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モノクロ写真で上野から銀座歩き(その二)

2008-12-31 01:07:06 | カメラと写真

上野に続く銀座歩きは日比谷と銀座のロードショー映画館の今を主に見て歩きました。出発はJR有楽町駅です。Photo_39 Photo_40 新幹線が通過しホームからはマリオンが見えまPhoto_23

ロードショー映画館は、特定の劇場で行う映画の独占封切り館で上野、浅草の映画館はロードショー劇場で終了した後の拡大上映や2本立ての映画館として人気があったのに対して先行的にそこでしか見られないのロードショーは期待に胸をふくらませて見に行ったものです。それだけに料金も高かったわけです。下の写真は日比谷の映画街の「日比谷映画館」と「スカラ座」です。Photo_6 Photo_8 日比谷映画館ではアルフレッド・ヒッチコック監督の「北北西に進路を取れ」を見た記憶があります。スカラ座の通りの奥に帝国ホテルがすこし見えます。日比谷方面からJRのガードをくぐるとマリオン(日本劇場の跡に建設」)があります。マリオンの中のピカデリーではミュージカルの傑作「ウエストサイド物語」を2回見ました。ちょうどマリオンの前は年末ジャンボ宝くじを買う人の行列が延々とつながっていました。毎年高額賞金の当たる西銀座デパートの宝くじ売り場がおPhoto_24 Photo_25 Photo_42 

川を埋め立てて建設された西Photo_15 Photo_16銀座4丁目交差点から日本橋方面に向かった銀座2丁目に「テアトル銀座」があります。確か日本で初めてシネラマを上映する映画館としてオープンしました。Photo_28 ここではチャールトンヘストン主演の「ベンハー」を前の方で見て首が痛かったことを思い出します。Photo_45 Photo_46その後何度かビデオやテレビで見ていますがもPhoto_47 (写真はクリックすると拡大します)Photo_36 Photo_37


モノクロ写真で上野から銀座歩き(その一)

2008-12-29 03:40:12 | カメラと写真

12月15日に所用で銀座に出かけた折に上野のアメ横近辺を歩きました。写真はモノクロで撮りたいと思い思い切ってオリンパスペンEESを45年振りに使用しました。Imgp5614_4 発売が1962年(昭和37年)のハーフサイズカメラです。35ミリフィルム1枚に2枚撮影できるので36枚撮りですと72枚撮れます。距離はポートレート、スナップ、風景の3点調節方式、ASA感度(200が最大)を合わせるとシャッタースピードと絞り(露出)が自動的に決まります。若い女性やはじめての人に人気がありました。どのように映るのか心配でしたがご覧のようになりました。モノトーンの写真は実際よりやわらかい、落ち着いた感じを受けますが。皆さんはどうでしょうか。

最初は年末で賑やかなアメ横です。Photo_35 Photo_36 Photo_37 アメ横はご存じのように戦後の闇市から発展した商店街と言よりも市場です。アメリカのPX(Post Exchangeの略で米軍基地内にだけある購買部)の放出品や軍関係の品などが舶来品と呼ばれて菓子、食料品、化粧品、衣料品、日用雑貨などが雑然と裸で並べられていました。私は幼少の頃から約25年間文京区湯島に住んでいたことがあるので歩いて行けるアメ横は思い出深い街です。特にハーシー(HERSHEY'S)のチョコレートとリグレィのチューインガムはめったに食べられないアメリカ文化を象徴するようなお菓子でした。あのキラキラ輝く銀紙に包まれたチョコレートを取り出す時のワクワク感と甘い匂い・味は忘れられません。

ご存じ上野の西郷さんの銅像です。Photo_38 ここから上野駅と御徒町の間を運行する電車がよく見え、上野松坂屋方面の光景は建物は変わりましたが眺望は変わりません。西郷さんの銅像の下にあるのが「上野百貨店」と「聚楽台」です。聚楽を広辞苑で引くと楽を集める意。聚楽台(聚楽第)は豊臣秀吉が京都に営んだ城郭風の邸宅です。上野の聚楽台は1959年(昭和34年)に開業した大衆食堂です。店内は桃山調と言われ相撲の桟敷席のような広い座敷と豊富なメニュー、大型タンク設置「工場直送生ビール 中生ビール」が人気で故郷に帰る人、来る人の待ち合わせと食事の場所として便利な店でした。いわば、地方の人の大集会所のようなところでした。Photo_40 Photo_41 現在は老朽化のため閉店していますが2010年改装再開の予定です。どのようなお店に変わるでしょうか。楽しみです。

