さてさて、サラ&フィルに大興奮してから、約一ヶ月たちました。その後、浮気症な私は(いや、多趣味と呼んでください)、オペラやったり、ゴスペル演歌やったりしてたんですが、実はサラ&フィルのWordplayの後、すぐにスポークン・ワード仕様の詩を書き上げていたんでやんす。正確には、以前かいた詩を、スポークン・ワード向けに書き直したのです。と、いうのもスポークン・ワードの厳密な定義が「人前で披露することを想定して書いた詩を、人前で披露すること」だと知ったので。つまり、前回のわたくしの"Hello, Earth"は、正確にはスポークン・ワード・ポエトリーではなかったんですね~。ただ元々読まれることを想定して書いた詩に、手振りをつけて実演しただけだったんです。でも、一応最も実演向きの詩を選んだんだし、まぁいっか。
<前回の出し物>
というわけで、けっこう近間の喫茶店で毎週行われているオープン・マイクに出演してきました!このRed Rockというカフェは、このベイエリアで1番良質なオープン・マイクをやる店という評もあり、なかなかの芸達者な強者揃いが出演するところを、なかなか目の高いお客さん達がスケッチなんぞしたりして、なかなかいい雰囲気作りをするスタッフさん達が温かく仕切ってくれる、というベイエリアのクリスチャン芸人と呼ばれている(?)私には願ってもない楽しい場所なんですよ。毎週行けたらいいんですけど、お仕事があるからそうもいかない、ですね。(Facebookやっている方は、ここでRed Rockでのこれまでの演目が見れますよ。)
今晩は、誰でも参加OKなオープン・マイクの後のfeatured musicianがちょっと有名な人だったらしく、お客さんが多かったんですよね。で、ひっさしぶりに頭真っ白状態になりましたよ、詩の途中で!次が出てこなくなって、数行ふっ飛んだ先に着地しました。危ない、危ない。ホント、歌うより緊張しましたよ。まぁ、まだ場馴れしてないせいだろうけど、ナメると恐いぜ、スポークン・ワード・ポエトリー、ですわよ、奥様。というわけで、ちょっと残念な感じに終わった私のスポークン・ワード・ポエトリー第二弾(厳密には第一弾)だったのですが、数人のお客さんは「あなたの詩、良かったわよ~」と後から言ってくださいました。感謝、感謝。「でも、数箇所とばしちゃったんですよ、頭真っ白になっちゃって」と暴露したら、「あ~、あの空白の時間ね・・・でも、意味のある間のようにも、とれたわよ」とフォローしてくださいました。(でも、後で動画みたら、やっぱスコーンと抜けてる感じでしたけど。汗)それに、所々言葉につまってたし、ステージプレゼンスもまだまだ固い。ってか、前置き長過ぎ。いろいろと改善の余地ありです。スポークン・ワード修行するぞ!サラ・ケイは一日にして成らず。さて、今晩詠んだ詩のとりあえずの日本語訳をずっと下の方に載せたので、興味のある方はどうぞ読んでみてください。元が英語の詩なので、か~なり違和感ありますけど。(自作でも、詩を訳すって難しい!)それに、読まれることを前提に書く詩はもっと余白があるんですが、聴かれることを前提に書く詩は言葉数が増えちゃって、こうして載せると字ヅラが長過ぎてウザって感じなんですけど、それでもよろしければ。(いや、単に私がwordyなだけか?)
