言の葉ひらひら - Wordy Leaves Dancing

「はじめに言葉があった」
"In the beginning was the Word."

遅ればせながらのレミゼ・レビュー

2013-07-07 | 今の葉
何で今さら「レミゼ」なの?と思われる方もいるかもしれませんが、実は1月に映画を観て、途中までガーッと感想を書いてから・・・半年あまり経ってしまったのです。実は、書いたことすら、とんと忘れていたんですが、つい最近になって図らずも飛行機の中で3度目(!)のレミゼ鑑賞をすることになり、この記事のことを思い出したってなわけです。面目ない。こうして今読み返してみると、鑑賞したてのほやほやで、やたら熱入っててお恥ずかしいのですが(熱しやすくて、忘れやすいタチなんです)、これだけ書いといて、日の目を見せないのもなんなんで・・・恥を忍んで、載せます。

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16年前に観ていたのが、「オペラ座の怪人」ではなくて、「レ・ミゼラブル」だったら、私の人生も変わっていたのかもしれません・・・なんて、それはいささか大げさですが、レミゼにどハマりしていたには違いありません。その昔、イギリスに4日間だけ滞在することになり、友人が「本当はレ・ミゼラブルのチケットがとりたかったのだけれど・・・」と言って誕生日プレゼントにと連れて行ってくれたミュージカルが、「オペラ座の怪人」でした。その当時まだお子ちゃまだった私には、男女の複雑な感情の絡み合いが理解できなかったことは、以前にも記した通りです(しかし、その10年後に再び「オペラ座の怪人」を観てからは、ハマりまくって「ひとりオペ怪メドレー」をしてしまったほど)。今回は冬休みが明ける前の晩、ふと、「そういえば、レ・ミゼラブルの映画版やってたから、休みの締めくくりにでも観に行くかぁ」と軽い気持ちで映画館に足を運んだのでした。大まかな筋は知っていたものの、背景や登場人物に関してよく知らないままに観劇。しかし、アン・ハサウェイの「夢破れて」には、泣かされましたね。定番の「オン・マイ・オウン」にも、いたく感動。不幸な女子達に、大いに涙、そして共感したのであります。

それから一週間も絶たないうちに、たまたま映画館の近くを通りかった時、そんな予定もなかったのに「よし、また観っかぁ」と映画館に吸い込まれてしまった私。その時は何とラッキー、自分1人しか観客がいなかったので、映画館は貸し切り状態。たった10ドルでなんという贅沢!おかげで、先週以来、レミゼ・フィーバーで聴きまくり&歌いまくりだった私は、映画の俳優達に合わせてレミゼ・ナンバーをがんがん歌うことができたのでした。貸し切りシング・アロング映画鑑賞なんて、なかなかできる体験じゃございません!(しかし客観的に考えると、これはかなり異様な光景かも?)ちなみに、2度目は少年ガブローシュや逆さ吊りアンジョルラスなど、不幸な男子達に涙いたしました。(ちなみに3度目は、ジャン・バルジャンがファンティーヌに迎えられて、息を引き取る場面で涙しました。)しかし、2度も観て(しかも泣いて)おきながら、パーフェクトな映画、パーフェクトな歌唱だとは思えない部分もあり、あちこちつつきたくなる映画版レ・ミゼラブルなのですが、それでも何か私をハマらせる魅力のある、人に語りたくなる映画です。そこで、非常に私的な感想なのですが、ここ「ことひら」の場を借りて語ってみようと思います。これまた、長~くなる予感がするので、警戒しつつ、読みたい方だけ読んでくださいませ(ネタバレもあるし)。

