが、それでも海外で記事を読むだけなのと、実際にリアルタイムでその社会の中に生きているのとは違うことをよく感じます。このオウム関連の事件に関して言えば、アメリカでもメジャーな雑誌に取り上げられていたし、友達にも質問されたのを覚えています。それから日本のクリスチャンの知り合いが「伝道がしにくくなった・・・」とぼやいていたのも。(やっぱり宗教アレルギーの人が増えましたものね。)しかし、「ひどい事が起こったものだ!」とは憤慨はしたものの、本当は何が起こったのか、それが何を意味していたのか、そしてそれが自分とどう関連があるのか、そこまで考えてはいなかったし、事件の重みを肌身に感じていなかったのです、当時の私は。
この本の著者、村上春樹氏(最近このブログに出ずっぱり?)がこの本を書く動機として、「そこで本当に何が起こったのか?」という問いと、そして更なる深層心理に「より深く日本を知りたい」という欲求の二つがあったといいます。メディアが伝える事件ではなく、オウムという組織についての報道ではなく、もしそこに自分が遭遇していたら体験していたのかもしれない、人々が見たもの、とった行動、感じたもの、そして考えたことを知りたかったのだと。また当時、村上氏はしばらく日本を離れて暮らしていて(今もか)、アメリカから一時帰国していた時に突然(のように感じた)日本でこのような事件が起こった事に戸惑いと違和感を覚えたそうです。ちょうど、「自分が社会の中で与えられた責務を果すべき年代にさしかかっている」と感じ、「そろそろ日本に帰ろう」と彼が思っていた矢先にこの恐ろしい事件は起きた・・・のでした。
全く同じ感覚ではないかもしれませんが、彼にとって動機となった何かが私にも少しわかるような気がします。休暇中日本に帰り、東京で満員電車に揺られてもそこに人の群れを見ただけで、そこにいる様々な世代の人間の暮らしや状況に、自分は思いを馳せたことはなかった。一対一のインタビューでほとんどが成り立っているこの本を実際読んで、今までよく知らなかった日本の社会の一端を担って暮らしている方達に次々と出会っているような感覚がありました。中学校の時までしか日本に住んでいない私にとって、日本の大人の社会はある意味、未知のものなのです。違う時代に生まれ、違う故郷に育ち、違う暮らしを営んできた人々の人生が、同じ日に同じ事件を体験するという一点で交差した・・・その一点だけにフォーカスするのではなく、そこから過去、現在、未来へと無数に伸びている人々の人生、そしてその向こうに浮かび上がる日本の社会を垣間見させてもらった気がします。
あの日、地下鉄で働いていた方や地下鉄に乗り合わせた人々、その家族等62人のそれぞれの生い立ちから現在に至るまでの話、事件の時の体験、そしてその後の生活についての語りに耳を傾けていくなか、私もその「現実に生きている人間ひとりひとりの物語に癒された」という村上氏の言葉に共感させられました。「どの人の話を聞いてもその人間性に魅力を感じ、その人たちが送ってきた人生というものに惹きつけられた、ひとたび向き合えば人はそれぞれかけがえがないことが実感できた。」とも彼は感想を述べています。2年ほど前にハマっていた本、"What Shall I do with my life?”(「このつまらない仕事を辞めたら、僕の人生は変わるのだろうか」)(変な邦題!)の著者ポー・ブロンソンも「それまでジャーナリストとして何か変わった物語、ネタをいつも捜し求めていた。しかしこれまで目も向けなかった『普通の』人達の語をじっくり聞いてみると、それらひとつひとつがかけがえのない物語であることがわかった。探し回らなくても目を向けさえすればこの世は素晴らしい物語で満ちているのだ。」と書いていましたっけ。あなたはどんな物語を持っていますか?