<本日の出し物>
というわけで、聴衆が自分の目の前にいることを想定して書く詩は、印刷された頁を読む読者を想定して書く詩とは、ずいぶん変わったものになるようです、元々同じ題材を使って書いていても。読み手を想像しながら書くブログ仕様の文章は普通の文と違う!っていう実感もありますが、さらに受け取る人と同じ空間にいることを想像すると、より受け手に寄り添った感じになるんですかね~。しかし、目の前に生きた人がいて、自分の表現するものをちゃんと観て聴いてくれるって、本当にすごい有難いことです。恐いことでもあるけど。そして、その人達が目の前にいるからこそ引き出されるものって、確実にあるんです。ちゃんと向き合えば向き合うほど、それはばっちり受け取って頂けるようです。歌にしても、この数年はなるべく暗譜して臨んでいます(コーラスではしてないけど、ソロの時は)。やっぱり、100%視線を客席に注げないと、譜面に視線が戻るたびに繋がりが途切れちゃいますからね。しっかり聴いてくださっている人の姿はやっぱり目に入ってくるし、この箇所はあの人のほう向いて歌おう!みたいなのもでてくるし、向くべき人のほうに向かせてくださる神様の力を感じたこともあります。なので、やっぱりイイ発信するには、受信力も高めないと・・・ね。これは、このブログでも、教師としても、クリスチャンとしても、恋愛でも、私が反省しきりな部分なんですけど、出すだけ出して相手側の半世界をちゃんと見てないだろ!みたいな。(このブログにコメントくださった方々、ちゃんとお返事しますね。)今宵詠んだ詩じゃないけど、向き合っている相手のページの厚みと、語られない言葉と、隠れた傷とを察することができたら、と思う今日この頃です。
*********************************************
詩を刷るということ
「君達が形作っているのは、版木だけじゃない、
その周りの空気もだ」
と、先生が版画のクラスで言ったっけ
ノミはきっぱりとした意志を持って
正の空間を、負の空間から
掘り分ける
スポークン・ワード・ポエトリーも、それに似てますね
私が形作るのは、語る言葉だけじゃない、
秘する言葉もだから
ぺンはきっぱりとした意志を持って
語る言葉を、秘する言葉から
書き分ける
・・・例えばぁ、
今日の朝何食べた、とか
これまで付き合った男は何人、とか
何回 細胞検査を受けたか、とか
ここに来る前にかかってきた電話の内容、とか
語る言葉同様、秘する言葉にも
はっきりとした理由があるもんで
・・・例えばぁ、
全然関係ないから、とか
個人的内容すぎる、とか
語るには辛すぎる、とか
どうやって言葉にしたらいいか まだわかんない、とか
黙って聞き手に委ねたほうがいい、とか
版画のクラスに戻ります
版木を彫り終わったら
版画を刷る準備は万端
彫られた版木の労をねぎらうべく
たっぷり塗るインク
掘り残されたジューシーな面は
バージン・ペーパーにくちづけして
情熱の跡を残し、
彫られた部分は距離を置きつつ
その彫りの深さを紙の白さに託す
詩を刷ることも同じです
ここにいる皆さんは紙
私は版木
もっと正確に言えば、
あなたが私に委ねているこの瞬間が、バージン・ペーパー
だって、人生はまだ誰も触れたことのない瞬間を重ねた紙束
私が用意してきた詩、
ここに書かれた台詞が、彫った版木
私の声、動き、そして存在はインク
私の感情、そしてエネルギーが、その色
あなたの存在と私の存在が
ここでこうして、出会う
たった一度だけ、こんな風に
再び、版画のクラスです
「紙上の版画だけじゃなく、
その向こう側の版木や血も見通しなさい」
と、美術の先生が言ったっけ
そうそう、嫌なトゲがささったり、
うっかり手を切ったこともあった
ある子は掌をザックリ切ってしまった
でも、クラスの作品展を見るだけでは
一番多くの傷を持って作られた作品がどれだか