まずは、キャスト。そしてまずは、ジャン・バルジャン。あなた、人相変わり過ぎ。同じ人だとすぐにはわかりませんでしたから。そのとんがったお鼻と身分が変わっても相変わらず汚い歯だけがたよりでしたよ。それから、たった15分間の出演でスクリーンをかっさらっていき、オスカー助演女優賞を受賞したアン・ハサウェイ。ついこの間のキャット・ウーマンでも「イメチェンしたな~」と思ったけれど、そこから更に振り切ったイメチェン!この映画の一番の功労者でしょう。予告編の歌が主人公ではなく、彼女のものだったのが、それを物語っています。実生活では、甘えてしまうからと婚約者からも距離を置き、結婚式のロングヘアも諦め、役作りのために体重を落としたという、あっぱれな女優魂の持ち主です。「プリンセンス・ダイアリー」、そして「プラダを着た悪魔」を経て、ずいぶんとハードなお仕事をする女優さんになったものですね!あと、それまで知らなかったサマンサ・バークスは、ミュージカル舞台版でもエポーネを演じていただけあり、惚れ惚れする歌唱力。それに、個人的にはエポーネのほうが、コゼットより可愛いと思ったし(健気な娘に弱いのよ)。それに、なぜかブロンド娘よりもブルーネット娘のほうが可愛く思えるんだよな~(グィネスよりウィノナ、レネーよりキャサゼタのほうが魅力的)。しかし、コゼット役のアマンダ・セイフライドもミーン・ガールズの頃より出世したものです(というか、リンジーが堕ちすぎ)。でもコゼット役は、子役のイザベル・アレンが激似のダコタ・ファニングのほうが良かったような。それに、ダコタちゃんのほうが陰があるし、苦労人に見えたはず。でも、ダコタちゃんだと、お相手のマリウスとのお似合い度は下がっちゃいますね。アマンダほど歌えたかどうかも、わからないし。でも、アマンダちゃんには、「マンマ・ミーヤ」みたいな明るい役のほうが似合ってる気がします。(いや、あの目玉ならホラーでもいけるかも?)歌はどっちも可愛くこなしてましたけど(ポップもクラッシックも歌える人って羨ましいわ)。それから、私が密かに「オーストラリア産のじゃがいも」と呼んでいる(うそ)ラッセル・クロウ、原作によるとジャペール警部はブルドック顔らしいから、案外ミスキャストではないのかも。でも、なんかこの人この程度だっけ?って感じてしまった。最初「主役っぽくないな~」って思ったのに次第に存在感が増したグラディエーター、どう見ても学者面ではないのに(スマン)感動したビューティフル・マインド等々、上手い役者さんなのにねぇ。声質だって悪くないのに、なんだか歌声にも心に響くものがなかったし。なんか無難にこなしたって感じ。主役じゃないと、張り切れないタチなんでしょうか?でも、ガブローシュ役のダニエル・ハトルストーン君は良かった!!あ~ゆ~訛りって萌えるわ。出演者さん、みんな彼と同じ訛りでしゃべって、って思っちゃったほど。"Can you hear the people sing?"を歌い出す時ところなんか、粋だった。可愛い子役は多くても、「粋」を感じさせる子役って珍しいと思いません?死に方も死体役も印象的だったし。恐ろしい子・・・将来有望株だわ。

