言の葉ひらひら - Wordy Leaves Dancing

「はじめに言葉があった」
"In the beginning was the Word."

ブログ、お引っ越しします。Moving to a New Blog!

2014-07-21 | 今の葉
このgooブログを始めてから、もう9年が過ぎようとしています。ここに来てくださる方々のことを思うと迷ったのですが、思い切ってブログを引っ越すことにしました。実は、私自身も最近アメリカから日本に引っ越しをしました。心機一転、新たな思いで「言の葉」をしたためていこうと思っていますので、よろしくお願いいたします。ぼちぼち、これまでの葉っぱも新しい樹へ引っ越していくつもりです。これまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

新しいブログも同じ名前です。言の葉ひらひら
My new blog has the same name : Wordy Leaves Dancing

It's hard to believe it's been nine years since I started this blog. Thinking about you faithful visitors, it was a hard decision, but I decided to move to a new blog. In fact, I've physically moved myself too from America to Japan recently. With a refreshed mind, I want to continue on posting new "wordy leaves," so please meet me at my new blog. I'll gradually move the old leaves from here to the new tree too. Thank you for coming here until today.

遅ればせながらのレミゼ・レビュー

2013-07-07 | 今の葉
何で今さら「レミゼ」なの?と思われる方もいるかもしれませんが、実は1月に映画を観て、途中までガーッと感想を書いてから・・・半年あまり経ってしまったのです。実は、書いたことすら、とんと忘れていたんですが、つい最近になって図らずも飛行機の中で3度目(!)のレミゼ鑑賞をすることになり、この記事のことを思い出したってなわけです。面目ない。こうして今読み返してみると、鑑賞したてのほやほやで、やたら熱入っててお恥ずかしいのですが(熱しやすくて、忘れやすいタチなんです)、これだけ書いといて、日の目を見せないのもなんなんで・・・恥を忍んで、載せます。

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16年前に観ていたのが、「オペラ座の怪人」ではなくて、「レ・ミゼラブル」だったら、私の人生も変わっていたのかもしれません・・・なんて、それはいささか大げさですが、レミゼにどハマりしていたには違いありません。その昔、イギリスに4日間だけ滞在することになり、友人が「本当はレ・ミゼラブルのチケットがとりたかったのだけれど・・・」と言って誕生日プレゼントにと連れて行ってくれたミュージカルが、「オペラ座の怪人」でした。その当時まだお子ちゃまだった私には、男女の複雑な感情の絡み合いが理解できなかったことは、以前にも記した通りです(しかし、その10年後に再び「オペラ座の怪人」を観てからは、ハマりまくって「ひとりオペ怪メドレー」をしてしまったほど)。今回は冬休みが明ける前の晩、ふと、「そういえば、レ・ミゼラブルの映画版やってたから、休みの締めくくりにでも観に行くかぁ」と軽い気持ちで映画館に足を運んだのでした。大まかな筋は知っていたものの、背景や登場人物に関してよく知らないままに観劇。しかし、アン・ハサウェイの「夢破れて」には、泣かされましたね。定番の「オン・マイ・オウン」にも、いたく感動。不幸な女子達に、大いに涙、そして共感したのであります。

それから一週間も絶たないうちに、たまたま映画館の近くを通りかった時、そんな予定もなかったのに「よし、また観っかぁ」と映画館に吸い込まれてしまった私。その時は何とラッキー、自分1人しか観客がいなかったので、映画館は貸し切り状態。たった10ドルでなんという贅沢!おかげで、先週以来、レミゼ・フィーバーで聴きまくり&歌いまくりだった私は、映画の俳優達に合わせてレミゼ・ナンバーをがんがん歌うことができたのでした。貸し切りシング・アロング映画鑑賞なんて、なかなかできる体験じゃございません!(しかし客観的に考えると、これはかなり異様な光景かも?)ちなみに、2度目は少年ガブローシュや逆さ吊りアンジョルラスなど、不幸な男子達に涙いたしました。(ちなみに3度目は、ジャン・バルジャンがファンティーヌに迎えられて、息を引き取る場面で涙しました。)しかし、2度も観て(しかも泣いて)おきながら、パーフェクトな映画、パーフェクトな歌唱だとは思えない部分もあり、あちこちつつきたくなる映画版レ・ミゼラブルなのですが、それでも何か私をハマらせる魅力のある、人に語りたくなる映画です。そこで、非常に私的な感想なのですが、ここ「ことひら」の場を借りて語ってみようと思います。これまた、長~くなる予感がするので、警戒しつつ、読みたい方だけ読んでくださいませ(ネタバレもあるし)。

まずは、キャスト。そしてまずは、ジャン・バルジャン。あなた、人相変わり過ぎ。同じ人だとすぐにはわかりませんでしたから。そのとんがったお鼻と身分が変わっても相変わらず汚い歯だけがたよりでしたよ。それから、たった15分間の出演でスクリーンをかっさらっていき、オスカー助演女優賞を受賞したアン・ハサウェイ。ついこの間のキャット・ウーマンでも「イメチェンしたな~」と思ったけれど、そこから更に振り切ったイメチェン!この映画の一番の功労者でしょう。予告編の歌が主人公ではなく、彼女のものだったのが、それを物語っています。実生活では、甘えてしまうからと婚約者からも距離を置き、結婚式のロングヘアも諦め、役作りのために体重を落としたという、あっぱれな女優魂の持ち主です。「プリンセンス・ダイアリー」、そして「プラダを着た悪魔」を経て、ずいぶんとハードなお仕事をする女優さんになったものですね!あと、それまで知らなかったサマンサ・バークスは、ミュージカル舞台版でもエポーネを演じていただけあり、惚れ惚れする歌唱力。それに、個人的にはエポーネのほうが、コゼットより可愛いと思ったし(健気な娘に弱いのよ)。それに、なぜかブロンド娘よりもブルーネット娘のほうが可愛く思えるんだよな~(グィネスよりウィノナ、レネーよりキャサゼタのほうが魅力的)。しかし、コゼット役のアマンダ・セイフライドもミーン・ガールズの頃より出世したものです(というか、リンジーが堕ちすぎ)。でもコゼット役は、子役のイザベル・アレンが激似のダコタ・ファニングのほうが良かったような。それに、ダコタちゃんのほうが陰があるし、苦労人に見えたはず。でも、ダコタちゃんだと、お相手のマリウスとのお似合い度は下がっちゃいますね。アマンダほど歌えたかどうかも、わからないし。でも、アマンダちゃんには、「マンマ・ミーヤ」みたいな明るい役のほうが似合ってる気がします。(いや、あの目玉ならホラーでもいけるかも?)歌はどっちも可愛くこなしてましたけど(ポップもクラッシックも歌える人って羨ましいわ)。それから、私が密かに「オーストラリア産のじゃがいも」と呼んでいる(うそ)ラッセル・クロウ、原作によるとジャペール警部はブルドック顔らしいから、案外ミスキャストではないのかも。でも、なんかこの人この程度だっけ?って感じてしまった。最初「主役っぽくないな~」って思ったのに次第に存在感が増したグラディエーター、どう見ても学者面ではないのに(スマン)感動したビューティフル・マインド等々、上手い役者さんなのにねぇ。声質だって悪くないのに、なんだか歌声にも心に響くものがなかったし。なんか無難にこなしたって感じ。主役じゃないと、張り切れないタチなんでしょうか?でも、ガブローシュ役のダニエル・ハトルストーン君は良かった!!あ~ゆ~訛りって萌えるわ。出演者さん、みんな彼と同じ訛りでしゃべって、って思っちゃったほど。"Can you hear the people sing?"を歌い出す時ところなんか、粋だった。可愛い子役は多くても、「粋」を感じさせる子役って珍しいと思いません?死に方も死体役も印象的だったし。恐ろしい子・・・将来有望株だわ。

