精神世界(アセンションについて)

このブログの内容は、色々なところから集めたもので、わたくしのメモであって、何度も読み返して見る為のものです。

苦しみの経験と目的、そして真実の愛について(その1)

2008年02月29日 | Weblog
#106 苦しみの経験と目的、そして真実の愛について(その1)

http://www.azlivinglight.com/archives_2007.htm より


苦しみの経験と目的、そして真実の愛について(その1)

2007-4-10
                         By Ronna Prince

サナンダより~

あなたが十分承知しているすべてのレッスンは、スピリチュアルな
効力となる『愛』に基づいたものであり、苦しみに基づいたものでは
ありません。あなたがたは、その天分に恵まれているとお伝えしましょう。 

このレッスンは、あなたの身体的な心臓と神のハートを真に繋げます。
では、どのようにして愛のレッスンをするのでしょう。

まず、あなたの魂が体験を求めます。意識的であれ、無意識にであれ選択
し、行動(反応)します。あなたが体験した後、マスター達が指導します。
前にではなく、後にです。これがキリストのハートからくる真の体験の性質
です。あなたがたの体験を私たちはしません。ここにいて、あなたが私たち
の愛にオープンになったとき、あなたのハートを指導します。

道を歩み続ける勇気とは、残りの生涯、苦しみに耐えるためのものでも
なければ、勇敢に死に直面することのためのものでもありません。
今いちどレッスンと向き合うべく神の化身へ戻る勇気です。勇気とは、
神の呼びかけに「はい」と答えるためのものです。

何度も「はい」と言ってください。そうすれば聖なる流れは大なり小なり
素晴らしく展開していくことでしょう。しかし、あらゆるものの背後にある
真実について優れた明晰さで見なければなりません。

霊的に熟達するということは完璧になるということではありません。
否定性を解放し、あなたを導く精霊の働きがハートに入ることを許すこと
です。マインドで批評的したり、分析することではありません。
未知へと至る聖なるインスピレーションの流れに従うことであり、上流へ
泳ぐことでもなければ、慣れ親しんだものへ後戻りすることでもありません。



あなたの務めは思い出すことだけではありません。あなたを侵害した人々
すべてを許し…自らと他者のために憐れみと苦しみのバランスを取り…
そして、あなたの熟達のためにあなたが本当に癒され、十分に回復し、
そう確言することが、あなたの務めです。

キリスト~レディナダの意識に戻るということには、たくさんの意があります
が、ヒーリング・エネルギーという聖なる贈り物を使うことから始まります。
それには相互作用があり、あなた自身のハートと、あなたがこれまでに
出会ったすべてのハートを癒します。
『本当の自分』を思い出し~顕現させること…それは、あなたが本当の
ヒーリング・エネルギーの輝きを煌かせることから始まります。
それは、……許し、バランスを取り、あなたがここですることを確約する
こと……とても深い愛で愛し、とても深い癒しで癒し、とても深い教えで
教えることです。

キリスト~レディナダの意識は、望んできたものを超えた愛です。
なぜなら、あらゆるすべてが熟知されるからです。

キリスト~レディナダの意識は、望んできたものを超えた愛です。
なぜなら、あらゆるすべてが許されるからです。

キリスト~レディナダの意識は、望んできたものを超えた愛です。
なぜなら、あらゆるすべてが癒されるからです。

キリスト~レディナダの意識は、望んできたものを超えた愛です。
なぜなら、あらゆるすべてのバランスが取られるからです。

キリスト~レディナダの意識は、望んできたものを超えた愛です。
なぜなら、あらゆるすべてが聖なるものだからです。

これがあなたがたの務めです。もういちど『One』と再会したいという願いは
気づきと智恵から来るものです。無知や弱さから来るものではありません。
この惑星・地球でのあなたの務めの偉大さに展開されていくものです。
神の呼びかけを受け入れることで、あなたはまさに道に仕える者として
理解を凌ぐ平和な場に入ります。あなたは聖なるものと『One』になり、
『One』より祝福され、『One』を讃えます。



