踊る小児科医のblog

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こどもは7.3% 津波の犠牲者 「津波てんでんこ」

2011年03月28日 | 東日本大震災・原発事故
今回の震災報道の中で伝えられていない重要な情報があり気になっていました。
子どもたちはどれくらい助かったのか(どれくらい犠牲になってしまったのか)。

逃げ遅れか…地震死者、60歳以上が65%(2011年3月25日03時09分 読売新聞)


>岩手、宮城、福島、茨城、千葉の5県で年齢のわかっている死者2853人のうち
 0-9歳 4.1%
 10代 3.2%

あわせて約7.3%
これが多いのか少ないのか(もちろん数として多いことは間違いありませんが、割合として)。
スマトラでは子どもの犠牲者の割合が多かったような記憶がありますが資料を探せませんでした。
いったん津波に巻き込まれてしまうと、子どもは助かりにくいというとだったかと思います。
今回の大惨事では、やはり避難弱者である高齢者に犠牲者が集中していたことが特徴のようです。

東日本大震災:津波が奪った夢 宮城・石巻の大川小、児童の8割が死亡・不明(毎日新聞 2011年3月19日)
「てんでんこ」三陸の知恵、子供たちを救う(2011年3月28日15時07分 読売新聞)

石巻の小学校のような記事を読むのも辛い悲劇もありましたが、1200名もの犠牲者を出した釜石市で、子どもたち一人一人が自分で判断して行動したことで、小中学生2900人中死亡者が5名に抑えられたことは防災教育の成果とみて間違いなく、地域の希望をつなぐニュースと言えるかもしれません。

「津波てんでんこ―近代日本の津波史」山下文男

この本はまだ読んでませんが、同じ著者の講演録や動画がいくつか公開されています。

[講演記録] 明治・昭和三陸津波の歴史的教訓 山下文男
「津波の恐怖」 講師 地震・津波災害史 山下文男氏

三陸大津波の教訓(youtube)

なんと、今回の津波でも「陸前高田の病院で九死に一生を得て救出された」とのこと。。

九死に一生得た津波災害史研究者 山下文男さんをお見舞い 岩手の元党県委員長ら(しんぶん赤旗)

>陸前高田市の病院に入院中、東日本大震災の大津波に遭いました。
>病院の4階にある病室で、首まで水につかりながら夢中でカーテンに
>しがみついて助かった山下さん。
>今回の大津波を「想像を超えていた」と振り返り、
>これまでの津波災害対策に加えて、新しい対策が必要になっていると話しました。

今回の震災のあとに図書館で借りてきたのは、「三陸海岸大津波」(吉村 昭)と「原子炉時限爆弾-大地震のおびえる日本列島」(広瀬 隆)の2冊。
ため息をつきながら読み終わったところ。(できれば別に紹介したいと思います)

今となっては遅いとしか言いようがないのですが、過去の教訓を十分に生かしきれず、繰り返された警鐘を無視して突き進んできたこの国のこと、そして膨大な犠牲者と取り返しのつかない原発事故・放射能汚染のことを考えると、悔やんでも悔やみきれません。

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2 コメント

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読売新聞 (ウミネコ物語)
2011-03-28 19:34:48
お疲れ様です。

今日の首都圏の読売新聞の記事です。

「てんでんこ」三陸の知恵、子供たちを救う
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110328-00000603-yom-soci
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児童の命救った「お・は・し・も」とは (basil)
2011-03-29 09:30:57
こんなニュースもありました。この小学校でも判断して行動して全員無事。。(動画は消されてしまうと思うので引用保存しておきます)

児童の命救った「お・は・し・も」とは
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4685832.html
 今回の津波で死者・行方不明者1200人以上という大きな被害が出た岩手県釜石市に鵜住居町という町があります。そこにある鵜住居小学校も津波の直撃を受けましたが、児童350人はすぐに避難して全員無事でした。なぜ子どもたちは助かることができたんでしょうか。キーワードは「お・は・し・も」でした。
 釜石市の鵜住居小学校。大槌湾のすぐそばにあります。時計の針は、津波が襲った時間で止まっていました。
 「地震の直後、児童たちは津波から逃れるため、学校からこの道路を使って高台へと避難していきました」(記者)
 死者・行方不明者1200人以上という釜石市の中でも特に甚大な被害を受けた鵜住居町。しかし当時、この学校にいた児童350人はすぐに避難し、全員が無事でした。
 「最初に下級生が逃げて、最後に上級生が逃げた」(5年生の男子児童)
 「鵜住居を見たら家とかが全部なくなっていて、もう無理だって」(3年生の男子児童)
 「最初の避難所では危ない」、とっさの判断で、児童たちはさらに高台の避難所を目指します。
 「避難所まで行ったけれど、そこも危ないってなって。いっぱい避難所をかえた」(4年生の女子児童)
 津波の危険と隣り合わせとも言える港町の小学校。学校では、学期ごとの避難訓練に加え、隣の中学校との合同訓練も繰り返してきました。さらに津波警報のレベルに加え、地震の発生場所、その時々の状況に合わせて臨機応変に避難することも訓練していました。
 「1年生のころから、津波や地震、火事の避難の練習をしていて、役に立ったなと思った」(4年生の女子児童)
 「津波が来る2日前くらいに津波の新聞を書いていました。津波の恐ろしさとか津波の速さを勉強していたので、すぐ逃げられて助かった」(3年生の男子児童)
 津波が直撃したにもかかわらず、児童350人全員が無事だった鵜住居小学校。子どもたちの間には「お・は・し・も」という合言葉がありました。
 「押さない、走らない、喋らない、戻らない」(児童)
Q.守れましたか?
 「走ってたけどね」(児童)
 子どもたちの命を救った「お・は・し・も」。この防災学習の基本は、子どもたちの避難に徹底されていました。鵜住居小学校では、児童の6割以上が自宅を失い、避難所などで生活を続けています。津波から、いかに身を守るか。日々の訓練の成果は、子どもたちの中にしっかりと残っていたのです。(28日 18:08)
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