次は歌。このミュージカル映画はプロデューサーと監督のこだわりで、歌を全てライブ録音したことが話題になっていましたよね。確かにセットに立つ以前に、そして共演者と会う以前に、歌だけ先録りするのは、気持ちが入りにくいかもしれません。私も手振り身振り入れるほうが、歌に気持ちが入るタイプなので、生録がいいな(誰も私には聞いてませんが)。アンやサマンサの歌うシーンでは、歌声と表情と佇まいが矛盾なくひとつになってスクリーンからビンビン放たれており、生録が最大限にいかされていましたよね。でも、ラッセル・クロウみたいなタイプはもしかして、別撮りにしたほうが良かったのでは?そのほうが、歌唱と演技のそれぞれに集中して実力をもっと発揮できたのかも。(あれが別撮りだったと言われても違和感ないだろうし)それから、歌っている人の顔にぐっと近寄るカメラワークには賛否両論あったようですが、私はあれで良かったと思います。ミュージカルの舞台では俳優の表情がそこまで見えないぶん歌で聞かせてくれますが、映画俳優の武器はまずは演技と表情ですから、歌で足りない部分はスクリーンいっぱいに広がった顔で補えばよいのです!ボイスレッスンを重ねた成果もあってか、映画俳優さん達は予想以上の歌声を披露してくれましたが、ミュージカル俳優のそれと比べると、やはり技術的には劣ります(舞台出身のサマンサは別ね)。全体的になんだか力みすぎ。声に自然な深みや余裕がない。マリウス役の坊ちゃん、声はいいけれど、ビブラートを唇で作っているみたいだし、ヒュー・ジャックマンは喉でビブラートをかけているように聞こえます。私は生でレミゼのミュージカルは観たことがないものの、大学生時代にオリジナル・ミュージカル版のサントラCDをよく聞いていたせいか、今回は司祭役だったコリン・ウィルキンソン氏の「Bring him home」が自動的に脳内再生されてしまうため、同曲のヒュー・ジャックマンの喉声には違和感がありました(前半の囚人役にはマッチした声質だったと思いうけど)。しかし、ヒューさんはもともとテナーではない上、この曲はウィルキンソン氏のために書かれた曲らしいですから、比べるのが酷というもの。なので、映画を観たけれど、ミュージカルはまだ未見という方には、ぜひオリジナルキャストの歌声を聴いてプロの歌い手達の歌を堪能して頂きたい。歌えなくては食べていけない人達なのですから当たり前ですが、第一声から違う!しかし、舞台は舞台、映画は映画、それでいいのです。「私より上手く歌える歌い手はたくさんいるでしょう。でも、私はファンティーヌとして生きて歌ったの。『夢破れて』は有名な曲だけれど、まるでこれまで歌われたことのない歌のように歌え、と監督に言われたわ」とアン・ハサウェイがインタビューで言っていました。確かに技術的にはアンよりうまく歌える歌手はいるでしょうが、こんなにも心に食い込み、鮮烈な印象を残す「夢破れて」はそうそうないでしょう。まさに歌声と演技の総合力勝ち!これは舞台ではなく、映画だからこそ観ることができる、一発撮りの奇跡なのです。

そして、ストーリー。実際には大河ドラマにもなりそうな長編小説を映画にしちゃったので、ずいぶん展開が駆け足でしたね。テーマも絞れるだけ絞っちゃって、中心テーマに関係ないエピソードやキャラクターはがしがし削っちゃったんでしょう。コゼットとマリウスが恋に落ちるところなんて、ロミジュリばりに速い!そして、あっという間に別離、いっという間に革命はコケ、うっという間に結婚し、えっという間にマリウスは真実を知り、おっという間にフィナーレ。最後にあっち側の世界に行った人達がみんな現われて、高らかに歌い、感動的な大円宴!と、ミュージカル映画的にはもっりもりに盛り上がって終わりましたが、冷静に考えると実際はあの人達はみ~んな死んじゃってるわけで、幽霊の大合唱の後に残された人達のこれからを思うと、現実的にはそんなにハッピーエンドじゃないだろう、っていう。コゼットとマリウスはジャン・バルジャンの自己犠牲的な愛を知り、彼のまいた種は次の世代に受け継がれていく・・・小規模な意味ではハッピー・エンドなんですけど。でも、フランスの民衆はあれから、どうなっちゃうのでしょうか?革命のために流された多くの血が、次世代で実を結ぶようには思えない。政府軍に破れ、仲間を失ったマリウスが、今度は綿密に計画を立てて、血を流すことなく地道に世直ししていくようには・・・思えない。少なくとも、映画ではそういう提示はなかったと思います。結婚式はお金かかってそうだったし、きっと金持ちのじいちゃんの家に出戻って、以前は嫌悪していたシステムに迎合しちゃったんでしょ。(あくまで、予想。原作読めって?)歴史的カタルシスを含めてかなり大風呂敷を広げちゃったけど、結局のところ映画版レ・ミゼラブルは、ジャン・バルジャンと彼が関わった人達の個人的な魂の軌道の物語。まぁ、いいお話ではあるんですがね。結局、究極のところ、法より愛、正義感より慈悲!ってテーマなんですかね。それは、クリスチャンにとっても普遍的なテーマであると思うんですけど、やはり律法と恵みのバランスがね、品性の形成には大事なんだという。

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ここからレミゼのテーマや倫理観について語りたかったところで終わっちゃったわけですが、半年前の私からのバトンタッチを受けて、もう少し熟成された(?)感想を語ってみましょう。この映画では、社会的にも人格的にもドン底から這い上がり、成功して人格者にもなったジャン・バルジャンが主人公で、法にあまりに厳格なジャペール警部は悪役、ってな配置になってますが、これはいかがなものでしょう?そんなに、ジャペールは嫌な奴なのか?フツーの映画の悪役より、悪い人じゃない気もするけど?彼の仕事上、そして彼の性分上、「罪人」を見逃すことはできなかった、そんな彼なりの正義感に突き動かされて生きていたのだと思います。多分、たった1片のパンを盗んだ「小さな」罪(そしてその優しい動機)に対して、重く苦しい19年間の服務という処罰の釣り合わない感のせいで、ジャン・バルジャンのほうが観客や読者の同情を買っているのかも。しかし、その不条理な境遇に魂まで荒んでしまったのか、19年後には本当の泥棒になりさがってしまった彼。そこを、救ったのがミリエル司祭。「罪人」を見逃す愛 vs 見逃さない正義、どちらが正しいのでしょうね~。正義とは?法とは?本当にその人を立ち直らせる愛とは?とか、色々考えちゃうのです。