暗闇とは何でしょう。多くの徴候があります。しかし愛するものよ……
暗闇とは結局のところ光の欠如に他なりません。愛の欠如、怖れの容認に
他なりません。それがすべてです。これ以上もこれ以下もありません。
光と闇のバランスを如何に取りましょう?怖れを~より多く欠如・欠乏を
創ることでバランスが取れますか?いいえ、そうではありません。では、
お教えしましょう。光と闇のバランスを取ることとは愛の道に仕えることだと。

#107 苦しみの経験と目的、そして真実の愛について

2008年02月29日 | Weblog
#107 苦しみの経験と目的、そして真実の愛について(その2)

http://www.azlivinglight.com/archives_2007.htm より


苦しみの経験と目的、そして真実の愛について(その2)

2007-4-10
                         By Ronna Prince



憐れみのマリー(マリア)より

あなたは憐れみの愛に包まれています。あなたはひとりではありません。
憐れみとは他の弱さを見る技量であり、その者もまた、自身が同じ事柄に
遭遇しているだけだということを知るということです。ここから愛するように
なれるかもしれません。ここから、すべての人・ことを許すようになれる
かもしれません。たとえ、あなたの最悪の敵だとしても、無知であるが故に
委ねてきてしまった実に愚かな行いをしてきた自分だとしても…すべての
智恵で、すべてを許すことでしょう。

憐れみは常に愛を求めています。愛は、あらゆる全てを癒します。そして
愛の道は、ときに他者を苦しみのプロセスから引き離し、許しへと動かし
ます。これぞグレイスです。これぞ真実です。これぞキリストの復活です。

あなたは素晴らしい力を持つ者です。その力はあなたの意識の~愛の
キャパシティに存在します。あなたが苦しんでいるとき、無力感を抱くでしょう。
それは闇の性質です。創造的な存在~あなたを無力にしておくことは、
闇の思う壷です。


 『Ring-pass-not』は、あなた自身が創ったものなのですよ。それは成長を
通じ、成長を促進する機会を与えるものです。変化とは、苦しまなければ
ならないものではありません。

注) 『Ring-pass-not』とは、霊的・知的・心理的なパワーあるいは意識の
  制限の意。個人が内なる強さとビジョンを喚起し、自らを前進させ、
  個人が背負うカルマによってセットされた制限を超えるまでは通過
  することができない限界。そこを超えたところにパワーがある。

あなたは「苦しんだ」と言わないことです。感情的なストレスを通して変化が
現れることをあなたが選択したのですから。怒りや苛立ち、そのとき行動を
起せない…といった一時の経験は真の苦しみではありません。あなたと
強く深く結びついてきた人々が、聞く耳を持たなかったか・理解しなかった
…そうしたものの欠如ではありません。真の苦しみとは、ことの背後にある
目的を知ることができないときに起きるものです。かようにして、宇宙が
薄情であるとか、神の心は幻想であるとか、あなたがたは結論付けて
きました。が、そのような結論にはグレイスはありません。このようにして
苦しみは創られます。が、経験は成長の機会を創ります。

無限の真実こそ愛です。どれほどあなたが苦しんできたかは、問題では
ありません。どれほどあなたが愛してきたか、が重要なのです。
愛は本当に永遠のものです。あなたがこれまで苦しんできた以上に、
あなたは遙かにずっと愛されてきたのですよ。最強の『Ring-pass-not』が
創られたため、身体的な五感に依存することは自然なことでしょう。が、
多くの人はそこで止まってしまいます。アセンデッドマスターの数が多く
ない理由もそこにあります。多くは十分なまでの霊的感覚上の体験へと
動けず、それを真実だと信じることもできません。彼らは限定された信念
網の罠に陥ります。限定された信念では愛は終わりを迎えます。
なぜなら、愛は依存されるものであり、信用できないものだと信じられて
きたからです。愛こそが創造するもの・愛こそが癒すもの・愛こそが現実
……これぞ真実です。

