goo blog サービス終了のお知らせ 

畑を掘り、木を彫り、石を刻り、の自然人!

退職後、自分に気ままな課題をちょっと与えて遊んでいます。

「ところてん」の食べ方

2016-06-26 07:26:38 | 良寛


「ところてん」(心太)は夏の風物詩です。
先般、菩提寺で永代経の行事があり、お参りに行ってまいりました。
お経やお説教の行事が終わり、最後に「ところてん」のお接待がありました。

最近は「ところてん」を味わう機会もすっかり減りましたが、喉をツルツルと冷たく、すべり良く通る
瞬間がとても気分のよいものです。

つい昔を思い出しましたが現在のスーパーでの売り物と異なり、羊羹のような長い「ところてん」を
器具を使って細く押し出し、それを口に運ぶ一連の流れが子供にとって楽しいものでした。

ところで、この地方だけかも知れませんが、食べるときは箸1本だけです。
別に不自由はありませんが少し不思議な感じもいたします。

理由は後からのこじつけかも知れませんが

*昔は箸が高価だったため1本の箸だけで食べた

*「ところてん」は「食事」か「おやつ」かを区別するために箸1本にした

その他、色々説があるようです。
でも1本で味わうのはちょっと粋な感じではあります。

今朝、TVで「ところてん」を箸2本で食べるシーンがありましたが、長年1本の箸で味わう習慣のせいかも
知れませんが確かに食事のようで、ちょっと違和感がありました。

所が違えば習慣も違うということでしょうか。

「ところてん」は自然食品、カロリーも少なく、食感もよく、日本っていいなあ・・・

榊 莫山と東大寺

2016-05-16 14:36:08 | 良寛



書家・榊 莫山さんのおはなし。
東大寺の管長をしていた上司海雲からハガキが到着。
「奈良へきたときでよい。ちょっと寄ってくれ」

大仏殿の修理には結構お金が必要です。
国から多少補助がでるものの不足分20億円。

かって薬師寺・管長の高田好胤さんのアイデイアで写経で大金を調達。見事に修理を終えました。

そこで東大寺・管長も考えた。柳の下に泥鰌!

東大寺も写経で稼ごうと。
般若心経は200数十文字。
東大寺は100字の「百字心経」
その手本を榊 莫山さんに依頼されたという次第です。

榊 莫山さんは既に亡くなりましたが大正15年(1926)生まれ。
32歳のとき在野に下り、書壇を離れて「詩書画三絶」の独自の世界を切り開き多くのファンを作りました。
その写経の手本が写真。

榊 莫山さんは篆刻もよくし、梅舒適氏(写真・下)に習いました。
梅舒適氏は今年生誕100年、大阪で記念の展覧会が開催されましたが小生は行くことできず。
同氏の図録はかなり以前に入手していますが小林斗盦(とあん)氏と並んで篆刻界の重鎮。
両横綱というところで書壇にも発言力が大きい方でした。

梅舒適氏は書も勿論有名で現代書道20人展の出品者でもあり、その道の方であれば先刻ご存知。

榊莫山さんは良寛さんの書も大好きで、多少影響を受けておられるのでは、と勝手に推察しています。
写経の手本はお経ですので格式がありますが、日常の書は奔放です。
惜しい方を亡くしました。

1条・2条・3条って?

2016-05-12 14:36:08 | 良寛


1条、2条とか耳にすれば多分、京都の正方形に整理された地割を想像されることでしょう。
京都のようにきっちり整理された地割は「方格地割」と呼ばれるそうです。
こうした地割は古代中国で作られ、そして朝鮮半島に広まり、6世紀ごろ日本に入ってきたとあります。

奈良盆地でも方格地割の跡が見つかっています。
京都でみられる方格地割は南北の区分を「条」とよび、東西の区分を「里(り)」とするとありますが
小生は「里」と呼び方は不詳でした。
南北方向と東西方向は1辺6町の正方形で1町は約109米です。

このようにすれば個々の農民の所有地が「某郡○条○里○坪」と表記できるわけです。

ただ例えば京都では〇条は残っていますが「里」の表記は残っておらず、西の方から主な通りは
「西大路通」「千本通」「堀川通」「烏丸通」「川端通」「東大路通」などと表示されています。

こうした呼び方は「四条畷市」「奈良県五條市」「新潟県三条市」のように「条」に因む地名も
残っています。一宮市にも三条という地名があり、多分他にもあることでしょう。
京都では有名は「二条城」「二条大橋」などがあります。
骨董市で有名な東寺は9条通、東福寺も9条通です。

話はがらりと変わってお坊さんの「袈裟」も5条とか7条とかいう呼び名があります。
6年ほど前に京都国立博物館で「高僧と袈裟」展が開催され見学に参りました。
最近のお坊さんはキンキラ金のど派手な袈裟を見かけますが、元々は非常に地味な色です。
別名「糞掃衣(ふんぞうえ)」といわれるくらい、人が捨てて顧みない生地を拾い集めて洗い浄め
縫い合わせたものです。