私も教師という職業柄、ルールを破った生徒にはそれなりの処罰をしなきゃいけない身。特に全寮制の高校で勤めていた頃には、学校だけでなく寮やプライベートに関する多くのルールがありました。わたし的に変なの~!と思うルール(例えば、「男子生徒と女子生徒は3秒以上ハグしてはいけない」)の違反は、見逃していましたし。(←いいかげんな先生だな)だけど、ルール違反を見逃してもらって、さらに調子こいちゃう生徒ってのもいますしね。神様もね、愛もあるけど、正義も同じくらいあるわけで、アダムとイブの罪を見なかったことにする、という対処はされなかったですよね。神自ら身代わりになって、罰をうけてくださったんですから。これぞ愛、これぞ正義でしょう!司祭は、罪は見逃したけど、罰を被ったわけじゃないですからね~。結果論で言いますと、ジャン・バルジャンの場合、あそこで赦されて人生変わったからいいんですけど、あれからもし調子こいてたら、あの司祭は責められるでしょ。見逃す愛にはそれなりのリスクと責任がありまっせ。もしかして、司祭にはジャン・バルジャンの見える行動としての「罪」だけではなくて、慈愛を必要としている「罪人」、そして再生の可能性までもが見えていたのかも。対して、ジャペール警部は、ジャン・バルジャンの「罪」はしっかと見ていたけれど、彼の人格や更正の可能性には興味がなかったようですから。きちんと罪を償うことでこの人は更正する!という可能性まで見ている正義感なら違ったのかもしれませんが、「罪人は世界の果てまで、追いつめてやるぜ!」みたいな彼の正義感は独りよがりなものだったみたい。結局、罪を見逃すとか見逃さないとかの問題ではなく、「罪を責めて、人を責めるな」的なことなのかもしれませんね。その人をしっかり見て、対応の判断をする、と。まぁ、警察はいちいちそんなことしてられないでしょうけど、誰かが「罪」の対処だけでなく、「罪人」と向き合った対応をしていかないと、人は救われないですよね。神様はきっちり両方やってますけどね。さすが!

今は幼児教育に携わっている私ですが、何か悪いことをした子どもをただ叱るのではなく、そこに至った経緯や子どもの気持ちをしっかり聞いて、受け止めることを学ばされています。悪いことは悪いけど、その行動に至った気持ち(怒り、悲しみ、孤独、焦り、嫉妬 etc.)には共感する、という。そして、どういう行動をすれば、他人に気持ちが通じるのか、何がお互いにとって良い解決策になるのかを考えられるように助ける。結局、子どもの世界も大人の世界の縮小版みたいなもので、程度の違いこそあれ、人生は似たような学びのレベルアップの繰り返しなのだす。

・・・などと、行きに観た映画の感想を、帰りの飛行機で書いております。いつか、「ひとりレミゼ・メドレー」でもやって、私なりのフィナーレにしようかな。

「ナポレオン・ダイナマイト」に垣間見るアメリカ現地高校の世界

2010-05-03 | 今の葉
先週末は面白い映画を見ましたよ。題して「ナポレオン・ダイナマイト」(残念な邦題は「バス男」←「電車男」に便乗感ありすぎ)。アメリカ人友達数人とコメディー見ようってことになり、「これ、好き嫌いハッキリ分かれるからな…でも、僕的にはかなりお勧め!」と、男友達が選んだのが、コレだったんです。前から、レンタル屋で微妙なDVDカバーが気になりつつも選ばなかったけど、独りじゃなくて友達とバカウケしながら観るのが正解でした!結構、おバカ映画好きなんですよね。怪しい踊りで私のハートを鷲掴みにしてしまうところなんか、「少林サッカー」や「私の名前はキム・サムスン」(←映画じゃないけど)と共通しているんじゃないでしょうか。



アメリカ南部の片田舎にある高校の教職を離れてから、西海岸日本人&日系人コミュニティーにどっぷりつかって約一年、だいぶ私にも日本人感覚が戻ってきた、今日この頃。ところが、この映画を観ている2時間弱の間に、思いっきりアメリカ現地高校の世界に引き戻されました!留学時代も教員時代も含めて、「あった、あった!」と思い出すことだらけ。山だけでな~んにもないド田舎にボソッと高校がある景色。イケてる生徒グループとイケてない生徒グループの構図。バカにされてしまう哀しい移民(又は留学生)。生徒会役員立候補者のノリの軽すぎるスピーチ。目立たなかった子が突然輝きだす時に変わる空気。三つ穴ノート紙に鉛筆で落書きされた奇妙な生き物。なにげに、でも実は必死にパートナーをゲットしようと皆が頑張るパーティ。そしてその裏で三角に四角に五角に渦巻くドラマの数々・・・それから、映画の主人公のナポレオン君にどこか似ている元生徒や同級生を思い出したりして(ナポレオン君の方が強烈だけど)、妙に懐かしかった。他にも、どこにでもいそうで、でも唯一無二なキャラで溢れてました。この映画は“クールでもポピュラーでもない人達”にフォーカスしているのですが、ちょっとトホホな感じで、けれど強烈におかしく、それでもイジけずに堂々とソノ路線を突っ走る人達を、温泉卵のようにゆる~くヌル~ク応援しております。また、お金もかけず、CGも使わず、人気俳優も使わずに、かなりのアメリカ人の心を掴んだという、伝説の(?)不思議映画なのですよ。

映画を観た後の余韻が消えないうちに、「ナポレオン・ダイナマイト」のレビューや裏話などをインターネットで、ちょいリサーチ。最近は映画鑑賞前じゃなく、後でこういうモノを読んでいます。なるべく先入観なしで、観た方が楽しいんですよね。で、気に入った後から反芻した方が感想も深まるし。この「ナポレオン・ダイナマイト」、単なるおバカ映画だと、侮るなかれ。なかなか深いレビューもありました(内田氏のレビューもお勧め)。で、あるレビューに「Wikipediaのジョックは一読の価値あり」と、あったので読んでみました。これは映画の解説ではなく、典型的なアメリカ学校社会の解説で、学校社会のヒエラルキー(階層構造)のピラミッド図解なんかがあって、分かり易い。(ちなみに、英語のWikipediaのJockの解説よりも詳しい。 )この生徒階層ピラミッドの頂点に位置するのが「体育会系の男子生徒らとそれを補佐するチアリーダーの女子生徒らの属す階層」で、このような人気者集団をジョックス(Jocks)というそうな。それに対極をなすのが「ナード」、まぁオタクっぽい変わった趣味人、でしょうか。でも、そんな学生生活を終えて社会に出た元ナードに、リベラル文化人が多いそうです。へえ~。Nerdはよく聞いたけど、ジョックって言葉聞いたことなかったわ。その他いろいろな学生グループに冠された名称:プレッピー、ギーク、ゴス、EMO、なんかは普通に使われていましたね。なるほど、それまで漠然と捉えていたものが、スッキリわかった感じ。このピラミッド層についての予備知識を仕入れてから、留学すれば良かったなぁ。現地校教師時代にも必要だったかも?まぁ、知らずにいたから「この人はこれ」的ステレオタイプをせずに済んだのかもしれませんが。それに、そんなカタゴライズに関係なく、どの層にもイイ奴とイヤな奴はいるものですし。しかしWikipediaを更に読み進めていくと、衝撃の事実が!このジョック層の横暴に抗おうと「コロンバイン高校銃乱射事件」は起きたらしい。ヒエラルキーが腐ると、こんなことが起こり得るのですね、恐ろしい・・・

でも、「ナポレオン・ダイナマイト」の方は、銃も血もない、カスワードもない、Hなシーンもない、クリーンでウブなお気楽映画でしたから。(羽交い絞めとか呪いピニャータはあるけど)それもそのはず、ジャレッド・ヘス監督、主演のジョン・へダー、その他の主要俳優は敬虔なモルモン教徒、そんな彼等の意向だそうで。しかもジョン・へダーさんは、日本で2年間宣教師だったらしい。彼が日本語を披露する「俺たちフィギュアスケーター」も観たくなってきた・・・この人素顔は案外かっこいいのに、よくあのナポレオン君に化けたもんです。キャラが立ち過ぎていて、その独特な喋りと動きのマネパロディがYouTubeに溢れてます。こんなのばっかり見てたら、知らず知らずの内に私にもナポレオン節が伝染っていて、気がつくと腹圧高い"Gosh!"を連発。侵食されますので、要注意!(笑)それほどに濃~い主役のなりきり怪演で成り立ったともいえる映画なのに、当時無名だった彼はたった1,000ドルで出演したそうです。それから、だんだん可愛く見えてくるヒロインのデビー、どっかで見たと思ったら、「コリーナ、コリーナ!」ですごい可愛くて上手かった子役の人でした。ペドロ役の人もそれまで省エネ顔だったのに、最後に表情ひとつで美味しい所をかっさらって行ったな~。あと、「私、カワイイでしょ」的チアガール女子役で、ヒラリー・ダフの実姉も出ていました。それから、「エンドロール後を見逃すな!」という忠告をやたら目にしたので、もう一回DVDを入れてみると・・・ナポレオン君が再登場する場面の音楽で、ひとり大爆笑!この原曲入ったサントラCD持ってますから。こりゃ、尻尾までアンコのはいった鯛焼きのように、美味し過ぎた映画だわ。あくまで個人的に、ですけど。ですから、あくまで個人的にお勧めします・・・ナポレオン・ダイナマイト、変な奴ですけど、ちょっと友達になってみませんか?