あなたはまだわかりませんか?あなたの存在の核~コアを知りなさい。
あなたはスピリチュアルな真実を経験するための~自身のキャパシティ
を見誤っていますね。それが、苦しみの礎ではありませんか? 
あなたは、「真実を知ることができない」と…「神を見ることはできない」と
…「天使の顔に触れることなどできない」と……『権威者』たちに教わり、
信じてきました。これを信じてはなりません。あなたが見る神の愛の
ビジョン、光に抱かれたときの晴朗な感覚、あなたの心の中で~静かな・
小さな内なる声を聞いたこと……それこそ真実です。

苦しみとは、他からあなたにもたらされるものではなく、自らがもたらして
いることだと、まだわかりませんか?疑いを手放し、あなた自身の内側の
視覚・聴覚・感覚に通じていてください。これぞスピリチュアルな真実です。
あなた自身の【内なる神聖】を信じなさい。そうすれば、あなたは真実を
知るでしょう。

否定性とは何でしょう。それは、欠乏とあがきを明らかにする【自分では
ない(I Am Not)】ものです。愛することよりも苦しんできたことを信じる
ために具体化されるものです。それは具体的な形で幻想のベールを
強める結果をもたらします。それが始まりです。が、愛しきものよ。
ここにはそのような…終わるものなどありません。『ない』ということと
『終わる』ということは違います。これぞ、霊的に熟達するためのレッスンです。

私は―信頼します。信じ、信じます。これぞ、第三の真実の三位一体…
…そのキーです。 I AM -Trust -Believe

純粋な宇宙意識の海で100%リラックスすることで、あなたはこの苦しみを
手放しました。あなたが信頼している限り、抵抗する必要などありません。

『できる』

2008年02月28日 | Weblog
『できる』


今年の春ぐらいだったでしょうか。

NHKのドキュメンタリー番組を観ました。

ある工場の話です。

この工場の出荷ラインは、責任者以外が

すべて障害者で構成されていました。



特に印象的だったのが、

今日が特別忙しくなることを

朝礼で責任者がひとりずつに

申し伝えをしていくシーンです。



今日はいつもの倍の出荷があるが大丈夫か?

 できます。

 
 きみは?

 できる。

 そっちは?

 できる。


全員が間髪入れずに「できる」って返事をするのです。

そしてその結果、ちゃんと出荷に間に合ってしまう。


この工場長は、障害者雇用にチャレンジしてから

出荷ミスが大幅に減り、効率もアップしたと喜んでいました。



私だったら、何と返事するのだろう・・・


 できるだけのことはやります。
 
 やるだけやってみます。

 ・・がんばります。


どう考えても「できる」という言葉は出てこない。


“心の健常者”は彼らの方だ。


そんなことを考えさせられました。




『世界最強のオヤジ』

2008年02月28日 | Weblog

【世界最強のオヤジ】

http://www.youtube.com/watch?v=f4B-r8KJhlE

ディック・ホイト氏は、障害を持つ息子のリックを車椅子で押して、32.195kmを 82回も走った。
そのうちの8回は、フルマラソンに加えて、ボートに乗せた息子を引っ張りながら4km泳ぎ、その後に今度はハンドルバーに座らせて180kmも自転車をこいだ。
しかも、全部たった1日の内にやってのけたのだ。

クロスカントリースキーでも息子を引っ張たかと思えば、今度は背中に負ぶって山を登る。一度なんて、二人は自転車でアメリカ大陸を横断した。
ディックを見ていると、自分の悩みなんて、本当にちっぽけなものに思えてくる。

代わりにリックが父親のためにしてあげたことといえば、大したことはない。
しいて言えば、父の命を救ったことぐらいだろうか。

この愛の物語は43年前、マサチューセッツ州ウィンチェスターで始まった。出生時にへその緒が首に巻き付いていたリックは、脳に障害が残り、四肢を動かすことが出来なくなった。生後9ヶ月の時、ディックと妻・ジュディに医師は宣告した。「一生、植物人間状態です。施設に入れなさい」と。

