前回の「靴下効果は温泉効果!?」に、翻訳についてのこんなコメントがついておりました。
「村上春樹はこっちでも翻訳されて高い評価を受けてるよねえ。英語が母国語の人が読んでも、同じように彼の紡ぎ出す物語の倍音が体に残っていくんだろうか。その辺、翻訳の巧みさにもよるんだろうけど。翻訳でもある意味ルーブリックが通じないとこあるよね。意味を完璧に訳して、文法も流れもスムーズにまとめられていても、なんだか心に残らない。原文の魅力が伝わらないことがある。ふと思ったけど、聖書ってとんでもなく翻訳が難しい書物かもね。」
前にもちょっと触れましたけど、私のアメリカ人の友達で大学教授に熱く勧められたのをきっかけにハルキストになった人がいます。それで私も彼女から英語訳を借りて読んだりしましたが、結構雰囲気は残っているものですね。原文と並べて綿密に比べたわけじゃなく、あくまで前に日本語で読んだ時の読後感と英語で読んだ時のそれの色と密度が等しく感じただけですけど。ところで、村上春樹ときて翻訳といえば、「翻訳夜話」という本が絶対的に面白い!数年前に父に買ってもらい、翻訳・通訳をしていたN子ちゃんに貸して、N子ちゃんからは「神の子どもたちはみな踊る」を貰って・・・(すいません、内輪ネタです。)そうですね、技術的な面についても言及はあるけれど、それより翻訳という作業のメンタルな部分についてパブリックに、そしてパーソナルに村上氏と柴田元幸氏が深く楽しく語り合っていて、とても興味深い本でした。
幾つか抜粋させて頂くと・・・ (全部、村上さんの方の発言ですが)
「・・・そこ(翻訳すること)には何にもまさる無形の報いがあるように、僕には感じられる。いささかオーバーな物言いをすれば、どこか空の上の方には『翻訳の神様』がいて、その神様がじっとこちらを見ているような、そういう自然な温かみを感じないわけにはいかないのだ。」5頁
「僕が翻訳をやっているときは、自分がかけがえがないと感じるのね、不思議に。・・・結局、厳然たるテキストがあって、読者がいて、間に仲介者である僕がいるという、その三位一体みたいな世界があるんですよ。・・・かけがえがないというふうに自分では感じちゃうんですよね。一種の幻想なんだけど。・・・自分が何かの一翼を担っているという感触がきちっとあるんですね。誰かと何かと、確実に結びついているという。そしてその結びつき方はときとして『かけがえがない』ものであるわけです。少なくとも僕にとっては。」26頁
「なぜ(翻訳をすることを)求めるんだろうというと、・・・僕は文章というものがすごく好きだから、優れた文章に浸かりたいんだということになると思います。それが喜びになるし、浸かるだけじゃなくて、それを日本語に置き換えて読んでもらうという喜び・・・紹介する喜びというものもあるし・・・」110頁
「(写経について)しかしそうすることを通して結果的に、・・・人々は物語の魂そのもののようなものを、言うなれば肉体的に自己の中に引き入れていった。魂というのは効率とは関係のないところに成立しているものなんです。翻訳という作業はそれに似ていると僕は思うんですよね。翻訳というのは言い換えれば『もっとも効率の悪い読書』のことです。でも実際に自分の手を動かしてテキストを置き換えていくことによって、自分の中に染み込んでいくことはすごくあると思うんです。だから、その染み込み方をどのように切実に読者に伝えられるかということが、僕は翻訳にとっていちばん重要なことじゃないかと思うんです。」111頁
「魂というのは効率とは関係のないところに成立しているもの」 いい言葉だなぁ。