遅ればせながら、コメント発見!

2010-04-10 | 今の葉
あんまりバカみたいな話なんで、恥ずかしいんですけど…この一年分くらいのコメントを見過ごしておりました。「この頃、コメントないよな~。」なんて、ちょっっっとだけイジけてたんですけど、実は私が公開していなかったから、という事がわかりました。(汗)コメント公開をず~~~っと待っていた皆さん、すみませんでした!「っていうか、このブログ自体、放っとかれてた感ないか?」って思ってるそこのあなた、そうです、更新もまばらで本当にすみませんっ!

ブログをされる方は知っていると思いますが、全然知らない人から18禁的怪しげコメントがついたりしますよね?それで去年の今頃、ブログ作成者が承認しなければ、公開されないようにセットしたのでした。と~こ~ろ~が~、その事をすっかり忘れ、「この頃、コメントないよな~。」なんてボヤいていたのです!(←バカ。)ある方のご指摘がなければ、ずーっと言の葉の木の根元に埋まっていたかもしれない可哀想なコメント達… さっそくお返事しましたので、これからも「言の葉ひらひら」を、どうぞよろしくお願いします!

程よい甘さの「ありあまる富」

2009-05-29 | 今の葉
久しぶりに椎名林檎名義の新曲が出ましたね。「ありあまる富」 さっそく聞いてみました。不覚にも涙してしまった。。。まぁ、最近涙もろいってのもあるんですが。いやあ、素直ないい曲じゃないですか。あんまり林檎ちゃんらしい色気や毒気はなく、ささやかな、でも器のでっかい応援歌、って感じです。私はクリスチャンなんで、この歌詞、けっこう聖書的にも受け取れるな~、とか思っちゃいました。「僕らが手にしている見えない富」は「彼ら」には見えない、そして奪えない天に積まれた宝なんだ、なんて風に考えると、ぴったり☆ まぁ、彼女にはそんな意図はないようですけどね。

でも、知ってました?林檎ちゃんは三浦綾子文学のファンなんだそうです。初めは「へぇ~!」って思いましたが、よく考えるとそんなに意外じゃないかも。綾子さんの療養時代、個性的で感性の鋭そうな人達がたくさん彼女の病室を訪れていたようですが、その中に林檎ちゃんのような少女がいても不思議じゃない気がするし、クリスチャンになる前の綾子さんや、「積み木の箱」のみどりにも、なんか雰囲気が似てるかも。そう、媚びないところなんか。…っていっても、綾子さんにも林檎ちゃんにも会ったことないんで、あくまで作品から伝わるイメージ同士比べっこなんですが。

さて、私は初期の頃の林檎ちゃんの曲しか知らないので、東京事変の曲もこれを機会にちょっと聴いてみました。「私生活」と「落日」なんか、とても良かった。(早速ヘビロテしてます。)結構しみじみ系が好きになってきてるのかなぁ。縁側でお茶、みたいな。(婆さん化?)私はあんまり音楽的なことはわからないのですが、相変らずいい詩を書きますね、彼女。こういう詩を読むと、自分は日本人で良かったな~、と思わされます。(しかし更に、歌詞を英語に訳そうと頑張ってる人達もいるんです!)

ありあまる富」の「価値は生命に従って付いてる」とか、
私生活」の「夕日も秋も日曜も沢山はない」とか、
正しい街」の「都会では冬の匂いも正しくない」とか、
カプチーノ」の「ミルクの白に茶色が負けている」とか、

一行でこう、刺さる言葉を、書いてくるわけですよ。そんじょそこらに転がってないフレーズ。羨ましい才能です、ほんと。

でも、デビュー当時から比べると、この10年で丸くなったというか、まろやかになったというか、肩の力がいい感じに抜けたみたいですね。お母さんになったしね。「ありあまる富」の Amazonのレビューでは、このような感想を書かれた人がいました。 

「新シングルのジャケットは彼女自身の「左右非対称な鎖骨」(中略)
おそらく彼女の「コンプレックスの象徴」と言えるべき写真です。(中略)
早く「何か完璧な」 ことを表現し残そうという焦燥感があった。と語っていました。(中略)
アルバムの曲順の対称な並び、 収録時間の数値がゾロ目や、分と秒が左右対称、等、
大変に芸が 細かかったのですが、では今になってこの非対称の「鎖骨の写真」
を使うという事は何を意味するのでしょうか?
それは「不完全肯定宣言」なのかもしれません。 (中略)
「彼女のこだわりが消えた」 と異論を唱える方がおられました、たしかにそうです。
ですが彼女 自身が、そんなこだわりをもう捨てようとしていると
考えてみては いかがでしょうか。」

…いや~、読みが深いですね。また、林檎ちゃんのあこがれの人、あの鈴木一朗選手との対談では、イチローに「スッパ!って感じだった林檎が、だいぶ甘さが出てきて食べやすくなってきたのかな。」と言われてましたが、上手く例えたもんです。(ってか、イチローの前ではジャム化してますが。)とにかく、「ありあまる富」、なかなか程よい甘さの良曲です。昔、椎名林檎が苦手だった人にも、ぜひ聞いて頂きたいな。

君の祈る言葉

2008-01-30 | 今の葉
(これ10月頃書き始めたのに、書き終えたのが今になってしまった。。。)

「言の葉なしなしの木はもう死んでしまったのではないのか?」と思われていたかもしれませんが、ちゃんと生きとります。根に栄養を蓄えつつ…なんてのは言い訳で、なかなか更新ができずにすみませんでした。。。この半年余りの間に、私の人生の中では大きな変動がありました。夏の間に卒業試験&卒業論文をクリアし、8月に大学院を卒業をしたも束の間、一週間後には新天地バージニアにて仕事を始め、この数ヶ月けっこう頑張っていたのです。ようやく、仕事にも慣れ、新しい土地や人々にも馴染んで、「これが日常。」モードで暮らせるようになりましたけどね。

さて、新しいお仕事は再び「英語教師」であります。しかも、ESLクラス(英語が母国語でない生徒に英語を教えるクラス)のみ担当だったはずが、普通の英語のクラスもひとマス持ち、さらに美術も教えるという事になりました。(←これは嬉しいおまけ)まぁ、小さなプライベートの学校じゃ、後から担当科目が増える・変わるのは日常茶飯事らしいっす。とにかく、いろいろ勉強になってますね~、特に高校英語。ほとんどアメリカ人高校生によって構成されているクラスなので、初めは「変な英語を使ってナメられてはあかんぞ!」と気を張っていたのですが、ネイティブ・アメリカンと張り合ってもしょうがないので、お互い気付いた部分を教え合い助け合おう!というスタンスでやっております。私もいまだ文法ミスとかスペルミスとかちょこちょこありますけど、あっちだってまだまだ15,6歳。文の書き方にも作品の読み方にも、ちょくちょくツッコミどころがありますからね。まぁ、楽しくやってます。

