精神世界(アセンションについて)

このブログの内容は、色々なところから集めたもので、わたくしのメモであって、何度も読み返して見る為のものです。

釈迦の言葉 2

2011年01月08日 | Weblog
『愚かな者』

 旅に出て、もしも自分よりすぐれた者か、または自分にひとしい者にであわなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。
愚かな者を道連れにしてはならぬ。


 愚かな者は生涯賢者につかえても、真理を知ることがない。
匙が汁の味を知ることができないように。


 聡明な人は瞬時のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。 
- 舌が汁の味をただちに知るように。



『老いること』

 学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。
彼の肉は増えるが、彼の知恵は増えない。



『自己』

 先ず自分を正しくととのえ、ついで他人を教えよ。 
そうすれば懸命な人は、煩わされて悩むことがないであろう。


 みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。
浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。
人は他人を浄めることができない。



『汚れ』

 恥を知らず、烏のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心の汚れた者は、生活しやすい。



『道を実践する人』

 多く説くからとて、その故に彼が賢者なのではない。
こころおだやかに、怨むことなく、怖れることのない人、- かれこそ <賢者> と呼ばれる。


 頭髪が白くなったからとて <長老> なのではない。
ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。


 誠あり、徳あり、慈しみがあって、損なわず、慎みあり、みずから調え、汚れを除き、気をつけている人こそ 「長老」 と呼ばれる。



『尊敬』

 芭蕉は実がなると滅びてしまう。
竹や蘆(アシ)は実がなると滅びてしまう。
メスのロバは自分の胎児の為に滅びてしまう。
そのように、悪人は尊敬を受けると滅びてしまう。

 
 愚かな者は知識が生じても、ついに彼には不利なことになってしまう。
それは愚かな者の好運を滅ぼし、彼の頭をうち砕くであろう。

 
 たといその修行僧が三種の明知を体現していて、死を打ちのめした者であり、汚れがないとしても、無知なる者どもは、「彼は人に知られていることが少ない」といって、彼を見下す。

 
 この世で食物や飲料を(多く)所有している人は、たとい悪いことを行っていても、彼は(愚かな)人々から尊敬される。


 (修行僧に対してなされる世の人々の)尊敬のうちにはこの災いといい気な危険のあることを知って、
修行僧は、人々に知られること少なく、無欲で、気をつけて、遍歴せよ。


 たとえためになることを数多く語るにしても、それを 実行しないならば、その人は怠っているのである。
牛飼いが他人の牛を数えているように。
彼は修行者の部類に入らない。


 たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法に従って実践し、心が解脱していて、執着する事のない人は、修行者の部類に入る。


 うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いモノがあるように、良く説かれた言葉でも、それを実行しない人には実りがない。

 うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるモノがあるように、良く説かれた言葉も、それを実行する人には実りがある。




『怒り』

 アトゥラよ。これは昔にもいうことであり、いまに始まることでもない。 
沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、少しく語る者も非難される。
世に非難されない者はいない。

 ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう。現在にもいない。




『楽しみ』

 もろもろの聖者に会うのは善いことである。
彼らと共に住むのはつねに楽しい。
愚かなる者どもに会わないならば、心は常に楽しいであろう。

 愚人と共に歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。
愚人と共に住むのは、常につらいことである。- 仇敵とともに住むように。 
心ある人と共に住むのは楽しい。 - 親族に出会うように。