でもホイト夫妻は耳をかさなかった。息子が、部屋の中を移動する両親を目で追っていることに気づいたのだ。リックが11歳の頃、二人はタフト大学の工学部へと息子を連れて行き、この子が意思疎通できるよう手を貸してくれないかと請願した。「無理ですよ。彼の脳は全く機能していませんよ。」そう返事が返ってきた。「それじゃ、何かジョークを言って下さい。」父は食い下がった。彼らはその通りにジョークを言い、リックは笑った。実際には、彼の脳は活発に機能していたのだ。

スイッチに振れることでカーソルを動かせるコンピュータをリックの頭の横側に取り付けることにより、ついに彼は意思疎通できるようになった。最初の言葉?それは「行け!ブルインズ(ボストンのホッケーチーム名)!!」だった。

高校の同級生が事故で全身麻痺になり、チャリティーマラソンが開催された。それを聞いたリックが言葉を打った。「父さん、僕もやりたい。」

まさか!自他共に認めるデブっちょで、一気に1kmも走れないような男が、どうやって息子を押して8kmも走るっていうんだ?! それでもディックはやってみた。走った後、今度はディックの方がハンディキャップを負ったと言う。「2週間、体中が筋肉痛でもう。。。」

でも、その日がリックの人生を変えた。「父さん、」息子が父に言った。「一緒に走っている時、僕、自分が障害者じゃなくなったような気分になったよ!」

今度はその一言が、ディックの人生を変えた。父は、息子にその気分を出来るだけ与えてあげることに取り付かれた。おかげでディックの腹はぺたんこに引っ込み、二人は1979年のボストンマラソンに出場するべく、練習に励んだ。 「まさか、無理ですよ!」マラソン事務局に撥ね退けられた。ホイト親子は、一人で走るわけでもなければ、車椅子走者というわけでもないからだ。その後数年間、仕方なくディックとリックはその他の小規模なマラソン大会に参加して、とにかく走った。そしてそのうち、正式にレースに参加する方法を見つけた。1983年のあるマラソン大会で、二人はあまりにも早く走ったので、翌年のボストンマラソン出場資格のタイムに達してしまったのだ。

「トライアスロンに出場してみたらどうだ?」あるとき、友人がディックに言った。泳ぎ方も知らない、6歳以来自転車のペダルをこいだこともない男が、どうやって50 kgの息子を引っ張ってトライアスロンに出場するっていうんだ?! でもやっぱり、ディックはやってみた。

二人はこれまで、もっとも過酷とされるハワイのアイロンマンレースを含むトライアスロンに 212回 も出場している。ボートに乗せた成人男性を引っ張る老人に、25歳のマッチョマンが、追い抜かされてしまう図。そりゃ、へこむだろう~。 「一人で走ってどんな結果がでるか、やってみたらどうだ?」「まさか!やだね。」ディックは即答する。彼が走る理由はひとつ。共に走り、泳ぎ、漕ぐ中で息子が見せる、ひまわりのような笑顔が見れた時の、あの「最高の気分」に浸るため。ただ、それだけなのだ。

今年、65歳と43歳のディックとリックは、第24回ボストンマラソンで、参加者2万人中5083位でゴールした。自己ベストは1992年の2時間40分で、世界記録から35分しか離れていない。念のために言っておくが、この世界記録保持者は、車椅子の男性を押しながら走っていたわけではない。

「疑う余地も無く、僕の父さんは今世紀最高の父親だよ。」そうリックはタイプを打つ。

一方、ディックの方でも、これまでのレースで得るものがあった。2年前のあるレース中、軽い心臓発作を起こした。医師の診断で、なんと動脈の95%が血栓で詰まっていることがわかったのだ。「これほどの健康体でなかったら、あなたは15年以上も前に亡くなっていてもおかしくはない。」そう医師は言っていた。

