先週の詩のクラスで、詩を10篇選んで、それらから詩を書くことについて何を学んだか、どのように自分の詩に活かしていけるかをレポートする課題がありました。谷川俊太郎、金子みすず、ロバート・フロスト、エミリー・ディキンソン、など有名な詩人や、今まであまり知らなかった詩人のものなど、色々な所から集めた詩達でしたが、それら皆から「言葉には言葉では表せない限界がある」ということ学んだ気がします。言葉を通して言葉ではないものを表すために、言葉が出来ることと出来ないことの境界線を、真の詩人は知っているのでしょうね。
谷川俊太郎さんの詩が好きなのでインターネットで探していたところ、本についての6編の日本語の詩と英語訳の詩が載っているウェブサイトを見つけたので、ラッキーでした。その中の、「恋する男」という詩を選んだのですが、現在はこのサイトは開けないようです。残念!
恋する男
谷川 俊太郎
恋人の皮肉な笑顔が読みきれなくて
彼は恋愛論を読む
開いたページの上の愛は
臭いも手触りもないが
意味ではちきれんばかりだ
彼は本を閉じて溜息をつく
それから柔道の稽古に出掛ける
「相手の動きを読め!」
とコーチの叱咤がとぶ
その晩恋人にキスを拒まれ彼は思う
この世には読まなきゃいけないものでいっぱいだ
人の心を読むことに比べれば
本を読むなんて楽ちんなものだ
だが言葉ではないものを読むためにこそ
人は言葉を読むのではなかったか
彼はふたたび恋愛論にもどる
溜息をつきながら
コンドームを栞(しおり)代わりにして
言葉と言葉でない物の対比、そしてそれらを読むという行為について考えさせられる詩です。最初の節と最後の節には、本を通して抽象的観念を読む例。その2つの節の間に、恋愛の中で人の表情を読むという繊細な行為と柔道で相手の動きを読むというアグレッシブな行為 - 生活の中での対照的な具体例が挟まれています。栞みたいにね。最後の行にいたっては...なんて言ったらいいんですか。(笑)いやよく見ると、それまで分けて語られていた恋愛にまつわる一見非にて似たる抽象的な物と具体的なものが、そこでやっと一時的に共存しております。栞の役割上、その接点はこれからも移動していくのであろうなぁ、と思わせる上手い終わり方です。そして栞のメタファーを生かす全体の構成力!さすがですね。
「言葉ではないものを読むためにこそ
人は言葉を読むのではなかったか」は、
この詩のパンチラインでもありますが、
「言葉ではないものを表わすためにこそ
人は言葉を発するのではなかったか」ともいえそうですね。
それから言葉と「言葉ではないもの」について色々考えていたら、シンクロして色々なブログにぶつかりましたよ。まずは巷で人気の「きっこのブログ」で知った「忘筌」(ぼうせん)「忘蹄」(ぼうてい)という言葉。荘子は言葉についてこう語ったそうです。「筌は魚を在るる所以なり。魚を得て筌を忘る。蹄は兎に在るる所以なり。兎を得て蹄を忘る。言は意に在るる所以なり。意を得て言を忘る。吾れいずくにか、かの言を忘るるの人を得て、これと言わんかな。」これは「魚を取るにはアミがいるが、魚が取れたらアミのことなど忘れてしまう。うさぎを捕るにはワナがいるが、うさぎが取れたらワナのことなど忘れてしまう。言葉は意味をつかまえる単なる道具で、意味が捉えられたら道具にはもう用がないのだ。そんな風に言葉を忘れられる相手を見つけ共に語り合いたいなぁ。」という意味らしい。なるほど、なるほど。でも、「忘筌/忘蹄」できるって潔い。私は単に言葉好きなので、意味を絶妙に伝えている言葉に出会うと、言葉にも「グッジョブ!」って言いたくなりますね。でもそれには、やっぱり「言葉ではないもの」に共感 & 納得できなくちゃ....
谷川俊太郎さんの詩が好きなのでインターネットで探していたところ、本についての6編の日本語の詩と英語訳の詩が載っているウェブサイトを見つけたので、ラッキーでした。その中の、「恋する男」という詩を選んだのですが、現在はこのサイトは開けないようです。残念!
恋する男
谷川 俊太郎
恋人の皮肉な笑顔が読みきれなくて
彼は恋愛論を読む
開いたページの上の愛は
臭いも手触りもないが
意味ではちきれんばかりだ
彼は本を閉じて溜息をつく
それから柔道の稽古に出掛ける
「相手の動きを読め!」
とコーチの叱咤がとぶ
その晩恋人にキスを拒まれ彼は思う
この世には読まなきゃいけないものでいっぱいだ
人の心を読むことに比べれば
本を読むなんて楽ちんなものだ
だが言葉ではないものを読むためにこそ
人は言葉を読むのではなかったか
彼はふたたび恋愛論にもどる
溜息をつきながら
コンドームを栞(しおり)代わりにして
言葉と言葉でない物の対比、そしてそれらを読むという行為について考えさせられる詩です。最初の節と最後の節には、本を通して抽象的観念を読む例。その2つの節の間に、恋愛の中で人の表情を読むという繊細な行為と柔道で相手の動きを読むというアグレッシブな行為 - 生活の中での対照的な具体例が挟まれています。栞みたいにね。最後の行にいたっては...なんて言ったらいいんですか。(笑)いやよく見ると、それまで分けて語られていた恋愛にまつわる一見非にて似たる抽象的な物と具体的なものが、そこでやっと一時的に共存しております。栞の役割上、その接点はこれからも移動していくのであろうなぁ、と思わせる上手い終わり方です。そして栞のメタファーを生かす全体の構成力!さすがですね。
「言葉ではないものを読むためにこそ
人は言葉を読むのではなかったか」は、
この詩のパンチラインでもありますが、
「言葉ではないものを表わすためにこそ
人は言葉を発するのではなかったか」ともいえそうですね。
それから言葉と「言葉ではないもの」について色々考えていたら、シンクロして色々なブログにぶつかりましたよ。まずは巷で人気の「きっこのブログ」で知った「忘筌」(ぼうせん)「忘蹄」(ぼうてい)という言葉。荘子は言葉についてこう語ったそうです。「筌は魚を在るる所以なり。魚を得て筌を忘る。蹄は兎に在るる所以なり。兎を得て蹄を忘る。言は意に在るる所以なり。意を得て言を忘る。吾れいずくにか、かの言を忘るるの人を得て、これと言わんかな。」これは「魚を取るにはアミがいるが、魚が取れたらアミのことなど忘れてしまう。うさぎを捕るにはワナがいるが、うさぎが取れたらワナのことなど忘れてしまう。言葉は意味をつかまえる単なる道具で、意味が捉えられたら道具にはもう用がないのだ。そんな風に言葉を忘れられる相手を見つけ共に語り合いたいなぁ。」という意味らしい。なるほど、なるほど。でも、「忘筌/忘蹄」できるって潔い。私は単に言葉好きなので、意味を絶妙に伝えている言葉に出会うと、言葉にも「グッジョブ!」って言いたくなりますね。でもそれには、やっぱり「言葉ではないもの」に共感 & 納得できなくちゃ....