言の葉ひらひら - Wordy Leaves Dancing

「はじめに言葉があった」
"In the beginning was the Word."

中田選手の引退、そして語学力とコミュニケーション力の違い

2006-07-06 | 言の葉
始めに断っておきますが、私は今回のワールドカップ/ブラジル戦で初めてサッカーTV観戦したぐらいのスポーツにあまり興味がない人間です。(好きで観るのは四年に一度のオリンピックくらい。)ですので、サッカーファンや中田ファンの方達に違うだろう!と思われることを書いてしまうかもしれませんが、あくまで今回の投稿の主役は「言葉」ということで、お許しください。

さて、インターネットのニュース欄で目に留まった中田選手の引退の話題を追ってみたら、こんなブログの記事を見つけました。そこには中田選手のサッカー暦に加えて、こんな事が書かれてありました。

「彼は言葉は話せても、伝え方が苦手だったと想います。」
「必ずしも語学が堪能な人が能力が高いとは限らない、というか、それが裏目に出る場合もある。」

よく知りませんが、確かに彼は英語もイタリア語も出来るけれど、誤解されやすく不器用なイメージがあります。(多分にマスコミのせいでしょうけど)今回の引退宣言をするにも自分のHPを選んだように、他人のフィルターを通して自分の言葉が曲げられるのを嫌う彼は、「世間から見られている自分」と「自分が思う自分」との間のギャップを、自身のHPに直接自分の言葉を綴る事によって埋めているようにも見えます。私もブログを書くようになって、ブログを通されたイメージと現実の私との間にギャップがあると言われたりするんで、なんかわかります。でも、不特定多数に読まれる事を前提に自分で意図的に選んで書く言葉と、普段関わり合う人達に無意識にさらけ出している自分に距離があるのは、しょうがないことだと思いますね。どちらの姿も現実であり真実であるけれど、その両方が本人の誤算や他人の誤解による誤差が含まれる可能性を多大に持っています。いったん自分が出した言葉って自分の一部のように思っていても、独り歩きすることもあるし、裏切ることもあるし、より大きくなって還ってきてくれることもあるんです。言葉って不思議ですよね~。

言葉を教えるものとして、やはり考えるのが語学力とコミュニケーション力の違いです。語彙を増やし、文法をマスターし、発音をきれいにし、色んな言い回しやイディオムを覚えても、それは単なる表面上の知識と技術です。それらを学ぶことももちろん大事ですけれども、コミュニケーション力を持つこととは違います。それは何かを伝える力。前述のブログに、このようにも書いてありました。

「言葉はあくまでも道具、その土地、土地での慣習に過ぎないのです。」
「大事なのは正確な内容ではなくて、伝えたい熱意や想いだったりするのです。」

少し前の忘筌、忘蹄、恋する男にも書きましたが、荘子も「言葉は魚を捕まえるアミ、兎を捕まえる罠のようなものだ。」と言っています。道具の性能もさることながら、魚のイキのよさ、兎のジャンプ力も大事。でもコミュニケーション力のつけ方は学校でなかなか教えてもらえない。だけど、伝える力、伝える道具、そして伝える何かを身につける場を与える教育って必要ですね。

先ほどの「必ずしも語学が堪能な人が能力が高いとは限らない」という言葉を読んで、村上春樹氏(またまた登場!)が言語力と気持ちの通じ合う率が必ずしも比例するわけではない、ということを述べていた文章を思い出しました。

「自分が流暢に話せないことを弁解するわけではないが、すらすら外国語が喋れてコミュニケートできるからといって個人と個人の気持ちがすんなり通じ合うというものでもないと僕は思う。すらすらとコミュニケートできればできるほど絶望感がより深まっていくということだってあるし、つっかえつっかえ話し合えばこそ気持ちが通じ合うということだってある。」(「やがて哀しき外国語」)より)

つたない言葉で気持ちが通じ合う、そんな場面を垣間見せてくれる本があります。開高健の「ベトナム戦記」-ベトナム戦争最前線の現場からのルポタージュ本。何かを伝えようとする気持ちと言葉について考えさせられるエピソードが幾つかあります。(以下抜粋)