さてさて、翻訳というのかわからないんですけど、詩を日本語で書いて英語で書き直したり、その逆をやったり、ということは多くあります。基本的に日本語と英語をワンセットとして揃えときたいので。でも訳しているっていうより、また新たに書いてる感が強いかな。「母国語でない言葉で書く詩は嘘だ」とツェランは言ったそうですが、私はそうは思いません。プロセスにおいて利き手じゃない言語の不器用さを感じる事もあるし、出来上がった詩も少し不恰好なんですけど、それはそれで愛着がわくってもんです。ちなみに私は日本語で書いて英語に訳す方が、その逆よりは多いのですが、どちらが先にしても訳す方が難しいかも。訳のほうがなかなかしっくりいかない。意味的にはちょっと離れても、響きが詩的になる方を選ばざるをえなかったり。だから二つの詩は一卵性双生児みたいにはなれない。ちゃんとピンでもその言語で詩として成り立つように、オリジナルとは別個の新しい詩を造りあげる心持ちでやりますが、内容的にあんまり原詩を裏切ってもいけないので、ここそことお伺いを立てて気を使うんですよね。「こんなんでよろしいでしょか?」みたいに。もともとは自分が書いたものなんだけど、いったん原文を書いた自分とは離れて、テキストと対話しているな。で、たまに「何が言いたかったんでしたっけ?」って原作者(自分じゃん)に訊きに行くけど。
だけど「あれ、訳のほうがいいんちゃう?」てなこともたまにあります。そんじゃあ、ってオリジナルの方を手直しするとか。「あんたも負けてられんよ」ってね。二つの言語で書かれた詩は、お互いを意識し合う良きライバルみたいなもんですかね。(これがバイリンガリズムの醍醐味かも?)そういえば日本語と英語の詩を同時進行で書いたことはないなあ、一つの詩の中で両方交互に使うとか。それも面白そう!?
「村上春樹はこっちでも翻訳されて高い評価を受けてるよねえ。英語が母国語の人が読んでも、同じように彼の紡ぎ出す物語の倍音が体に残っていくんだろうか。その辺、翻訳の巧みさにもよるんだろうけど。翻訳でもある意味ルーブリックが通じないとこあるよね。意味を完璧に訳して、文法も流れもスムーズにまとめられていても、なんだか心に残らない。原文の魅力が伝わらないことがある。ふと思ったけど、聖書ってとんでもなく翻訳が難しい書物かもね。」
前にもちょっと触れましたけど、私のアメリカ人の友達で大学教授に熱く勧められたのをきっかけにハルキストになった人がいます。それで私も彼女から英語訳を借りて読んだりしましたが、結構雰囲気は残っているものですね。原文と並べて綿密に比べたわけじゃなく、あくまで前に日本語で読んだ時の読後感と英語で読んだ時のそれの色と密度が等しく感じただけですけど。ところで、村上春樹ときて翻訳といえば、「翻訳夜話」という本が絶対的に面白い!数年前に父に買ってもらい、翻訳・通訳をしていたN子ちゃんに貸して、N子ちゃんからは「神の子どもたちはみな踊る」を貰って・・・(すいません、内輪ネタです。)そうですね、技術的な面についても言及はあるけれど、それより翻訳という作業のメンタルな部分についてパブリックに、そしてパーソナルに村上氏と柴田元幸氏が深く楽しく語り合っていて、とても興味深い本でした。
幾つか抜粋させて頂くと・・・ (全部、村上さんの方の発言ですが)
「・・・そこ(翻訳すること)には何にもまさる無形の報いがあるように、僕には感じられる。いささかオーバーな物言いをすれば、どこか空の上の方には『翻訳の神様』がいて、その神様がじっとこちらを見ているような、そういう自然な温かみを感じないわけにはいかないのだ。」5頁
「僕が翻訳をやっているときは、自分がかけがえがないと感じるのね、不思議に。・・・結局、厳然たるテキストがあって、読者がいて、間に仲介者である僕がいるという、その三位一体みたいな世界があるんですよ。・・・かけがえがないというふうに自分では感じちゃうんですよね。一種の幻想なんだけど。・・・自分が何かの一翼を担っているという感触がきちっとあるんですね。誰かと何かと、確実に結びついているという。そしてその結びつき方はときとして『かけがえがない』ものであるわけです。少なくとも僕にとっては。」26頁