つまり、ディックとリックはお互いの人生を救いあったというわけだ。

現在リックは、ホームケアを受けながら一人でアパートで暮らし、ボストンで働いている。ディックは軍を退役し、マサチューセッツ州ホランドに在住。でも、二人は出来るだけ共に時間を過ごすようにしている。全国で講演を行う一方で、過酷なレースに毎週末一緒に出場している。もちろん、父の日もまたしかり。

父の日の晩、リックは父に夕食をおごる予定だが、彼が本当に贈りたいものはお金では決して買えないものだ。「僕が一番あげたいものはね…、今度は父さんを車椅子に座らせて、一回でもいいから押してあげたいんだ。」そう彼はタイプを打った。

(脚注: リックは顔を移動させることで、カーソルを移動させ、頭でリターンキーを押すという重度障害者のための特殊なパソコンを自由に操ってコミュニケーションをとっている。)



魂を丸く整えよ   木華佐久耶姫  神示

2008年02月28日 | Weblog
宇宙創造神の奥様?(意識的)である、天之御中主神の化身である
「木華佐久耶姫(このはなさくやひめ)」の神示


魂を丸く整えよ

暖冬のツケ多大なり。
思わぬ事態をやがては引き起こすなり。
虫、魚、様々な種類の生物、異常発生。毒物含むものもあるなり。
反対に大量死もあり。
思わぬウイルス引き寄せる可能性もあるらん。
加えて医者不足にて、被害者となるは年老いたものや、幼き子供なり。
そを未然に防ぐは、自然治癒力を高め、家を清浄に保ち、
バリヤをつくる事にあり。
暖冬は思わぬ事態もたらすらん。
虫、魚類異常発生するは、地球形態崩れさりつつあることの警告なり。
月の明かりも昔の月とは変りゆく。
浄化の力にて富みに輝き美しき。
されど、月の役割も強められし。怪しき光にて照らしはじめる時注意すべき。
人間の心も、思いも乱れ、かき乱され、おもわぬ事件事故起こるものなり。
体に病抱えし者、心に病潜みし者、表面化されん。
そを避けるには自分にもバリヤを作るべし。
バリヤを強く保ち、マイナスの影響跳ね返すは、魂の形を丸く丸く整えよ。
魂がいびつなるは己のオーラ弱まりて、たやすくマイナスの影響受けるものなり。
自分の身は自分で守るべし。

四季   木華佐久耶姫  神示

2008年02月28日 | Weblog
宇宙創造神の奥様?(意識的)である、天之御中主神の化身である
「木華佐久耶姫(このはなさくやひめ)」の神示


四季

日本の象徴たる四季は今や、失われつつあり。
地球の特別の傾きにて授かりし日本の四季。
四季与えたるは神の恵みなり。
世界の要となりし神の国としての日本に四季ありて、
その民族性に良き意味での曖昧さを与えらるる。
どの国も受け入れ、どの国の文化も受け入れる曖昧なる国日本。
その四季の区別無くなりしは民族性も変りゆき、危機伴うものなり。
どの国にも見られぬ日本の民族性こそ世界を導けるものなり。
季節ごとに美しい景色があり、それぞれに楽しめる食べ物持つ国、
感情を豊かにし様々な意味で富める国なり。
その四季失われ、人の心も神出づる国、神国日本から遠く離るるは忍びなきことなり。
神が日本に四季を作られしは、世界の要となり他国を導き平和をもたらすようにとの神の御意図なり。
そを人間は浅き知恵にて温暖化起こし、さらに様々な毒にて環境破壊し、破滅へと向うなり。
魂穢れ、堕落するばかりの人間多き。
この地球上の生物、万物全てを一度無にするはたやすきかな。
されど、日本にはこの国を憂い心から立て直さんと願う者もあり。
神はその一握りの人間に望みを託し、さらにその志の輪が広がるをしばし待たれん。
日本の人々よ四季ある国は他にはなき特別の国なり。
四季ありは神の御意図なり。
皆々四季あることの誇りを取り戻せよ。
桜咲かぬ日本など決してあってはならず。
今のままなりては、いずれ桜も咲かぬ国となろうぞ。
神出づる国日本なり。
神の祈りをよくよく心に留め置きて、共に力を合わせて神国日本の心取り戻すべし。

霊界では、愛する人と再会できるのか?