次は歌。このミュージカル映画はプロデューサーと監督のこだわりで、歌を全てライブ録音したことが話題になっていましたよね。確かにセットに立つ以前に、そして共演者と会う以前に、歌だけ先録りするのは、気持ちが入りにくいかもしれません。私も手振り身振り入れるほうが、歌に気持ちが入るタイプなので、生録がいいな(誰も私には聞いてませんが)。アンやサマンサの歌うシーンでは、歌声と表情と佇まいが矛盾なくひとつになってスクリーンからビンビン放たれており、生録が最大限にいかされていましたよね。でも、ラッセル・クロウみたいなタイプはもしかして、別撮りにしたほうが良かったのでは?そのほうが、歌唱と演技のそれぞれに集中して実力をもっと発揮できたのかも。(あれが別撮りだったと言われても違和感ないだろうし)それから、歌っている人の顔にぐっと近寄るカメラワークには賛否両論あったようですが、私はあれで良かったと思います。ミュージカルの舞台では俳優の表情がそこまで見えないぶん歌で聞かせてくれますが、映画俳優の武器はまずは演技と表情ですから、歌で足りない部分はスクリーンいっぱいに広がった顔で補えばよいのです!ボイスレッスンを重ねた成果もあってか、映画俳優さん達は予想以上の歌声を披露してくれましたが、ミュージカル俳優のそれと比べると、やはり技術的には劣ります(舞台出身のサマンサは別ね)。全体的になんだか力みすぎ。声に自然な深みや余裕がない。マリウス役の坊ちゃん、声はいいけれど、ビブラートを唇で作っているみたいだし、ヒュー・ジャックマンは喉でビブラートをかけているように聞こえます。私は生でレミゼのミュージカルは観たことがないものの、大学生時代にオリジナル・ミュージカル版のサントラCDをよく聞いていたせいか、今回は司祭役だったコリン・ウィルキンソン氏の「Bring him home」が自動的に脳内再生されてしまうため、同曲のヒュー・ジャックマンの喉声には違和感がありました(前半の囚人役にはマッチした声質だったと思いうけど)。しかし、ヒューさんはもともとテナーではない上、この曲はウィルキンソン氏のために書かれた曲らしいですから、比べるのが酷というもの。なので、映画を観たけれど、ミュージカルはまだ未見という方には、ぜひオリジナルキャストの歌声を聴いてプロの歌い手達の歌を堪能して頂きたい。歌えなくては食べていけない人達なのですから当たり前ですが、第一声から違う!しかし、舞台は舞台、映画は映画、それでいいのです。「私より上手く歌える歌い手はたくさんいるでしょう。でも、私はファンティーヌとして生きて歌ったの。『夢破れて』は有名な曲だけれど、まるでこれまで歌われたことのない歌のように歌え、と監督に言われたわ」とアン・ハサウェイがインタビューで言っていました。確かに技術的にはアンよりうまく歌える歌手はいるでしょうが、こんなにも心に食い込み、鮮烈な印象を残す「夢破れて」はそうそうないでしょう。まさに歌声と演技の総合力勝ち!これは舞台ではなく、映画だからこそ観ることができる、一発撮りの奇跡なのです。

そして、ストーリー。実際には大河ドラマにもなりそうな長編小説を映画にしちゃったので、ずいぶん展開が駆け足でしたね。テーマも絞れるだけ絞っちゃって、中心テーマに関係ないエピソードやキャラクターはがしがし削っちゃったんでしょう。コゼットとマリウスが恋に落ちるところなんて、ロミジュリばりに速い!そして、あっという間に別離、いっという間に革命はコケ、うっという間に結婚し、えっという間にマリウスは真実を知り、おっという間にフィナーレ。最後にあっち側の世界に行った人達がみんな現われて、高らかに歌い、感動的な大円宴!と、ミュージカル映画的にはもっりもりに盛り上がって終わりましたが、冷静に考えると実際はあの人達はみ~んな死んじゃってるわけで、幽霊の大合唱の後に残された人達のこれからを思うと、現実的にはそんなにハッピーエンドじゃないだろう、っていう。コゼットとマリウスはジャン・バルジャンの自己犠牲的な愛を知り、彼のまいた種は次の世代に受け継がれていく・・・小規模な意味ではハッピー・エンドなんですけど。でも、フランスの民衆はあれから、どうなっちゃうのでしょうか?革命のために流された多くの血が、次世代で実を結ぶようには思えない。政府軍に破れ、仲間を失ったマリウスが、今度は綿密に計画を立てて、血を流すことなく地道に世直ししていくようには・・・思えない。少なくとも、映画ではそういう提示はなかったと思います。結婚式はお金かかってそうだったし、きっと金持ちのじいちゃんの家に出戻って、以前は嫌悪していたシステムに迎合しちゃったんでしょ。(あくまで、予想。原作読めって?)歴史的カタルシスを含めてかなり大風呂敷を広げちゃったけど、結局のところ映画版レ・ミゼラブルは、ジャン・バルジャンと彼が関わった人達の個人的な魂の軌道の物語。まぁ、いいお話ではあるんですがね。結局、究極のところ、法より愛、正義感より慈悲!ってテーマなんですかね。それは、クリスチャンにとっても普遍的なテーマであると思うんですけど、やはり律法と恵みのバランスがね、品性の形成には大事なんだという。