「なぜ(翻訳をすることを)求めるんだろうというと、・・・僕は文章というものがすごく好きだから、優れた文章に浸かりたいんだということになると思います。それが喜びになるし、浸かるだけじゃなくて、それを日本語に置き換えて読んでもらうという喜び・・・紹介する喜びというものもあるし・・・」110頁
「(写経について)しかしそうすることを通して結果的に、・・・人々は物語の魂そのもののようなものを、言うなれば肉体的に自己の中に引き入れていった。魂というのは効率とは関係のないところに成立しているものなんです。翻訳という作業はそれに似ていると僕は思うんですよね。翻訳というのは言い換えれば『もっとも効率の悪い読書』のことです。でも実際に自分の手を動かしてテキストを置き換えていくことによって、自分の中に染み込んでいくことはすごくあると思うんです。だから、その染み込み方をどのように切実に読者に伝えられるかということが、僕は翻訳にとっていちばん重要なことじゃないかと思うんです。」111頁
「魂というのは効率とは関係のないところに成立しているもの」 いい言葉だなぁ。
さてさて、翻訳というのかわからないんですけど、詩を日本語で書いて英語で書き直したり、その逆をやったり、ということは多くあります。基本的に日本語と英語をワンセットとして揃えときたいので。でも訳しているっていうより、また新たに書いてる感が強いかな。「母国語でない言葉で書く詩は嘘だ」とツェランは言ったそうですが、私はそうは思いません。プロセスにおいて利き手じゃない言語の不器用さを感じる事もあるし、出来上がった詩も少し不恰好なんですけど、それはそれで愛着がわくってもんです。ちなみに私は日本語で書いて英語に訳す方が、その逆よりは多いのですが、どちらが先にしても訳す方が難しいかも。訳のほうがなかなかしっくりいかない。意味的にはちょっと離れても、響きが詩的になる方を選ばざるをえなかったり。だから二つの詩は一卵性双生児みたいにはなれない。ちゃんとピンでもその言語で詩として成り立つように、オリジナルとは別個の新しい詩を造りあげる心持ちでやりますが、内容的にあんまり原詩を裏切ってもいけないので、ここそことお伺いを立てて気を使うんですよね。「こんなんでよろしいでしょか?」みたいに。もともとは自分が書いたものなんだけど、いったん原文を書いた自分とは離れて、テキストと対話しているな。で、たまに「何が言いたかったんでしたっけ?」って原作者(自分じゃん)に訊きに行くけど。
だけど「あれ、訳のほうがいいんちゃう?」てなこともたまにあります。そんじゃあ、ってオリジナルの方を手直しするとか。「あんたも負けてられんよ」ってね。二つの言語で書かれた詩は、お互いを意識し合う良きライバルみたいなもんですかね。(これがバイリンガリズムの醍醐味かも?)そういえば日本語と英語の詩を同時進行で書いたことはないなあ、一つの詩の中で両方交互に使うとか。それも面白そう!?
今回も翻訳に関しての「似て非なる」兄弟論、楽しく読ませていただきました。
すごい時間かかったけど、この前の「騒がしい詩」、リンクさせていただきました~。ありがとねん。
Shiranai Gakusei ni
村上春樹.....no Koto Kikare tayo..
Yonda koto Naikedo, Honto ni
Hayatteru Mitai desu ne..
Bikkuri Bikkuri!
Konoaida,
Oinori Arigato!!
Haruki Murakami、はやってるというか、アメリカ、ロシア、中国にもファンが多いらしい。まぁ、自分は彼の小説をそれほど読んではいないけど、他国の人が自分の国の作家により詳しいって、ちょっと不思議な気分?でも、個人として惹かれるものって、国境は関係ないものね。