ウツウツ記

毎日の生活で感じたことを書いています。

カウンセリングで私を知る。

2012-09-18 16:09:45 | 日常
連休は息子と二人でカウンセリングを受けに東京へ行ってきた。
当初は月に一度の間隔で受けていた。
経済的には当然ながら痛いけれど、
それでも私はそこに希望を見出していたので、夫の了解を得て
二人で通った。
春くらいからは、やや間隔を空けてもいいでしょう、
ということになり、何か月か間を空けたりした。
そうして息子のカウンセリングはほぼ終了となりつつある。
どうしても聞きたいことがあったらどうぞ、という感じだ。
私の方は、というと、「お母さんはもう少し続けましょう」
息子の方が解決が早く、私の課題の方が大きかったというのはショックだけれど
生きてきた時間が長いから仕方ないそうだ。
それだけ私の心は長い間、頑なだったということだ。

今回も、私にとっての謎が一つ解けた。
息子の今を等身大で認める、という行為。
認めることが大切だと頭では十分に認識しているので、
認める態度を取るのだけれど、気持ちの上で納得しているか、というと
実は疑問があった。
息子の「今」は頑張っていると思うけれど
それが私の基準に達しているか、と言えば達していない。
それなのに認めてしまうと、彼を甘やかすことにしかならないのではないか、
他の言い方をすれば、彼を大切に思っていないから薄情にも現状でいい、と諦めているのではないか。
私は、心の何処かでそう思ってしまう。
だから、躊躇しながら「認める」。

そもそも、私は基準が高いそうだ。
自分では全く気が付かない。
だって、高い基準で生きてきたから。
高くなければ生きていけない、生きる価値がない、と教えられてきたから。
あまりにも当たり前に、それを要求されてきたから。
だから、子供にも高い基準を求める。

そしてまた、私の中には基準に達しなかった場合の恐怖が
記憶として残っている。
負けてはいけない、という思いはまた
負けた場合の恐怖を知っているからこそ、出てくる。
(それは親からの激しい叱責だったり無視だったり延々と続く嫌味だったり自慢話だ)
だから子供にも、恐怖を味わってほしくないからこそ
負けさせたくない。
私の中にある、恐怖の記憶が「認める」行為の障害になっている。

カウンセラーは言う。
認めるということは、今のままでいいよ、ということではないよ、と。
次へ続く頑張りへのステップなんだ、と。
認めたから成長が止まる、とか、甘やかしている、ということではない、と。
人は途中途中で認められると、そこで自分を認識できる。
自分の現在の場所を認識して初めて、次への頑張る気持ちがわいてくるのだよ、と。
息子の「今」がすべてOKな訳じゃない。
でも、よくやっているとは思う。
ならば、「今」を認めよう。
そうすれば、もっと頑張れる力は出てくる。

私は、途中で認められることもなく、恐怖からいつもいつも
基準を高くして親の顔色を窺ってきた。
だから本当は42.195キロのマラソンなのに
どこがゴールかわからずに(だって自分のいる位置がわからないのだから)
勝手に100キロマラソンだと誤解して走っていたような感じらしい。
要所要所の給水ポイントのように、認められることは自分の位置を確認することなのだと
初めて理解した。
だから完成形になっていなくても、認めることは決して甘やかしではないのだ、と。
私の幼いころからの恐怖の記憶は
こんな形でも影響を及ぼしている。

カウンセラーは、最近の私は変わりましたね、とよく言う。
引出が増えたそうだ。
私の中の謎がじんわりと溶けていくたびに、
私は一つポケットを増やしているんだろう。
変な話に聞こえるかもしれないけれど、
最近は二人でよく笑う。
もう少ししたら、私の頑なさも世間並にほぐれて
そうしたらカウンセラーともお別れの時が来るんだろう。
ゴールが別れって寂しいと思う。
一人でも大丈夫ですよって、きっと笑顔で別れよう。
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