まだまだこの本について、事件について、宗教観について語りたいことがあるのですが、勉強しなくちゃいけないので、パート2をお待ちください・・・
(英語訳もお待ちください・・・)
1995年3月20日といえば、私がまだカルフォルニアで大学生の頃。この地下鉄サリン事件に限らず、日本のニュースをテレビやインターネットなどで目にすることもなく、家族に電話で教えてもらっていた時代でした。今は自分でネットから情報収集しますが、それでも海外で記事を読むだけなのと、実際にリアルタイムでその社会の中に生きているのとは違うことをよく感じます。このオウム関連の事件に関して言えば、アメリカでもメジャーな雑誌に取り上げられていたし、友達にも質問されたのを覚えています。それから日本のクリスチャンの知り合いが「伝道がしにくくなった・・・」とぼやいていたのも。(やっぱり宗教アレルギーの人が増えましたものね。)しかし、「ひどい事が起こったものだ!」とは憤慨はしたものの、本当は何が起こったのか、それが何を意味していたのか、そしてそれが自分とどう関連があるのか、そこまで考えてはいなかったし、事件の重みを肌身に感じていなかったのです、当時の私は。
この本の著者、村上春樹氏(最近このブログに出ずっぱり?)がこの本を書く動機として、「そこで本当に何が起こったのか?」という問いと、そして更なる深層心理に「より深く日本を知りたい」という欲求の二つがあったといいます。メディアが伝える事件ではなく、オウムという組織についての報道ではなく、もしそこに自分が遭遇していたら体験していたのかもしれない、人々が見たもの、とった行動、感じたもの、そして考えたことを知りたかったのだと。また当時、村上氏はしばらく日本を離れて暮らしていて(今もか)、アメリカから一時帰国していた時に突然(のように感じた)日本でこのような事件が起こった事に戸惑いと違和感を覚えたそうです。ちょうど、「自分が社会の中で与えられた責務を果すべき年代にさしかかっている」と感じ、「そろそろ日本に帰ろう」と彼が思っていた矢先にこの恐ろしい事件は起きた・・・のでした。
全く同じ感覚ではないかもしれませんが、彼にとって動機となった何かが私にも少しわかるような気がします。休暇中日本に帰り、東京で満員電車に揺られてもそこに人の群れを見ただけで、そこにいる様々な世代の人間の暮らしや状況に、自分は思いを馳せたことはなかった。一対一のインタビューでほとんどが成り立っているこの本を実際読んで、今までよく知らなかった日本の社会の一端を担って暮らしている方達に次々と出会っているような感覚がありました。中学校の時までしか日本に住んでいない私にとって、日本の大人の社会はある意味、未知のものなのです。違う時代に生まれ、違う故郷に育ち、違う暮らしを営んできた人々の人生が、同じ日に同じ事件を体験するという一点で交差した・・・その一点だけにフォーカスするのではなく、そこから過去、現在、未来へと無数に伸びている人々の人生、そしてその向こうに浮かび上がる日本の社会を垣間見させてもらった気がします。
あの日、地下鉄で働いていた方や地下鉄に乗り合わせた人々、その家族等62人のそれぞれの生い立ちから現在に至るまでの話、事件の時の体験、そしてその後の生活についての語りに耳を傾けていくなか、私もその「現実に生きている人間ひとりひとりの物語に癒された」という村上氏の言葉に共感させられました。「どの人の話を聞いてもその人間性に魅力を感じ、その人たちが送ってきた人生というものに惹きつけられた、ひとたび向き合えば人はそれぞれかけがえがないことが実感できた。」とも彼は感想を述べています。2年ほど前にハマっていた本、"What Shall I do with my life?”(「このつまらない仕事を辞めたら、僕の人生は変わるのだろうか」)(変な邦題!)の著者ポー・ブロンソンも「それまでジャーナリストとして何か変わった物語、ネタをいつも捜し求めていた。しかしこれまで目も向けなかった『普通の』人達の語をじっくり聞いてみると、それらひとつひとつがかけがえのない物語であることがわかった。探し回らなくても目を向けさえすればこの世は素晴らしい物語で満ちているのだ。」と書いていましたっけ。あなたはどんな物語を持っていますか?
まだまだこの本について、事件について、宗教観について語りたいことがあるのですが、勉強しなくちゃいけないので、パート2をお待ちください・・・
(英語訳もお待ちください・・・)