一番深い傷を持って作られた作品がどれだか
なんてわからない
皆さんの前に立つ詩人の傷も、同じように隠されているんです
・・・例えばぁ、
私も離婚した親の話だとか
死んだ元カレの話だとか
辞めた仕事の話だなんてしないし
完璧な比喩などない
これも、そう
あなたは真っ白な紙ではなく、
人生と傷を背負った生身の人間
あなたも私も今日をここまで生きてきて、
これまでの人生を生きてきた
あなたのヒストーリーと私のストーリーが
ここでこうして、出会う
たった一度だけ、こんな風に
正直、こんな風に詩を刷るのは
生身が晒されるようで、キツい
ただ紙とかブログとかに詩を載せるのとは全然違う
私という版木の体は
聞き手のあなたという生身の体と人生と傷に向かい合っている
あなたの傷は、私の傷より深いかもしれない
あなたの秘した言葉は、私の秘した言葉より大きいかもしれない
あなたの紙束は、私の版木より厚いかもしれない
あなたという紙束の聞き手は
吸収力も観察力もあって
私のインクをじっくり吸い取る
そうして、私が秘した言葉も隠した傷もあなたの内に浸透し、
誰も知らないあなたの深い所にあるそれと
共鳴するのかもしれない
今、私は脆く、恐れ多い気持ちで
皆さんの前に立っています
あなたが委ねてくれた貴重なひと時というページに
相応しいくちずけの跡を
そのバージン・ペーパーに残せたことを
願いながら
<前回の出し物>
というわけで、けっこう近間の喫茶店で毎週行われているオープン・マイクに出演してきました!このRed Rockというカフェは、このベイエリアで1番良質なオープン・マイクをやる店という評もあり、なかなかの芸達者な強者揃いが出演するところを、なかなか目の高いお客さん達がスケッチなんぞしたりして、なかなかいい雰囲気作りをするスタッフさん達が温かく仕切ってくれる、というベイエリアのクリスチャン芸人と呼ばれている(?)私には願ってもない楽しい場所なんですよ。毎週行けたらいいんですけど、お仕事があるからそうもいかない、ですね。(Facebookやっている方は、ここでRed Rockでのこれまでの演目が見れますよ。)
今晩は、誰でも参加OKなオープン・マイクの後のfeatured musicianがちょっと有名な人だったらしく、お客さんが多かったんですよね。で、ひっさしぶりに頭真っ白状態になりましたよ、詩の途中で!次が出てこなくなって、数行ふっ飛んだ先に着地しました。危ない、危ない。ホント、歌うより緊張しましたよ。まぁ、まだ場馴れしてないせいだろうけど、ナメると恐いぜ、スポークン・ワード・ポエトリー、ですわよ、奥様。というわけで、ちょっと残念な感じに終わった私のスポークン・ワード・ポエトリー第二弾(厳密には第一弾)だったのですが、数人のお客さんは「あなたの詩、良かったわよ~」と後から言ってくださいました。感謝、感謝。「でも、数箇所とばしちゃったんですよ、頭真っ白になっちゃって」と暴露したら、「あ~、あの空白の時間ね・・・でも、意味のある間のようにも、とれたわよ」とフォローしてくださいました。(でも、後で動画みたら、やっぱスコーンと抜けてる感じでしたけど。汗)それに、所々言葉につまってたし、ステージプレゼンスもまだまだ固い。ってか、前置き長過ぎ。いろいろと改善の余地ありです。スポークン・ワード修行するぞ!サラ・ケイは一日にして成らず。さて、今晩詠んだ詩のとりあえずの日本語訳をずっと下の方に載せたので、興味のある方はどうぞ読んでみてください。元が英語の詩なので、か~なり違和感ありますけど。(自作でも、詩を訳すって難しい!)それに、読まれることを前提に書く詩はもっと余白があるんですが、聴かれることを前提に書く詩は言葉数が増えちゃって、こうして載せると字ヅラが長過ぎてウザって感じなんですけど、それでもよろしければ。(いや、単に私がwordyなだけか?)