さて、現在わたしのESLクラスには、主に韓国語が母語の生徒とスペイン語が母語の生徒がおりまして、「授業中は英語しか使っちゃだめ!」と言っているのに、なかなかそうはいかないんだな、これが。私も高校で留学した頃、「日本語は使っちゃだめ!」って先生達によく言われたっけな。そりゃ、使えば使うほど英語は伸びるわけだけど(使い方にもよるが)、24/7ずーっと外国語で生きるのも大変。母語によってもたらされるアイディンティティーってのもあるし。母語と第二言語の使い分けや比重は、個人が責任もって意識的に決めないとね。だけど英語を学ぶ時間の中では、母語に逃げて欲しくない!と先生は思うわけです。(授業内容理解のために必要ならともかく、ほとんどおしゃべりと思われる…苦笑)

でも、お祈りは別。前は公立でしたが、ここはキリスト教の高校なんで、授業を始める前にいつもお祈りをするんですけど、時々生徒もお祈りします。これは母国語オッケー。「ジーザスはどの言語で彼らと語られる?…もちろん彼らと同じ言語で。」と書いたポスターを教室に貼ってるくらいだから。(これは大学院の教授からの卒業祝い☆)さて、この中で、非常に美しいお祈りをする生徒がいるんですよ。でも、スペイン語なんで、私には全くわかりませんけどね。(笑)でも、他の生徒に「君は僕の爺ちゃんみたいな祈りをするね。」とからかわれたり(「御在天の~父なる~恩神様~」みたいなのか?)、「彼の祈りって他の誰よりのも素敵♡」とか女の子に作文に書かれりと、何やらとっても良さげ・・・それからスペイン語がわかる他のティチャーも「奴の祈りは泣ける。」って言ってたし!ホントにわからんのが残念。でも、わからないなりにもじーっと聞いていると何だかとても敬虔で魂のこもった祈りに聞こえる…気がする。ちなみに彼は将来牧師になりたいらしい。君の祈る言葉、先生は楽しみに聴いています!それから将来も、楽しみにしています。

おまけ:言語ってバベルの塔でバラバラになっちゃったけど、竹の根っこみたいにどっかでつながっている気がする。言語学にも、普遍文法(人間の言語だということからくる共通性がある構造)って仮説がありますけど、こうやって一緒に祈ると、それをより感じます。遠い昔、私たちは一つの言葉で人とそして神と語り合っていたのだろうということを… バラバラになってしまった言語だけど、寄せ集めてみると、モザイクみたいな、元の絵とはまた違った美しさがあるのかもしれないわ。。。

瞼に太陽

2007-04-29 | 今の葉
あともう少しで今学期も終わりです!今は学期末恒例のレポート書きに追われておりますが、ブログネタ帳(←もちろん存在しています!)には、どんどんネタが書き込まれていますので、新しい葉やコメント返しは、後もう少しだけお待ち下さいませ。。。

本日は先ほど気分転換に太陽の光を瞼に浴びて、思い出したパッセージの引用にて終わらせて頂きます。(省エネ投稿で、すみません。)

「太陽がフロント・グラスから射しこんで、私を光の中に包んでいた。
目を閉じるとその光が私の瞼をあたためているのが感じられた。
太陽の光が長い道のりを辿ってこのささやかな惑星に到着し、
その力の一端を使って私の瞼をあたためてくれていることを思うと、
私は不思議な感動に打たれた。
宇宙の摂理は私の瞼ひとつないがしろにしてはいないのだ。」
(村上春樹著:世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド)

なんかちょっと、瞼に届く日の光の有難みが増す感じ。。。じゃないですか?前回のエントリーで小さな目の面積が受送するメッセージについて書いてましたが、閉じた瞼に届くメッセージっていうのも、あるんですねぇ。ちょっと幸せ。

目は口ほどにモノを言う -人&動物編-

2007-04-18 | 今の葉
今日は「言葉と文化」のクラスで、トコロ変われば意味も変わるボディ・ランゲージについて色々レクチャー受けたり、ディスカッションしたりしました。文字どおり頭から爪先まで。いやー国によって同じアクションが正反対の意味になったりする!のですね。ボディ・ランゲージは決して万国共通ではない...ので気をつけましょう。

頭から爪先まで全部はここに書けないので、「視線」について。
アメリカ人は人の目を見て話すけど、東洋人は特に目上の人と話す時、視線を下に向けるのが礼儀。そこで、バトルクリークESL教師時代にあった出来事をシェアしました。ある日本人の小学生が校長室に呼ばれて、目を下に向けていたら「ちゃんと私の目をみて話しなさい!聞く気がないの?」と校長先生にさらに怒られてしまった。そこにいた私が、「日本では、目を見る方が失礼なんですよ。」と後で彼女に伝えると、「でもここはアメリカなんだから、アメリカのボディ・ランゲージを身に着けさせなければ!」とのたまう。確かにそうなんだけど、そんなに簡単には身についたことは変えられない。ある意味、新しい言葉を学ぶより、ボディ・ランゲージを変える方が難しいだろう。。。条件反射だから、思考の通路を通らない。だからそれで怒るより、「先生の目を見て、話を聞けるかな?そうすると、聞いてくれてるって分かるから。」と諭した方がどんなにかいいだろう。・・・そんな話をしたのでした。

そして人ではないけれど、と前置きしてもうひとつ。
数週間前のある晴れた日、私はキャンパスの牧場に行きました。(去年、牛さん達に慰められたので、「一年前はどうもありがとうよ。」と言いに行ったのである。)で、牛さん達が横一列にずら~っと並んで餌を食んでいる前に立つと、彼等は私から視線を外しながら、余所余所しげにモグモグやっている。そこで私はあることを思いついた。。。彼等に背を向けて一分程経ってから、おもむろに振り返ってみたのだ。すると、どうだろう、私の背中は牛さん達の視線をバッチリと一身に受けていたじゃないの!おまけに、イキナリ振り返った私にかなりビビっていた。(この話、結構ウケたw)

この話をすると、アフリカ育ちのイギリス人教授は、「そうそう、ライオンに遭遇したら、目を真っ直ぐ見てはいけないのよ、威嚇することになるから。『はは~、動物の王者よ』と言う感じになるべく下を向いて、後ずさるのがいいのよ。」と教えてくれました。というわけで、もし皆さんもライオンに逢ったら、この事をどうか思い出してくださいね。...って逢わないよな、たぶん。

目は口ほどにモノを言う-考えてみれば、目の面積なんて、視野全体の面積の何万分の一ほどのものなのに、そこを見るか見ないかじゃ全然違うなー。そこに万感の思いや意思が現われたりしますからね。今日のあなたの目は、何を語ってますか

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コメント返し遅れてごめんなさいの欄

めぐんちゃん、
Body Languageは難しいよね。確かに男と女では違う。読み間違えたり、そして発し間違えたり。Body Language辞書が欲しいわ~。

マック師、
もう去年のCCから1年経ちましたね。はやいです。あれからも、マック師のブログを楽しみに読んでおります。日々の恵をユーモア交えて読みやすく綴られ、毎日更新されているのが素晴らしいです。 P.S.牛に会ったら、ぜひやってみてください。

大ちゃん、
始めまして、とか言ってるけど実は前にも会ってたし。しかし、「なんかのトピックから面白い出来事の話しへのもっていき方」が上手いのは大ちゃんでしょう。CCではかなり笑わせてもらいました。ありがとう。「自分の人生の出来事や思い出を頭の中でよく振り返って暇を潰していました」って暇人?いや、その間に思い出のeditingしているんだろうねー。それも、神様が実は編集してくれてたりして、なんかかなりいい人生に思えてきたりするよね。

バレンタイン☆デーに見る文化の違い PART II

2007-02-16 | 今の葉
私の教える英語クラスの約80%は韓国人なので、みんなにブラック・デーを祝ったことがあるか訊いてみました!すると、殆んどの生徒がブラック・デー経験者。「じゃあ、今年はVデーやWデーの○×関係なく、ブラック・デーにジャージャー麺を食べましょう!」と大盛り上がりでした。楽しみだな~。(え、それまで私は何もあげず、何ももらわないつもりかって?それは内緒!)