最後は上野駅の大ガードを抜けて聚楽台の前を通り上野公園と京成上野駅につながる階段です。Photo_42 この階段は昔とほとんど変わっていません。私にとっては戦後の原風景を思い出す階段で戦後の行き場のない子ども、大人、女性の姿から戦後の縮図を見るような思いがします。今は易者と似顔絵書きが商売をしていますが昔から露天商が似合う場所です。次回のブログは銀座を有楽町駅から昔のロードショー上映館、封切り館と言われた老舗の映画館の今を中心にアップしますPhoto_45 Photo_44 (写真はクリックすると拡大します)


朝食のパン

2008-12-21 00:27:10 | お店

JR中央線国立駅南口からバスで5分。商店街の端の坂の途中に1987年(昭和62年)に開業した店主一人の小さなパン屋さんがあります。店の名前は「タルムリエ」。Imgp2685 Imgp3042 店主に聞いてみるとフランス語の古い言葉で「パン職人」だと教えてくれました。私も朝食のパンは開店以来のお客です。店主にブログ用に写真を撮ることを許してもらい、すこし話をしました。店のセールスポイントは何ですかと聞いたら、たまに聞かれるが店の宣伝をしたことがないのでありませんと言う返事。自分の目で確かめて気に入ってくれた人が買いに来てくれればいい。すべてを決めるのはお客さんで自分はただパンを作るだけ。売る気もないし儲ける気もない、いつ閉店するかもわからない、まったく商売気が感じられませんがパンづくりにかけた哲学のような強い信念が感じられました。

店内に置いてある手書きのチラシには、13種類のパンの価格と3種類の自家製酵母を使用、素材は品質の良い国産小麦、天然塩使用、バターなどの油脂類・卵・牛乳・添加物は使用していませんと書いてあります。パンはどれも固め(歯ごたえがある)で重く味は淡泊ですが小麦の風味は生きている味がします。パン職人の店主の思い、信念が詰まっているようなパンです。Imgp3047 Imgp3048 Imgp3055 Imgp3056 Imgp3045

下の2枚の写真は20年来の朝食です。Imgp5423_2 Imgp5467_2 Imgp5480 Imgp5421 Imgp5477

最近は手作りパンの店も増え種類も製法も進歩してパンは主食であると同時に嗜好品となり個人の好みのパン、お店のある人が多いと思います。毎日食べる朝食パンがおいしく食べられることは幸せなことです。今年は小麦の輸入価格の高騰、米粉パン・飼料米、食品偽装、事故米問題など食に関する問題がクローズアップされました。小さな街のパン屋さんですが店主が粉を引き、窯で焼いている現場が見られ、時には窯から出したてのアツアツのパンが買えます。立地、原料高、家賃、手間などを考えると経営的には厳しい面があると思われますが長く作り続けて欲しい手づくりパンのお店です。店を出る時に必ず大きなはっきりした声で「ありがとうございました」が耳に響きます(写真はクリックすると拡大します)


「甲州食べもの紀行」展

2008-12-14 19:05:52 | 農と食

12月4日に山梨県立博物館(笛吹市御坂町)の秋季企画展「甲州食べもの紀行」に農閑期の充電と体力づくりに励んでいる甲府の桃農園の担い手(YK)を誘って行って来ました。中央高速バスの御坂で待ち合わせて車で10分ぐらいで到着。敷地が広く緑の豊かな平屋のりっぱな建物です。Imgp5138_3 Imgp5136 展示場は写真撮影ができないため写真が少なくて申し訳けありません。参考までにこの「甲州食べもの紀行」をクリックするとホームページがご覧になれます。展示内容で興味深いのは、山梨は三方を山に囲まれ、海に面していないのに実にさまざまな種類の海の幸が食されていたことです。土器や魚の骨の出土、今も県庁所在地では静岡市に次いでマグロの世帯当たり消費量全国2位というマグロ好きであることからも伺えます。駿河湾、伊豆半島で水揚げされた塩や海産物を「中道往還」・「駿州往還」の陸運と「富士川水運」の水運で運ばれていました。

生魚以外にも塩漬けや醤油漬けの保存加工を施されて1昼夜で持ち込んでいました。中道往還は駿河国(静岡県)と甲斐国(山梨県)を結ぶ街道で富士山の西を通り本栖湖、精進湖を抜けて甲府市(旧東八代郡中道町)の右左口宿(ウバクチジュク)を経過する街道のようです。景色もよさそうで街道歴史探訪に訪ねて見たい気がします。

