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白洲次郎・正子

2009-02-12 21:52:03 | 人物

白洲次郎のことはNHKテレビ「その時歴史が動いた」、白洲正子は「かくれ里」を読んだ程度の知識しかありませんが興味を引かれ寺院神社、仏像に詳しい旧友Tさんを誘って町田市熊谷町の白洲次郎、正子の旧住居「武相荘(ぶあいそう)」に出かけました。小田急線鶴川駅から鶴川街道を約15分歩いて横道に入った所に武蔵の国と相模の国の境にあることの武と相に無愛想をかけて名付けた「武相荘」があります。 戦後の南多摩郡鶴川村の寒村にひっそりと住んでいた老夫婦の農家です。

予定コースは武相荘から多摩丘陵に沿って熊野神社、高蔵寺、妙福寺を経て谷戸の道を通り 「寺家ふるさと村」を終着点に考えていましたが途中で時間的に無理だと分かり今回は妙福寺までとして次回のお楽しみ。下の写真の高蔵寺は整然とした境内に七福神と阿吽の金剛力士像が鎮座し蝋梅(ろうばい)がきれでした。4月に入ると牡丹と石楠花がとてもきれいだそうです。Imgp6928_2 Imgp6935 Imgp6940 Imgp6942

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下の写真は長屋門と母屋に続く庭の椿と紅梅です。Imgp6872_4 Imgp6911_3 Imgp6894_2

ご存じの方も多いと思いますが白洲次郎(1902-1985)は兵庫県芦屋市生まれ、イギリスに留学ケンブリッジに学び、第2次世界大戦の参戦当初より日本の敗戦を見抜き鶴川に移住、食糧確保の必要性から農業に従事。戦後吉田茂に請われて戦後のGHQとの折衝に尽力して日本国憲法の成立に深くかかわりGHQ側に「従順ならざる唯一の日本人」と言わせしめた人です。生涯在野を貫き実業界と通商産業省(現在の経済産業省)の設立の中心的な役割を果たしました。車好きで有名でイギリスのべントレー、晩年にはポルシェに乗り、ジーンズをはいた最初の日本人とも言われています。展示されていた遺言書には「葬式無用、戒名不用」と書かれまさに自分の信条(プリンシプル)を貫いた83年です。

白洲正子(1910-1998)は父方の祖父が薩摩の軍人、政治家で樺山伯爵家の次女として千代田区永田町に生まれ、14歳で女性として「能」の舞台に立つ。能、骨董、古寺、旅、匠、文学の世界に踏み込み「かくれ里」で紀行・随筆部門読売文学賞を受賞。多くの著作があります。「韋駄天お正」と命名されるほどの行動派で最近はマスコミでも取り上げられその感性と生き方は多くのファンを持っています。

長屋門の前に置かれた木臼の郵便・新聞受けと金魚鉢ですImgp6870_2 Imgp6898

書斎に繋がる書庫の床に横積みされた本の中に古書のような大型本が目にとまりました。遠くて手に取れませんでしたが題名はたぶん「熊谷守一自撰 書、水墨画集」に見えました。熊谷守一(1880-1977享年97歳)のことは全く知りませんでしたが気になり帰ってから調べてみました。岐阜出身の東京美術学校卒の洋画家で書、水墨画、彫刻、篆刻など多彩な才能をもった人だと知りました。今、本の表紙の画(単純な形と色で描かれた猫)に引かれて熊谷守一の自伝本「へたも絵のうち(平凡社)」を読み始めました。興味のある方は東京の豊島区にある「熊谷守一美術館」をどうぞご覧下さい。(全ての写真はクリックすると拡大します)


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