授業後に残っていた生徒達に、他の月の14日には何を祝うのかと訊いてみたところ、幾つかは教えてもらいましたが全部は判らないとのこと。ところが、今日わざわざメールで全部教えてくれた生徒がいました!(MHありがとう☆)というわけで、言の葉ひらひらにて全月行事公開~!

1月14日 Dairy Day (日記の日:恋人同士が日記に花を添えてあげる日)
2月14日 Valentine Day (皆様おなじみバレンタイン・デー)
3月14日 White Day (ホワイト・デー:♂が♀にお返し)
4月14日 Black Day (ブラック・デー:何ももらえなかった人&恋人いない人がジャージャー麺を食べる)
5月14日 Rose Day/Yellow Day (バラの日:恋人同士がバラをあげ合う日)(素敵!)(または黄色の日:ブラック・デーにジャージャー麺を食べそびれた人がカレーを食べる日)(両方食べちゃだめですかね...)
6月14日 Kiss Day (キスの日)(この日だけかい。)
7月14日 Silver Day (銀の日:将来を誓って銀の指輪をあげる日)
8月14日 Music Day/Green Day(音楽の日:恋愛の曲が入っているCDをあげる日)(または緑の日:公園を2人で散歩する日)
9月14日 Photo Day (写真の日:恋人同士が写真を撮る日)
10月14日 Wine Day (写真の日:恋人同士がワインを飲む日)
11月14日 Movie Day/Hug Day (映画の日:恋人同士が映画に行く日)(抱擁の日:恋人同士がハグする日)
12月14日 Money Day (お金の日:恋人同士が惜しみなく相手にお金を使う日)(たまにはいいですよね♪)

なぜか殆んどが恋人同士のイベント・デーなんですねぇ。なんか毎月忙しいなぁ。どれも普通に恋人同士がするコトだけど、「今日はコレの日!」って決められると、そういう気分じゃない日は...うーん。イベントに踊らされず、普通に毎日を楽しめばよいのでは?でも、こういう○○デーをきっかけに2人の絆が強まったり、楽しい思い出が出来たり、仲直りできたらいいかな?さて、これらの○○デーに学ぶこと:
結論1:韓国人はロマンチスト&イベント好き。
結論2:恋人のいない人達のイベントは常に食べ物がらみである。
結論3:全部の日が食べ物関連であると早合点した私は食いしん坊。
しかし結論2と結論3の間に関連はあるのか・・・ないと思いたい、ですね。

今日は英語版のWikipediaでみてみたんですが、他文化におけるバレンタイン・デーの説明欄に、日本の義理チョコ、友チョコ、本命チョコの紹介がされていました。もちろん韓国のブラック・デーも。すごいぞ、Wikipedia。(回し者ではありません。)でも、ここでは全月の祝い事は書いてありませんでしたので、生徒のEメールとこれらサイトを参考にいたしました。 ...って、こんなリサーチに精を出している場合じゃなくて、他にも文化の違いについてのリサーチ・プロジェクトがあるんですけどね。。。 その紹介も、いつかここでできたらいいですねぇ。

バレンタイン☆デーに見る文化の違い

2007-02-14 | 今の葉
御来版して下さった皆さん、ハッピー・バレンタイン! 去年も書きましたが、アメリカでは2月14日は「恋:女→男」表現に限らず、「人類愛:女←→女←→男←→男」表現に溢れる日なんです。さて、本日のネタは、アメリカ、日本、そして韓国のバレンタイン☆デーに見る文化の違いについて。

もともとバレンタインは殉教した聖ヴァレンティヌスというキリスト教の聖人に由来する日だったらしいのですが、いつしか世界各地で男女が愛を叫ぶ、じゃなかった、伝え合う日になったみたいですね。かなり商業的な匂いもしますが。。。

さて、アメリカでは男も女もこの日いっぺんに愛を表現してしまうため、ホワイト・デーなるものは存在しませーん。アメリカ人のクラスメイトに日本のホワイト・デーの話をしたら、かなり面白がっていました。ところがそこで話を聞いていた教授が一言、「韓国にはブラック・デーがあるらしいよ。」しかし、何をする日なのかは判らず。そこで、後で詳しく韓国人の生徒にブラック・デーについて訊いてみたところ、「ブラック・デーとは4月14日に、それまでVデーにもWデーにもな~んにももらえなかった可哀想な人達が集まって、ブラック・ヌードル(ジャージャー麺)を食べ、慰め合う日だ。」と教えてもらった。しかも、このブログのエントリーを書くために見たWikipediaによれば、韓国では4月以降も毎月14日に何かの日を設定したものが流行している...らしい。激しく商業的な匂いがするけれども、楽しそうではある。しかも、毎月14日に美味しそうな食べ物が絡むならば、私的には大OKである。

と、口調が何故か変わってきたのは気にしないで、これに見る文化の違いについての考察に移りましょう☆ アメリカでは老若男女・関係を問わず、一日で愛を語るのに比べ、日本と韓国では、まず「女→男」的アプローチがあり、そして一ヶ月のタイム・ラグをおいて、「男→女」的リスポンスがある。このタメの期間に東洋的奥ゆかしさを私は見るのである。(←こじつけっぽい?)さらに韓国のブラック・デーは何を意味するのか!?これは、きっと韓国国民がジャージャー麺が好きだから・・・って違うか。慰め合うのが好きなのか? 密かに中華料理店での出会いをセカンドチャンスにするべく、敗者復活戦が水面下で行われているのかぁ?と、私の興味は尽きないのでありました。が、文化的推測はできず。わかる人、誰か教えてください!!

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(コメントありがとうございます☆の欄)

2度めぐんちゃん、
ブラック・デーのQualificationから外れてしまうのか!?←外れてない外れてない!ジャージャー麺食べましょ♪それにしても、ちゃんとバイスタ来た人、立派。ところで、彼氏OR彼女同伴はダメだったのかな?

marimaさん、
コメント嬉しいです!marimaさんは韓国の文化、特に食文化には詳しそうですよね。「チャパゲティ」聞いたことなかったです。ジャージャー麺は日本育ちの韓国人の友人が作ってくれましたが、麺がないのでスパゲティ麺で代用しました。ブラック・デーには生徒さん達とコリアン・レストランに行くか、家で食べるか相談しています。どっちにしても本格的なジャージャー麺が食べられそうで楽しみ!です。そうかぁ、「欲しいモノ+ジュセヨ」で「○○下さい」になるのですね。さっそく使ってみます。ありがとうございましたー!