2008年02月27日 | Weblog
霊性進化の道  スピリチュアリズムより引用

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/index.htm


霊界では、愛する人と再会できるのか?

地上で一緒だった人も霊界では別々の界層に入り、しかも異なる界層間では交流やコミュニケーションがないということになると、自分の愛する人とは二度と会えなくなってしまうのでしょうか。地上世界における愛の関係は、霊界ではもろくも消え去ってしまうのでしょうか。もし霊界に入ると同時に、地上での愛情関係がなくなってしまうとするなら、霊界とは何と寂しい所なのでしょうか。

私たちが霊界の界層の実態を知ったとき自然と湧き上がる疑問は――「今の愛情関係は死後どうなるのか?」「愛する人と再会できるのか?」ということです。


霊性が違うと、霊界では別々の界層に

2008年02月27日 | Weblog
霊性進化の道  スピリチュアリズムより引用

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/index.htm


霊性が違うと、霊界では別々の界層に

一人一人の霊的成長レベルに応じて死後の行くべき界層が自動的に決まるということは厳粛な霊的事実であり、誰もこれを曲げることはできません。地上において愛し合った家族が「死後も一緒に住みたい、同じ界層に行きたい」と願っても、霊的成長レベルが違っていれば、それは不可能なのです。

地上に近い幽界では本人たちが希望すれば、しばらくの間は地上時代の延長として家族関係を維持したり夫婦関係を持つことができます。しかし幽界での生活を通して地上臭が取り除かれ、霊的自覚が芽生えるようになると、それぞれが自分に見合った霊界の界層へと巣立つことになります。そして自動的に地上の血縁関係は消滅します。とてもショックなことかもしれませんが、家族や愛する配偶者・兄弟姉妹とは、霊界ではバラバラになってしまうケースがほとんどなのです。大半の家族が死後、別々の歩みをするようになります。

別々の世界に行っても、別離の悲しみはない

2008年02月27日 | Weblog
霊性進化の道  スピリチュアリズムより引用

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/index.htm


別々の世界に行っても、別離の悲しみはない

死後、家族は異なる界層に入り、そこでそれぞれの生活をするようになるということを聞くと、多くの人々が大きなショックを受けるようになります。しかし愛する人と別々の界層に入ったとしても、私たち地上人が予想するような別離の悲しみを味わうことにはなりません。霊界での別離には、私たちが今考えるような苦しみは一切ともないません。それどころか逆に、そのプロセスを自分たちの霊的成長の道として、お互いが喜びを持って受け入れるようになるのです。

こうしたことは今すぐには実感できないでしょうが、霊界に入ったときの私たちは、現在の自分とは全く違う人間になっているのです。霊界では地上時代の愛の関係を大切にしつつも、それ以上に「霊的成長」への願望と関心が強く心を占めるようになります。そのため霊界では、地上世界にありがちな愛にまつわる利己的感情(嫉妬)も存在しなくなるのです。

*地上で相思相愛の“おしどり夫婦”と言われた片方(妻)が先に他界したようなとき、霊界から地上に残された夫に通信を送り、再婚を勧めるようなことがあります。霊界に入って視野が広がると、地上時代の考え方は大きく変化するようになりますが、この場合などはそのよい例と言えます。

界層は別々でも、愛情関係はなくならない

2008年02月27日 | Weblog
霊性進化の道  スピリチュアリズムより引用

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/index.htm


界層は別々でも、愛情関係はなくならない

本当の愛情関係がある場合には、死後その関係はなくなるどころか、さらに何倍もの強烈で密接な絆で結ばれるようになります。地上で真実の愛で結ばれた者同士においては、霊界で異なる界層に行くことになっても悲しみは生じないのです。たとえ住む界層は別々であっても、お互いの親しさはますます強くなり、喜びはさらに大きくなります。そのため霊界では、別離を悲しむというようなことは現実には全く存在しません。

