踊る小児科医のblog

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寺田寅彦の「正当にこわがる」がなぜ誤用・悪用されたのか。「正しく恐れる」では意味も目的も大きく異なる

2012年09月29日 | 東日本大震災・原発事故
寺田寅彦の「正当にこわがる」がなぜ誤用・悪用されたのか。
昨年から何度か文章を書きかけて放棄していた。
原文は『小爆発二件』寺田寅彦(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2507_13840.html
「正しく恐れる」ではなく「正当にこわがる」が正しい。

「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。○○の○○○○に対するのでも△△の△△△△△に対するのでも、やはりそんな気がする。」
寺田寅彦『小爆発二件』より(伏字は不明のまま)

この場合の「正当にこわがる」は、爆発している浅間山からおりてきて「なんでもない、大丈夫」と言っている学生や、平気で登っていった登山者に対して、むしろもっと危険性を知ってもらう必要性があるという文脈で書かれている。
正常性バイアスに対して警告を発していたと言える。

震災・原発事故後に、いわゆる安全側の学者(御用・エア御用)が頻用した「正しく恐れる」は全く逆のベクトルに作用させようとしたもの。
最初に「寺田寅彦の正当にこわがるがなぜ誤用・悪用されたのか」と書いたが、「なぜ」の答えは簡単だった。その「目的」があったからだ。

2009年の新型インフルエンザ騒ぎのときに、私もこのフレーズを用いて当時の状況に対して批判的に書いた。
「正当にこわがることはむつかしい。2009年5月1日」
http://blog.goo.ne.jp/kuba_clinic/e/ce001b7e7d6b1977172eb24d22d00a45

2009年のブログでは、原発後の御用学者と似ていて、過剰反応を抑える目的で書かれたものだ。
ただし、その標的は国民ではなく政府で、用語も「正しく恐れる」ではなく原文の「正当にこわがる」を用いている。
寺田寅彦のこのフレーズは、取り出してしまえばどちらの目的にも使うことが可能だった。

2009年のブログの中で、「放射線科学者が原発推進擁護のために用いているのはちょっと違うかもしれません」と書いていることに、今読み直してみてちょっと驚いた。
当時からその危機感はあったんだ。

「正当にこわがる」と「正しく恐れる」とでは言葉の意味合いやニュアンスは全く異なる。
このあたりは榊邦彦氏の文章が参考になる。
→「正しく恐れる」と「正当にこわがる」
 http://www.sakaki-kunihiko.jp/page048.htm

榊邦彦氏の文章を読んで成る程と思ったのは、「正しく恐れる」は「恐れない姿勢」まで含み、「正当にこわがる」は「こわがることを前提」としている、という指摘だ。
そう読めば、「正しく恐れる」は「閾値あり」、「正当にこわがる」は「閾値なし」を表現しているようにも思える。

榊邦彦氏:「正しく恐れましょう」と言われたなら、「そんなに恐れる必要はないんですよ」という方向に導かれ、「正当にこわがりましょう」と言われたなら、「甘く見てはいけませんよ」という方向に導かれるように、感じないだろうか。

榊邦彦氏:当然、用意された結論に向けて、「正しく恐れる」と「正当にこわがる」は、自然と使い分けられるだろう。
←やはり「目的」に沿って「正しく」言葉が選ばれ使われていたのだ。

榊邦彦氏:思えば、この「正当にこわがる」は奇妙な言い方だ。「正当に」という知的な語彙と、「こわがる」という感覚的な語彙が同居している。しかし、この知性と感性の同居こそが、肝要なことなのではないか。

伊東乾「寺田寅彦とソクラテス あれから1年、正しく怖がる放射能」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20120426/231416/
←参考になるところはほとんどなかった。
この著者の写真に見覚えがあると思ったらtwitterで早川先生から批判されていた人か。
http://togetter.com/li/136427

『喫煙四十年』寺田寅彦
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/42257_18493.html
「もしあの時に煙草を止めていたら胃の方はたしかによくなったかもしれないが、その代りにとうに死んでしまったかもしれないという気がする」
←喫煙者の非論理性は今に始まったことではないが。