新しい年、新しい折り筋

2007-01-26 | 今の葉


明けましておめでとうございます。(←遅過ぎます?)でも、年が明けてから初めての葉だし、ちゃんと挨拶したい気分。という訳で、「今年もよろしくお願いします!」いや~、お久しぶりです。「ブログはどうしたんですか?」なんて声もあったりしたんですが、御心配をかけていたら、すいません。特に何かあった、という訳でもないのですが。。。毎度毎度の学期末追い込み & 冬休みボケで、筆無精してしまったようです。ネタ切れ、っていうよりネタ溜まり過ぎ。まぁ、少しづつ葉にしてここに付けていきたいと思います。

さて、今回は年の初めなので、「今年の抱負」からいきたいと思います!(「今年の抱負なんて、もうタイム・オーバー!」とは言わないで下さいね。)(「それより、去年の抱負はどうなったんですか?」とも訊かないで下さいね。。。)今年は新しい折り筋をつける年にします。え、新しい折り筋って何、って?実は、今年の初めに、ある方とアートにまつわる話を色々としたのですが、「折り紙って人生に似てませんか?」って話になったんですね。(←何かと人生をモノに例えるのが好きな私)折り紙って、時々せっかく折った所を開いて、折り直ししなきゃいけない事があるじゃあないですか。谷折りだったところを山折りにして、とか。でも、あらかじめ折っておいた筋があるから、次のステップが楽に出来るようになってる。もし、筋がつけていなかったら、いきなり次の折り方にいくのはちょっと無理でしょう。で、人生においても似たようなことがあるのかなぁ、と。リセット、って「三歩戻れ」、いや「振出しに戻れ」みたいな気分だけど、人生は双六より折り紙に近いのかも。折り紙をいったん開いて、違う折り方をしなきゃいけないかもしれない、「えー、何で?」って思うけど、最初に折った筋に意味がないってことじゃないんですね。。。

その話をしてから最近、こう思いました。去年はある意味、今までつけた折り紙をいったん開いて、折り筋を見直して、また違う形に折り直していた、そんな一年だったと思うのです。でも、今年は新しい折り筋をつける年。天のアーティストの指示を仰ぎつつ、きっちり折っていきたいものです。たとえ間違えた折り筋をつけてしまっても、それさえも意味あるものに変えて下さるのでしょうから...

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(コメントコメント嬉しいな♪の欄)

はちこさん、
今年もよろしくお願いいたしま~す。さて、やはり同じような事を考える人はいるのですねぇ。「神様はすべてのことを相働かせて益としてくださる」それをちゃんと次世代に伝えているという。。。さすがは牧師夫人!そういえば、はちこさんのブログの「Procrastinationはいかんちや」では、かな~り親近感を覚えてしまいました。。。

absolute surrenderさん、
はじめまして、コメントありがとうございます。確かに、自分で全部やらなきゃいけないと辛いものがあるけど、「足跡」の詩のように、きっと神様が手を添えて下さったり、折って下さったりするのでしょうね。。。absolute surrender、いいハンドルネームですね。よいお年を!

めぐんちゃん、
そうそう!しわがあるほど味わいがあるよ、きっと。人生も、折り紙も。神様がそうして下さるように、自分や人の折り紙についた全ての折り筋を受け入れることができたらいいね。。。

場の空気が読めるオンナ

2006-10-24 | 今の葉
最近、「場の空気が読める男」という記事を読んで考えさせられました。このブログでも最近、「言葉が伝えられないもの」をテーマに幾つかをつけておりましたので、シンクロってるな!と思い、コレについてひとつ書いてみることにいたしました。

この記事は、神戸女学院大学の内田樹教授(前にもご紹介しましたが、この方のブログは面白い♪)の言葉を主体に書かれたものです。彼のブログでも「場の空気が読める男」がどうして発生したかについて少し言及しておりましたが。(10月11日分)さてさて、ここで内田教授は、
「空気が読めない人は“コミュニケーション感度”が悪いんです。会話において言葉が伝える情報は全体の10%程度で、あとの90%(←60%より高いぞ!)の情報は非言語的なものを介して伝わります。表情や姿勢や音調が、言葉をどう解釈すべきかを教えてくれる。でも、その非言語的なシグナルを読めない人が増えています。」
と前置きしてから、3つのコミュニケーション感度を高める方法を紹介しています。

1) 自然をジッと見つめる
2) 集団で動く
3) 育児を体験する

これらの3つの活動をしたグループとしていないグループとで、コミュニケーション感度の比較をした実験データが一緒に提示されているわけじゃないので、どこまで検証されているのかわかりませんが...発想というか着眼点としては面白いと思いました。

自然を見つめる、という行為について、内田教授はこう言っています。
「たとえば、流れる雲を見つめる。雲のかたちが変化して見えるのは、“もうそこにはないもの”の残像が見え、“まだそこにはないもの”が予見されるからです。そうでなければ、『雲のかたちが変化した』ということに気づくはずがない。・・・会話でも同じこと。“もう聞こえない言葉”がまだ残響し、“まだ聞こえない言葉”が先取りされているからこそ私たちは言葉の意味がわかる。」
いやぁー、内田節全開ですなぁ。随分と詩的な発想じゃありませんか。私は好きですよ!しかし、な~んにも考えずにただボーッと雲を眺めているだけで、コミュニケーション上達に結びつくのかは、いささか疑問ですが。。。でも、意識的に雲を見ながら会話をイメージしたり、会話を聞きながら雲をイメージすると楽しいかも。(っていうか、な~んにも考えずにただボーッと雲を眺めているだけでも楽しいけど♪)

集団で動く、については、
「大人だって集団で動きが合い、呼吸が合えば身体レベルである種の一体感を得ることができます。武道の型稽古やダンスなども同じです。他者の身体と細胞レベルでの流れの一致感が経験されたら、もう言葉なんか要りません」
と言っています。確かに言葉を超えて息を合わせなければできないものってありますよねぇ、踊りとか演奏とか。漫才だって言葉以上に空気の掛け合い&噛み合いの芸術かも。合わなきゃ、サム~イ!

最後の「育児を体験する」については、
「赤ちゃんは言葉をまだ知りません。だから大人は赤ちゃんの発する意味不明のノイズを意味のあるシグナルに変換して、“赤ちゃんが言いたいこと”を聴き取らなければならない。わずかな表情の変化や息づかいや、こちらからかける言葉への反応をたよりにして、コミュニケーションを立ち上げなければならない。これほどすぐれたコミュニケーション能力の開発訓練はありません」
・・・らしいです。これもシンクロしてるなぁ。最近、「赤ちゃんになったつもりで書いてみるべ!」と思い立ち、まだ言葉を知らない赤ん坊の気持ちをうたった詩を書いてみたんですよね。(「まだ言葉を知らない赤ちゃんに詩が書けるはずないじゃん!」と言われたら、それまでなんですけど。。。)それを書きながら、大人にとっては「意味不明のノイズ」でも、赤ちゃんの発するそれは言葉より意味度の濃い音声なんじゃないか?と思いました。

「場の空気が読める男」ならぬ、「場の空気が読めるオンナ」目指してみようかな。実は私、あんまり読めていない気がするので。。。

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コメント返し☆欄

めぐんちゃん、
そう、私も雲の話がなんか一番好きだなー。
内田教授は神戸女学院大学文学部総合文化学科教授、で専門分野はフランス現代思想、ユダヤ人論、映画論、武道論などなど。詳しくはコチラをどうぞ。最近のブログでは風邪をひいて「のだめカンタービレ」を全巻一気読みしたことが記してあり、さらに親近感を覚える今日この頃であります。