袈裟の歴史は佛教誕生の地であるインドで佛教修行者をほかの宗教の修行者と見分けるための制服です。
その形のモチーフは「田んぼ」です。
仕切りは「あぜ道」
5条は仕事着用、7条は修行のとき普通に着る日常着用、9条は晴れ着用とされています。

主な素材は麻で捨てるような生地ですから小さな布を縫い合わせてあります。
写真はよく判別できるよう派手な色になっていますが、横に7列あり、これを「7条袈裟」といいます。
他にも5条とか9条など様々な袈裟があります。
勿論、縫い方はミシンでなく手縫いです。

また「伝法衣(でんぽうえ)」という師から嗣法の弟子へ、法を伝えた証として授けられた特別な袈裟も
あり、頂いた弟子にとって非常に名誉なことでした。

「条」という言葉は地割と袈裟ではどちらが先に日本に伝えられたのか分かりません。
良寛さんはどんな袈裟を身に付けておられたのかも分かっておりません。
袈裟展では一宮市の妙興寺所蔵品も展示されており、同寺は由緒ある古刹なんですね。

お誘いの断り方「良寛」と「夏目漱石」の場合

2016-01-09 19:11:04 | 良寛


人それぞれ、お誘いなどを受けた時の断り方があるようです。

良寛の場合。
越後長岡藩の第9代藩主・牧野忠精(ただきよ)は稀代の明君をもって聞こえていました。
牧野忠精は青年のころから幕閣に仕え、寺社奉行、大坂城代など要職を歴任しています。

その牧野忠精が領内の巡視を行い、文政2年(1819年)ついでに良寛の住んでいる国上寺に参詣し、良寛の
高徳を聞き及び、良寛に
「長岡に寺を建立して良寛禅師をお迎えしたいが」と申し入れをいたしました。

良寛はつつしんで聞いていましたが、だまって紙と筆をとり

「焚くほどは 風が持てくる  落ち葉かな」

と、さらさらと一筆して忠精の前に差し出しました。

忠清は無理にすすめることは迷惑と悟り、そのまま立ち去ったといわれています。

そして夏目漱石の場合
1907年(明治40年)西園寺公望が私邸に著名な文学者を招待して歓談の宴を催そうとし、森鴎外、坪内逍遥、
二葉亭四迷、幸田露伴、泉鏡花などと一緒に夏目漱石にも招待しました。
これは政治的でもなく、単なる歓談の席ですが夏目漱石は断りました。
「虞美人草」の執筆のためと称していますが、本音は嫌だったのです。

「時鳥(ほととぎす)厠半ばに 出かねたり」

トイレの途中というわけです。

実は夏目漱石は博士号授与などお上の姿勢には強い不快感を持っていた、とされています。

因みに漱石は良寛の書を欲しくてたまらず、様々な手段を使っています。

ふたりには何か共通点があるようですね。

写真の城は長岡城です。

緒方拳と良寛さん

2015-12-12 16:35:23 | 良寛


1987年に解散となった新国劇。
時代劇を中心にして一世を風靡しましたが看板役者、辰巳柳太郎・島田正吾の後継者作りに失敗し両巨頭が亡くなって
あえなく解散となりました。

ご存知のように緒方拳は新国劇でスタートを切り、40代以降は映画を中心にして活躍、71歳という若さで亡くなりました。
舞台で鍛え、下積み苦労も多かったため、どんな役も演じることのできる数少ない個性派の性格俳優でした。

その緒方拳は書でも独自性を発揮し、亡くなってからも人気は衰えません。
無骨な字ですが骨格があり、緒方拳の人柄を表しています。

書は中川一政に私淑し、熊谷守一にも傾倒したと伝えられています。
6年ほど前に名古屋・御園座の近く、名古屋画廊で遺作展があり、足を運んだ記憶があります。

ご紹介の「裏をみせ おもてをみせて 散るもみじ」は良寛さんの句で、辞世の句ともいわれています。
緒方拳は良寛さんとどのような縁があったのでしょうか。

丁度、今月12月はNHKテレビで「100分で名著」で「良寛詩歌集」が放映中です。
毎週水曜日・午後10:00-10:25(再放送もあります)
ご興味あればご覧ください。
この番組には緒方拳に関係する事柄は出てまいりません。
写真の手形がある作品は中川一政の書です。

冒頭の句の経緯は、良寛さんは晩年、貞心尼と師弟関係があり良寛さんが重篤になったころ良寛さんに歌を呈しました。
「生き死にの 界(さかい)はなれて 住む身にも さらぬ別れの あるぞ悲しき」
良寛さんは自分のいいところも、悪いところも、飾らずにすっかり見せたから思い残すことはない、という意味です。

これも良寛さんが傾倒した「荘子」の無為自然に通じることがあると思われます。

良寛さんは説教もせず寺も持たずでしたが詩歌と書を残し、緒方拳も書でもって生きてきた証しが残されているわけです。