震災から一年が経ち、3月11日には沢山の番組や特集記事が流れた。
私は意識してあまり震災にはコメントをしてこなかった。
仙台で過ごした時期もあり、疎遠な実家や親戚や
そして大切な友人達が住む地域で起きたことだけれど
現実に私は遠く離れた場所に住んでいることが
ある種の罪悪感のように感じられていたからかもしれない。
多分私が何を感じたにしても、
当事者を100%理解することはできない、
当事者でなければわからないことを軽々にコメントできない、
という思いが強いのかもしれない。
そのもどかしさを、苦々しさを十分に感じることが
せめて私が震災を忘れない、ということなのだとも思っている。
だから他の誰かの記事に対しても、特にコメントしようとは
思っていなかった。
でも、今日は一つだけ書こうと思う。
ある人のブログで、震災から一年が経っての特集番組に対して
「どれもこれもが頑張って、大丈夫、絆・・・といったメッセージ性の強いものばかりだ。
それは違う!もっともっと当事者に寄り添うべきだ」
と書かれていた。
確かに、「絆」の文字は溢れすぎた感じもあるし
もう十分に頑張ったのも事実だ。
何を今更頑張れというのか、と。
頑張れ、絆、大丈夫、という言葉は、こうして他人事のように遠くに住む部外者の私達が
ただ安心したいだけの言葉なのかもしれない。
でも、それでも仕方ないじゃないか、と私は思う。
仕方ないという言葉はあまりにネガティブかな。
う~ん、上手い単語が見つからないのだけれど
そういう報道・番組を特集した人達にも苦悩はあった、と信じていいのじゃないか
というニュアンスだろうか。
誰もが感じていると思う。
どう、寄り添えばベストなのか。
悲しみや辛さは理解できるのだろうか。
それが単純な「絆」という一語で処理されてしまうことに
苛立ちを感じることを。
あんな特集番組なんて違う、と批判することは簡単だ。
ならば、作らない方がいいのか。
記念式典の様子を流すだけでいいのか。
それこそ、違うと思う。
悩むメディア、紋切り型の報道しかできない幼いTV、
それでいいのだと思う。
私達は稚拙でいたらない存在なのだから
大いに悩んで苦しんで考えたらいいのだから。
今回の被災者の方への対応に答えがでるのは(行政の対応は別にして)
多分、ずっと先なんだと思う。
それほど未曾有の出来事であったのだし、
計り知れない苦しみだからだ。
だからこそ、一方的にあれはダメ、これはいい、という判断は
とりあえず横に置いてはどうだろうか。
みんなが出来る事を探して、悩んでいる。
それを確認できたら、それでとりあえず許して下さい、
くらいのニュアンスはダメなんだろうか。
甘すぎるだろうか。
やはり部外者の私には、意見は言えないと感じる瞬間だ。
私は意識してあまり震災にはコメントをしてこなかった。
仙台で過ごした時期もあり、疎遠な実家や親戚や
そして大切な友人達が住む地域で起きたことだけれど
現実に私は遠く離れた場所に住んでいることが
ある種の罪悪感のように感じられていたからかもしれない。
多分私が何を感じたにしても、
当事者を100%理解することはできない、
当事者でなければわからないことを軽々にコメントできない、
という思いが強いのかもしれない。
そのもどかしさを、苦々しさを十分に感じることが
せめて私が震災を忘れない、ということなのだとも思っている。
だから他の誰かの記事に対しても、特にコメントしようとは
思っていなかった。
でも、今日は一つだけ書こうと思う。
ある人のブログで、震災から一年が経っての特集番組に対して
「どれもこれもが頑張って、大丈夫、絆・・・といったメッセージ性の強いものばかりだ。
それは違う!もっともっと当事者に寄り添うべきだ」
と書かれていた。
確かに、「絆」の文字は溢れすぎた感じもあるし
もう十分に頑張ったのも事実だ。
何を今更頑張れというのか、と。
頑張れ、絆、大丈夫、という言葉は、こうして他人事のように遠くに住む部外者の私達が
ただ安心したいだけの言葉なのかもしれない。
でも、それでも仕方ないじゃないか、と私は思う。
仕方ないという言葉はあまりにネガティブかな。
う~ん、上手い単語が見つからないのだけれど
そういう報道・番組を特集した人達にも苦悩はあった、と信じていいのじゃないか
というニュアンスだろうか。
誰もが感じていると思う。
どう、寄り添えばベストなのか。
悲しみや辛さは理解できるのだろうか。
それが単純な「絆」という一語で処理されてしまうことに
苛立ちを感じることを。
あんな特集番組なんて違う、と批判することは簡単だ。
ならば、作らない方がいいのか。
記念式典の様子を流すだけでいいのか。
それこそ、違うと思う。
悩むメディア、紋切り型の報道しかできない幼いTV、
それでいいのだと思う。
私達は稚拙でいたらない存在なのだから
大いに悩んで苦しんで考えたらいいのだから。
今回の被災者の方への対応に答えがでるのは(行政の対応は別にして)
多分、ずっと先なんだと思う。
それほど未曾有の出来事であったのだし、
計り知れない苦しみだからだ。
だからこそ、一方的にあれはダメ、これはいい、という判断は
とりあえず横に置いてはどうだろうか。
みんなが出来る事を探して、悩んでいる。
それを確認できたら、それでとりあえず許して下さい、
くらいのニュアンスはダメなんだろうか。
甘すぎるだろうか。
やはり部外者の私には、意見は言えないと感じる瞬間だ。
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