増田さんへ、
御来版&コメントありがとうございます!「言葉」って本来何かを伝えるためにあるはずなのに、「壁」になっちゃったりもするんですよね。「言葉の壁」って普通は違う言語を話す人達の間にある障害について使われる言葉ですが、同じ言語を話していたとしても、壁を作ることは可能だし。非言語シグナルの共有で、その壁は壊れるかもしれないし、壁を溶かすことのできる言葉だってあるんじゃないかと思います。壁の向こうを知りたいという熱意が言葉と言葉でないものを通して、壁を溶かしてくれるのかも。

コエリコはんへ、
「話をしなくても雰囲気だけで相手を傷つけることもできれば、大切にすることもできるよね。」本当にそうだよねぇ。やっぱり心の中にあるものが出てくる。それが「場」の空気をつくる。場の空気を読めるだけじゃなく、いい空気をつくりたいね~。

私の精神年齢 (あくまで推定)

2006-10-15 | 今の葉
シュウ君がやっていたので、私も精神年齢鑑定やってみました!こんなに若いかどうか知りませんが、結構当たっているような気もします。。。ちょっと大げさでしょ、とは思うけど。なんか「大人の年季というものは微塵も感じ取れない」らしい。。。「まだまだ保護者が必要」らしい。。。大丈夫なのか、私!? でもちゃんと大人であり常識もあるらしい。ほっ。幼稚度が高すぎる気もしますが!?それにお友達になれそうな人が「サザエさん」ってどうなんでしょう。あんまり似たタイプの人と親友にはならない気がしますけど。ともかく、日々成長せねばなぁ。以下、そのサイトの診断のコピーです。

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あなたの精神年齢は25歳です
あなたの精神年齢は、大人になりたてです。若々しさがあり、時には子供っぽくなることもありますが、世間一般に認められる程の常識を持ち合わせています。ただ、大人の年季というものは微塵も感じ取れません。

実際の年齢との差-?歳
あなたは実際の年齢より少し幼稚です。周りの人に頼ってばかりいませんか?これからはもう少し大人になる努力をしましょう。

幼稚度56%
あなたは小学校低学年並みの幼稚さを持っています。まだまだ保護者が必要です。友達とケンカしても泣かないくらいの勇気を持ちましょう。

大人度50%
あなたはなかなかの大人です。冷静さもあり、精神的も発達してきています。

ご老人度28%
あなたからは少し『おじいちゃんっ気』が感じられます。このままでは確実におじいちゃん色に染まってゆくでしょう。

あなたとお友達になれそうな人
サザエさん

総合的な精神年齢を詳しく見てみると、幼稚度、大人度、ご老人度にわけることができます。例えば、幼稚度と大人度がともに高かったりすることがあります。これは、幼さも持ち合わせていてしかも大人っぽい一面もある人、ということになります。精神年齢は年寄りなのに幼稚度が高いということもあります。これは頑固でワガママなおじいちゃんに当てはまります。大人度は高ければ高いほどよく、逆にご老人度は低ければ低いほどよく、幼稚度は15%前後なのが、活発で頼りになる理想的な人です。また、『お友達になれそうな人』とは、精神年齢や幼稚度などがあなたと似ている人です。これを期に、自分を見直してみてはいかがでしょうか?

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(コメントにコメント!欄)

はちこさん、
やってみたんですねー!でもちょっとコレ、信憑性薄いですよねぇ。はちこさんには「威厳が感じられ」ますけど、「若者と話が合わな」くないですよ~。「ご老人度」もなんでこんなに高いんでしょう!?私の知っているはちこさんはこんな%では表わせませんっ!

めぐんちゃん、
そういえば、ちびまる子ちゃんはオコチャマなのにかなりご老人度高そうに思われる。。。でも、めぐんちゃんはそんなにご老人ではありませぬ。

栗よ、さらば。

2006-10-10 | 今の葉
Tamiちゃん、
そうなんよー、私もびっクリしたよぉ。(おやじギャク?)いやああ、ルーミーとは仲良く楽しくやってるけど、Tamiちゃんだって旦那様と仲良しでいいさぁ!

たへちゃん!
わぉ、来てくれたんだね!そしてすぐに初☆コメ、ありがとー!元気?!うん、ちょっと引っ越したけど、まだ二人一緒だからね。まだアンドリュースだよ。また遊びに来てねー。

そうそう、リスニモ負ケズ!と思って、また栗拾いに行ったら「もう取っちゃだめ」って言われてしまった。。。葡萄も林檎も許可もらったのに、やっぱ勝手に拾うのはだめなのね。ああ、リス達がうらやまし~い!

めぐんちゃん、
私も天津甘栗好きだよ~。昔飼ってた犬も天津甘栗好きで、食べて皮だけペッペッってしてたっけ。今度は焼き栗にしよ!とか考えてたのに、取り付かれたように皮をぜーんぶ剥いた後に思い出しちゃったから、遅かったわ。。。ざんねーん!

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(追加)
yoko、
こういうのを拡大解釈というのですね。(都合いい、ともいう!?)以後、気をつけまーす。yokoが許可取り専務で、私が収穫人でもよいよ!

めぐんちゃん、
注意された後見てたら、その家の男の子が栗拾いを始めたよ!「うちがちゃんと収穫してます」ってカンジ。でも、私は道に落ちていたのしか拾ってませんよー。

コエリコさん、
本当にこっちにも遊びに来て欲しいなぁー。前より広いから、夫婦でも泊まれるよ!寒くなってきたから、ルーミーの煮物&鍋物が美味しいでーす。(私の料理にはあまり季節感がない。。。)

食欲の秋、読書の秋、そして芸術の秋

2006-10-08 | 今の葉


なんか引っ越してから自家自賛ばかりなんですけど… まぁ、ここに導いて下さった神様に感謝、ってことで、またお家ノロケさせて下さいな。

この家で過ごす夏はスバラシイ!そう思っていましたが、秋もまたまたいい感じ。冬がちょっとコワイけど、(雪に閉じ込められそう)きっと冬は冬なりに素敵かも☆ この家の素敵な大家さんはフラワー・ガーデンと野菜畑を熱心に育てておられます。おかげ様で私達はこの夏、ルーミーの活けるプリティなとルーミーの調理するフレッシュな野菜を楽しみました。(もちろん採ってもいいとの許可つき)そうそう、家と大家さんだけでなく、ルーミーにも恵まれていますよねぇ。

それから食欲の秋。最近この辺りを友達と土曜日の午後なんかに散歩するのですが、家の先は葡萄畑や林檎畑の広がるのどかな田舎道なんです。昨日は甘~い香りに誘われて、散歩がてらみんなで葡萄狩り。(もちろん「ちょっと頂いていいですか?」と許可もらい済み)それから、仲間の一人が栗の木を発見!そこで落ちている栗を拾って(これは許可もらってないけど、リスも拾ってたし)夜はみんなで栗御飯をぱくぱく。あ~、栗御飯なんて何年振りだろう。これからしばらくの間、リスとkuriks の栗拾い争奪戦が繰り広げられることでありましょう。。。

次は読書の秋。というか、溜まりまくった宿題の頁を読破せねばならないという状態。なのに、ついつい関係ない本に手が伸びてしまうの…のも秋のせいにしておこうかな?

そして最後に芸術の秋。缶詰娘のプロジェクトの締め切りが近づいているため、創作活動にも勤しんでおります。静かな環境なので楽器の練習にも集中できる、とはルーミーの弁、またアートするにももってこいですね。

そんな秋の恵みを我が家で満喫しております。夏とはまた違った充実感です。みなさんはこの秋、いかがお過ごしですか? 

P.S. 昨晩は「中秋の名月」だったらしく、満月もひときわ美しく輝いておりました。月見団子がなかったのが残念!?