<本日の出し物>
というわけで、聴衆が自分の目の前にいることを想定して書く詩は、印刷された頁を読む読者を想定して書く詩とは、ずいぶん変わったものになるようです、元々同じ題材を使って書いていても。読み手を想像しながら書くブログ仕様の文章は普通の文と違う!っていう実感もありますが、さらに受け取る人と同じ空間にいることを想像すると、より受け手に寄り添った感じになるんですかね~。しかし、目の前に生きた人がいて、自分の表現するものをちゃんと観て聴いてくれるって、本当にすごい有難いことです。恐いことでもあるけど。そして、その人達が目の前にいるからこそ引き出されるものって、確実にあるんです。ちゃんと向き合えば向き合うほど、それはばっちり受け取って頂けるようです。歌にしても、この数年はなるべく暗譜して臨んでいます(コーラスではしてないけど、ソロの時は)。やっぱり、100%視線を客席に注げないと、譜面に視線が戻るたびに繋がりが途切れちゃいますからね。しっかり聴いてくださっている人の姿はやっぱり目に入ってくるし、この箇所はあの人のほう向いて歌おう!みたいなのもでてくるし、向くべき人のほうに向かせてくださる神様の力を感じたこともあります。なので、やっぱりイイ発信するには、受信力も高めないと・・・ね。これは、このブログでも、教師としても、クリスチャンとしても、恋愛でも、私が反省しきりな部分なんですけど、出すだけ出して相手側の半世界をちゃんと見てないだろ!みたいな。(このブログにコメントくださった方々、ちゃんとお返事しますね。)今宵詠んだ詩じゃないけど、向き合っている相手のページの厚みと、語られない言葉と、隠れた傷とを察することができたら、と思う今日この頃です。
*********************************************
詩を刷るということ
「君達が形作っているのは、版木だけじゃない、
その周りの空気もだ」
と、先生が版画のクラスで言ったっけ
ノミはきっぱりとした意志を持って
正の空間を、負の空間から
掘り分ける
スポークン・ワード・ポエトリーも、それに似てますね
私が形作るのは、語る言葉だけじゃない、
秘する言葉もだから
ぺンはきっぱりとした意志を持って
語る言葉を、秘する言葉から
書き分ける
・・・例えばぁ、
今日の朝何食べた、とか
これまで付き合った男は何人、とか
何回 細胞検査を受けたか、とか
ここに来る前にかかってきた電話の内容、とか
語る言葉同様、秘する言葉にも
はっきりとした理由があるもんで
・・・例えばぁ、
全然関係ないから、とか
個人的内容すぎる、とか
語るには辛すぎる、とか
どうやって言葉にしたらいいか まだわかんない、とか
黙って聞き手に委ねたほうがいい、とか
版画のクラスに戻ります
版木を彫り終わったら
版画を刷る準備は万端
彫られた版木の労をねぎらうべく
たっぷり塗るインク
掘り残されたジューシーな面は
バージン・ペーパーにくちづけして
情熱の跡を残し、
彫られた部分は距離を置きつつ
その彫りの深さを紙の白さに託す
詩を刷ることも同じです
ここにいる皆さんは紙
私は版木
もっと正確に言えば、
あなたが私に委ねているこの瞬間が、バージン・ペーパー
だって、人生はまだ誰も触れたことのない瞬間を重ねた紙束
私が用意してきた詩、
ここに書かれた台詞が、彫った版木
私の声、動き、そして存在はインク
私の感情、そしてエネルギーが、その色
あなたの存在と私の存在が
ここでこうして、出会う
たった一度だけ、こんな風に
再び、版画のクラスです
「紙上の版画だけじゃなく、
その向こう側の版木や血も見通しなさい」
と、美術の先生が言ったっけ
そうそう、嫌なトゲがささったり、
うっかり手を切ったこともあった
ある子は掌をザックリ切ってしまった
でも、クラスの作品展を見るだけでは
一番多くの傷を持って作られた作品がどれだか
一番深い傷を持って作られた作品がどれだか
なんてわからない
皆さんの前に立つ詩人の傷も、同じように隠されているんです
・・・例えばぁ、
私も離婚した親の話だとか
死んだ元カレの話だとか
辞めた仕事の話だなんてしないし
完璧な比喩などない
これも、そう
あなたは真っ白な紙ではなく、
人生と傷を背負った生身の人間
あなたも私も今日をここまで生きてきて、
これまでの人生を生きてきた
あなたのヒストーリーと私のストーリーが
ここでこうして、出会う
たった一度だけ、こんな風に
正直、こんな風に詩を刷るのは
生身が晒されるようで、キツい
ただ紙とかブログとかに詩を載せるのとは全然違う
私という版木の体は
聞き手のあなたという生身の体と人生と傷に向かい合っている
あなたの傷は、私の傷より深いかもしれない
あなたの秘した言葉は、私の秘した言葉より大きいかもしれない
あなたの紙束は、私の版木より厚いかもしれない
あなたという紙束の聞き手は
吸収力も観察力もあって
私のインクをじっくり吸い取る
そうして、私が秘した言葉も隠した傷もあなたの内に浸透し、
誰も知らないあなたの深い所にあるそれと
共鳴するのかもしれない
今、私は脆く、恐れ多い気持ちで
皆さんの前に立っています
あなたが委ねてくれた貴重なひと時というページに
相応しいくちずけの跡を
そのバージン・ペーパーに残せたことを
願いながら