寺田寅彦「煙草の「味」とは云うもの、これは明らかに純粋な味覚でもなく、…いわゆる五官の外の第六官に数えるべきものかもしれない。してみると煙草をのまない人はのむ人に比べて一官分だけの感覚を棄権している訳で、眼の明いているのに目隠しをしているようなことになるのかもしれない」(>_<)

当時タバコの害に関する医学的知識が不足していたとは言え、寺田寅彦もタバコについて「正当にこわがる」ことはできなかった。
江戸時代に貝原益軒がすでに依存症について警告しているので、博識で論理的思考のできる(はずの)寺田寅彦なら自分の状態を把握できたであろうに。

話がそれた。伊東乾氏や御用・エア御用の面々は、国民の側で「正しく理解」して「正しく怖がる」必要があると強調するが、実際には多くの人たちは情報を主体的に取捨選択して判断し、「正当にこわがる」ことができるようになっている。
ヒステリックにゼロリスクを求めている人などどこにもいない。

そもそも今日の混乱を招いた最大の原因は、「国民は愚かで情報をストレートに出せば「正しく理解」することが出来ずにパニックが起こる」という前提の元に、情報を隠蔽し事実を過小評価して誤摩化そうとした政府や学者の側にある。
それを信じて被曝を強要された国民の怒りは決して消え去ることはない。

結局、「正当にこわがる」にせよ「正しく恐れる」にせよ、誰が言っているかで簡単に判断できたはずだ。
原発事故の責任は政府・官僚・事業者・学者・マスゴミという原子力ムラにあることは明らかなのだから、その犯人が自らの罪状を軽くするために隠蔽し過小評価を行うのは当然すぎる行動だった。

原発ゼロでも核燃サイクル堅持を喜ぶ青森県の悲喜劇 中間貯蔵施設をどうするか 最低→最悪政権の次の選択は

2012年09月20日 | 東日本大震災・原発事故
 昨年の福島原発事故以来、子どもの低線量内部被曝の問題についてずっと考え続けてきた。この原稿もそれに関連した内容にするつもりだったが、締切直前に飛び込んで来た呆れ果てた一連のニュースに触れざるを得ない。経緯をざっと見直してみよう。

 九月六日、三村知事が細野原発相と会談したが成果なく、七日、六ヶ所村議会がガラス固化体受け入れ拒否・使用済み核燃料搬出の意見書を可決。十三日、原発ゼロ目標を掲げるも再処理事業は継続。十四日、大間原発・中間貯蔵も継続、MOX工場建設も容認。十六日、東電の東通原発には慎重姿勢(完全には否定せず)、という県内原子力施設の全面解禁宣言と言える結末だ。

 原発ゼロ目標と核燃サイクル推進とが両立し得ないことは小学生でもわかる理屈であり、どちらの立場から見ても無責任・無定見で、選挙目当ての方便としか言いようがない。

 原子力ムラでは、嘘・まやかし・空約束・問題解決先送りによる虚構の上に神話を築き上げてきた。福島原発事故によって神話が崩れ去り虚構が明らかになったにも関わらず、恥ずかしげもなく同じことを繰り返そうとしている。しかもその選択は、敗戦が決定的となった後も本土決戦を叫んで犠牲者を増やし続けた旧日本軍と同じように、青森県にとって最悪の結果を招く可能性が高い。

 全くの絵空事である「第二再処理工場」を前提としたむつ市の中間貯蔵施設をどうするかが今後一つの焦点になるだろう。

 個人的意見としては、この空約束を盾として全国の原発からの搬入を拒否すれば、六ヶ所のプールはすぐに満杯になり、原発の再稼働はほとんど不可能になる。その上で、六ヶ所の使用済み核燃料は返還せずに金蔓として残しておき、少しでも安全性の高い中間貯蔵施設に移していくという案を考えている。

 無論、脱原発を目指す人の多くはこの意見に反対するだろう。私自身、自宅から車で十五分のところにこんな施設ができるとすれば絶対に反対する。解決不能の問題の一つだ。

 ここまで書いたところで、十九日には原発ゼロ目標が棚上げとなり、もんじゅ廃炉も覆された。昨年夏のポスト菅政局の時に「最低と最悪の選択」と書いたが、末期状態にある野田政権の後に、どのような選択を示すのか、見通しは暗いが希望を捨てることは出来ない。

(青森県保険医新聞掲載予定)