そのほかに眼に止まったのは武田信玄の食生活を知る婚礼の時の9つの食膳の模型、南アルプスの山中にある早川町奈良田集落の焼畑農業による雑穀栽培の歴史、ブドウやモモなどの「甲斐八珍果」と言われた果物の起源など出土品や文献、考古資料、ビデオによって探り、江戸時代に甲州を旅して詳細な記録を残した絵師の歌川広重、荻生徂徠ら先人の紀行文から甲州人の食文化を学ぶところが少なくない展示でした。

昼食は館内のレストラン「キッチンぶどう畑」で季節・数量限定のため予約を入れて山梨県産食材づくしの「甲斐御膳」を注文しました。Imgp5145 このレストランは「企業組合ワーカーズコレクティブ パクImgp5149_3 ぱく」という名称で主婦が事業資金を出し合って立ち上げた新しい事業形態のお弁当・総菜のお店です。甲斐御膳は郷土料理のほうとう、甲州地鶏の蒸し焼き、身延のゆばと三富のさしみこんにゃく、200年の歴史を持つ竜王の八幡芋(さといも)、米粉、そば粉、きな粉を練った戦国時代の携帯保存食の兵糧丸、豆類で最も大きい北杜の花豆、デザートのゆず風味のぎゅうひとキウィーです。食材の良さと手間をかけているので納得の味と価格1280円でした。Imgp5157_2 Imgp5154_2 Imgp5152_2

ほうとうと並ぶ甲州名物の伝統食に「煮貝」があります。駿河湾でとれたアワビを加工し、醤油漬けにして樽に入れ、馬の背に乗せて運んだところ、馬の体温と振動で醤油がアワビに程よく染み込んで、甲府に着くころにちょうど良い味に仕上がった伝えられています。私はまだ食べたことがないので分かりませんが どんな食べものなのでしょうか? 参考までに煮貝の元祖とも言われているお店「みや与」のホームページです。

地域の伝統食は食文化そのもです。農と食は地域の文化の伝承でもあることをもっと認識して次代の子どもたちに食と人とのかかわりの大切さを伝えることが必要だと思います。先人の知恵と工夫に学ぶところは少なくありません(写真をクリックする拡大します)


イチョウ(銀杏)の黄葉(その三)

2008-12-07 15:59:27 | 樹木

イチョウの黄葉の最後です。今回はJR国立駅から大学通りを徒歩約5分のところにある一橋大学のキャンパスの黄葉です。

一橋大学は1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で当時神田の一ツ橋にあった校舎が倒壊した為1930年(昭和5年)にJR国立駅周辺に100万坪の分譲地を造成して「大学のある町」を計画をしていた箱根土地株式会社(代表堤康次郎)による働きかけもあり国立へキャンパスを移転しました。都内から郊外へ移転した大学としては日本で一番古いのではないでしょうか。

大学と地域を結ぶ活動も活発で 授業科目の「まちづくり」授業では講義とともに学生は国立のまちを「まちづくり」実践の現場として地域のプロジェクトを展開しています。

なかでもNPO法人くにたち富士見台人間環境キーステーションの設立と設立後の事業(まちかど教室、コミュニティ・カフエ、地域農産物の直売所)の運営に深くかかわっています。その他にも9月20日のブログで紹介した大学生運営カフェや兼松講堂では演劇、演奏会が企画され芸術文化施設として利用されています。

緑豊かなキャンパスは特に土・日曜日は散歩する人、運動場で球技やジョギングをする人、池の周りのベンチで本を読む人、乳母車を引いたお母さん達にとっての憩いと交流の場になっています。写真は10日ほど前に散歩がてらに撮った西キャンパスのイチョウです。

最初の3枚は校門を入ってすぐの兼松講堂付近です。下の2枚は図書館前の大きなイチョウですImgp4341_2 Imgp4340 Imgp4343  

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下の4枚の写真は本館の別館裏のイチョウと水道の水受けに落ちたイチョウの葉です。太陽の光が水に反射して黄葉が輝いています。また、あたり一面に銀杏(ぎんなん)が落ちています。おばさんが一人だまって銀杏拾いに来ました。秘密の場所かもしれません Imgp4398Imgp4423 Imgp4418 Imgp4419

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