「ベトナム語がまるで通じないのだから日本語としゃべるのとおなじで、そうした方が顔や声に感じがでてかえってハッキリこちらの意思が通ずるのだという考えを彼(同伴のカメラマン)は持ち、かねがね実行していた。はだしの子供二人が新聞をさしだしてかけよると、彼はポケットから金をつかみだし、日本語で茫然と
『・・・・笑って暮せよ、な」とつぶやいた。」

以下はほぼ全滅まで追い詰められて逃げていく月夜の夜、政府軍のベトナム人将校と筆者が共に歩いた時の会話です。

「“I am very sorry.”(たいへんすみません)
満月のハイ・ウェイを戦略村に向かって歩きながら中学生のように小さいその砲兵隊将校は私にあやまった。
“Oh. What has happened?”(どうしたんです?)
将校がぽつりと、ひとこと
“My country is war.” (私の国、戦争です。)
とつぶやいた。」

伝えようとする気持ちは何かを伝える…そう信じて言葉を使いたいものですね。

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4 コメント

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SpeakerよりもCommunicator (kuriks)
2006-07-09 11:56:03
Tamiちゃん、

そうだね、語学に関してだけではなく他のことにもいえるけれど(仕事とか伝道とか人間関係とか)、技術や知識も大事だけれどそれは枝葉のことで、情熱や誠意が幹になっていないと倒れてしまう。私もね、イタタ!の連続よ。幹も枝葉もまだまだ青いのさぁ。でも、ジーザスがBest Communicatorだから、繋がっていれば、大丈夫!



まりまさん、

私も言い訳しない潔い生き方に憧れますね。それから、「自分の発する言葉には誤算や誤解が含まれるもの」なんて書いちゃったけれど、確かに「コミュニケーションとは相互関係」なのだから、単にSpeakerとしてではなく、Communicatorとして、伝える努力は怠っちゃいかんな、と反省致しました。。。大事にします!では、お会いできるのを楽しみにしています。



リョウさん、

今回のテーマはまさに「SpeakerよりもCommunicator」、的を得たフレーズをありがとうございます。それから職場での会話、面白いですね。以心伝心できる人がいるって、幸せなことですよー。伝えよう!って気持ちも大事だけど、汲み取ろう!って気持ちも大事だし。



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Unknown (リョウ)
2006-07-08 12:34:08
中田選手の引退は反響大きいね。

ここ数年はプロとしてクラブチームでの出番が減っていた境遇だったから自我が強い彼にはしんどかったと思う。

Nakata.netの引退メッセージはすごく爽やかで、同年代の彼の今後の幸せを心から祈りたくなった。



SpeakerよりもCommunicatorになりたいな。



ある日の職場での会話



僕「(言葉に詰まって)アッ…ウッ…」 

上司「アイガッチュ アイガッチュ」



って以心伝心のCommunicatorになれたっていうよりも憐れみだ思ったけど...
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言い訳 (まりま)
2006-07-07 10:18:05
日本には言い訳を美徳としない文化がありますね。男子たるものは・・・に付随することが多いですけどね。

でも実は言葉というのは、実に曖昧で、どんな捉え方をされたかを確認することが大事だと思っていました。

例えば、本当に自分を理解して欲しい、自分が発言している内容を理解して欲しいと感じるならば、間違って伝わっている内容は訂正しなければならないし、不足分は補うという努力をしなければならないと思うのですよ。

コミュニケーションとは相互関係なので、発する、反応を見る、修正する、疑問をぶつける、反論する等、様々な手順を面倒でも踏む必要があると思います。そう、それは情熱がないとダメかもしれないですね。でも、諦めるということは、断つということになるような感じがします。大事にしなくっちゃ。

中田君は、一対多対応をせざる負えないので、大変だろうなとは感じます。

ところで、アンダーグラウンド、日本語だったら、貸して下さいませんか?

ブログを拝見していて、読んでみたくなりました。

日曜にはお会いできそうですよ。
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Wow (Tamiko)
2006-07-07 04:46:39
なんだか、ものすごく深いですね。言葉について、考えることの多き今日この頃ですが、ほんとうに、コミュニケーションと、語学力って違いますね。ちょっと、痛っ、て、思わされるとこも、あります。熱意や、想い、か。大切にしなきゃですね。
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