南米・ウルグアイのムヒカ前・大統領の来日で「世界一貧しい大統領」として脚光を浴びています。
ウルグアイは人口約342万人、国土面積は日本の半分ほど。
ムヒカ氏曰く
「現代に至っては人類が作ったこの大きな勢力をコントロールできていません。
逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。
残酷な競争で成り立つ消費主義社会で、みんなの世界をよくして行こうというような共存共栄な議論はできるのでしょうか。
私達は発展するために生れてきている訳ではありません。
幸せになるためにこの地球にやってきたのです」
「消費社会」とは時々耳にしますが人間にとってある意味、嫌な言葉です。
生産社会とことなり、ただひたすら消費するだけですから。
どの国でもお金持ちになればフェラリーや豪邸を購入する、ほぼ同じようなパターンが多いです。
お金持ちになるとどうしてこういうパターンが多いのでしょう。
お金は日々の生活に大切ですがお金が全てを支配している訳ではありません。
中野孝次氏著「清貧の思想」には西行たちの生き方を紹介し、以下のような言葉が記されています。
「生活を極限にまで簡素化し、心のゆたかさを求めた我らの先達。
西行・兼好・光悦・芭蕉・大雅・良寛など現世の富貴や栄達を追求するのではなく心の世界を重んじる伝統文化。
思想は言葉によってのみ伝えられるとは限りませんが、言葉無しには残らない。
もし、清貧の思想が一部の文人たちだけに限られるものであったら、それは一国の精神文化の伝統と呼ぶに値しない
でしょう。
富んで慳貧である者を軽蔑し、貧しくても清く美しく生きる者を愛する気風は、つい先ごろまで我々の国において
一般的でした。
(中略)
日本映画で最も多く描かれ愛されてきたのは、例えば戦後映画に一番のヒット作品だった「二十四の瞳」の女教師の
ように、清く貧しく美しく生きる人間のタイプです。」
(以下略)
しかし、現代ではモノが溢れ、デジタル社会となってスマートフォンなどを片時も離さず、マイカー社会となり、
買い物ブームやグルメ時代となって清貧の時代に戻ることは容易ではありません。
マイカーなどなければ通勤などに支障を来し、車は物流にも必須であり、足の代りにもなっています。
今やライフスタイルは西行たちの時代と大きく変わってきています。
しかしこうした時代でも過度な物欲に囚われない生き方は選択できます。
「清貧」という言葉自体が死語になっていまが、この意味を問い直す時代かも知れません。
貧乏と清貧とは異なると思いますが、本当の貧乏は辛く人生を楽しむ余裕はないでしょう。
ムヒカ氏は「利他」の精神を説き、中野孝次氏は物欲に囚われない先人たちの生き方を紹介して、物欲で得られない
精神面の充実が心の充実感に繋がることを説いて居られます。
消費における「適度な欲」は好しとしても「強欲」は慎むべしということでしょう。
人間の欲にはある意味、限界はありませんから。