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ここからレミゼのテーマや倫理観について語りたかったところで終わっちゃったわけですが、半年前の私からのバトンタッチを受けて、もう少し熟成された(?)感想を語ってみましょう。この映画では、社会的にも人格的にもドン底から這い上がり、成功して人格者にもなったジャン・バルジャンが主人公で、法にあまりに厳格なジャペール警部は悪役、ってな配置になってますが、これはいかがなものでしょう?そんなに、ジャペールは嫌な奴なのか?フツーの映画の悪役より、悪い人じゃない気もするけど?彼の仕事上、そして彼の性分上、「罪人」を見逃すことはできなかった、そんな彼なりの正義感に突き動かされて生きていたのだと思います。多分、たった1片のパンを盗んだ「小さな」罪(そしてその優しい動機)に対して、重く苦しい19年間の服務という処罰の釣り合わない感のせいで、ジャン・バルジャンのほうが観客や読者の同情を買っているのかも。しかし、その不条理な境遇に魂まで荒んでしまったのか、19年後には本当の泥棒になりさがってしまった彼。そこを、救ったのがミリエル司祭。「罪人」を見逃す愛 vs 見逃さない正義、どちらが正しいのでしょうね~。正義とは?法とは?本当にその人を立ち直らせる愛とは?とか、色々考えちゃうのです。

私も教師という職業柄、ルールを破った生徒にはそれなりの処罰をしなきゃいけない身。特に全寮制の高校で勤めていた頃には、学校だけでなく寮やプライベートに関する多くのルールがありました。わたし的に変なの~!と思うルール(例えば、「男子生徒と女子生徒は3秒以上ハグしてはいけない」)の違反は、見逃していましたし。(←いいかげんな先生だな)だけど、ルール違反を見逃してもらって、さらに調子こいちゃう生徒ってのもいますしね。神様もね、愛もあるけど、正義も同じくらいあるわけで、アダムとイブの罪を見なかったことにする、という対処はされなかったですよね。神自ら身代わりになって、罰をうけてくださったんですから。これぞ愛、これぞ正義でしょう!司祭は、罪は見逃したけど、罰を被ったわけじゃないですからね~。結果論で言いますと、ジャン・バルジャンの場合、あそこで赦されて人生変わったからいいんですけど、あれからもし調子こいてたら、あの司祭は責められるでしょ。見逃す愛にはそれなりのリスクと責任がありまっせ。もしかして、司祭にはジャン・バルジャンの見える行動としての「罪」だけではなくて、慈愛を必要としている「罪人」、そして再生の可能性までもが見えていたのかも。対して、ジャペール警部は、ジャン・バルジャンの「罪」はしっかと見ていたけれど、彼の人格や更正の可能性には興味がなかったようですから。きちんと罪を償うことでこの人は更正する!という可能性まで見ている正義感なら違ったのかもしれませんが、「罪人は世界の果てまで、追いつめてやるぜ!」みたいな彼の正義感は独りよがりなものだったみたい。結局、罪を見逃すとか見逃さないとかの問題ではなく、「罪を責めて、人を責めるな」的なことなのかもしれませんね。その人をしっかり見て、対応の判断をする、と。まぁ、警察はいちいちそんなことしてられないでしょうけど、誰かが「罪」の対処だけでなく、「罪人」と向き合った対応をしていかないと、人は救われないですよね。神様はきっちり両方やってますけどね。さすが!

今は幼児教育に携わっている私ですが、何か悪いことをした子どもをただ叱るのではなく、そこに至った経緯や子どもの気持ちをしっかり聞いて、受け止めることを学ばされています。悪いことは悪いけど、その行動に至った気持ち(怒り、悲しみ、孤独、焦り、嫉妬 etc.)には共感する、という。そして、どういう行動をすれば、他人に気持ちが通じるのか、何がお互いにとって良い解決策になるのかを考えられるように助ける。結局、子どもの世界も大人の世界の縮小版みたいなもので、程度の違いこそあれ、人生は似たような学びのレベルアップの繰り返しなのだす。

・・・などと、行きに観た映画の感想を、帰りの飛行機で書いております。いつか、「ひとりレミゼ・メドレー」でもやって、私なりのフィナーレにしようかな。

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