真実の愛でないときは、会うことはない

2008年02月27日 | Weblog
霊性進化の道  スピリチュアリズムより引用

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/index.htm


真実の愛でないときは、会うことはない

一方、地上時代の人間関係が単なる肉体的つながりや血縁的つながり、または社会的な習慣だけのつながりであった場合には、霊界ではその関係はすぐさま消滅してしまいます。本当は嫌いだったのに世間体を気にして夫婦関係を維持していたような場合には、霊界に入ると同時にその2人のつながりは完全になくなってしまい、二度と会うことはありません。

つまり「利他愛」という本当の愛だけが、霊界において人間同士を結びつける絆になるのです。地上ではとかく血縁関係や家族関係が重要視されますが、霊界では、そうした単なる肉体的つながりは何の意味も持ちません。

誰でも自分の家族を大切にし、家族に対する愛情を持っているのが普通ですが、その愛情も霊的な段階にまで高められていなければ永続性を持つことはできないのです。家族(血縁)の愛以上に、もっと崇高で次元の高い愛(霊的愛)を身につけていなければ、家族のつながりを保つことはできません。血縁や家族の関係の中に“霊的絆”が芽生えるようになったときに、初めて夫婦・家族の関係は霊界でも持続されるようになるのです。


霊界での新たな霊的家族の形成

2008年02月27日 | Weblog
霊性進化の道  スピリチュアリズムより引用

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/index.htm


霊界での新たな霊的家族の形成

霊界では一定の霊的進化をなすと、霊性の等しい霊たちが集まってグループを形成し、共同生活を送るようになります。同一界層の中には、こうした霊的グループが数多く存在しています。そこでは互いの心が1つとなって、まさに文字どおり一心同体となった「霊的家族」を形成します。この霊界においてつくられる霊的家族の親密さと一体感は、地上のどのような人間社会やグループ・家族も及びません。

こうした霊界での霊的家族の中では、思考と感情と喜び・幸福感が全員で共有されるようになります。霊的レベル・精神的レベルにおいて、完璧とも言えるような一体性が形成されるようになります。そしてグループのメンバー全員が、各自の霊的成長を求めると同時に、グループ全体の霊的成長のために貢献することになります。

この霊的グループ(霊的家族)がつくり上げる共有魂が、次の7章(類魂と再生について)で取り上げる「類魂」なのです。「類魂」の存在は、スピリチュアリズムによって初めて明らかにされた霊界最大の奥義の1つです。

地上の男女愛の実態――利己愛・肉体本能愛の支配

2008年02月27日 | Weblog
霊性進化の道  スピリチュアリズムより引用

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/index.htm


地上の男女愛の実態――利己愛・肉体本能愛の支配

人間同士の真の愛情とは、「魂と魂の結びつき」のことです。すなわち“霊的愛”という「霊と霊の絆」のことなのです。そしてこの霊的な結びつきがあるときのみ、地上の男女・夫婦は、霊界でもその関係を維持することができるようになります。

愛し合う地上の男女は、自分たちの愛の純粋さに疑いを持ちません。心から相手を愛している、自分たちの愛に不純さはないと確信し、運命をともにしたいと思っています。ところがその地上の男女愛の大半が、霊界から見ると本当の愛とは言えないのです。特に“恋愛”の場合、その本質は肉体本能に基づくものであって真実の愛から最も懸け離れています。そこにあるのは肉体と肉体の結びつきであり、“性欲”という肉体本能に由来するものとなっています。

残念ながらほとんどの地上の男女愛は、霊的なもの・利他的なものではありません。その愛の本質は“利己性”です。激しい男女愛――恋愛の本質は“独占欲”であるために激しく燃え上がり、同時に“嫉妬”という醜い感情を生み出すことになります。地上の男女愛に嫉妬という苦しみがともなうのは、それが霊的愛ではなく摂理に反した利己的なものだからです。

地上の男女・夫婦のゆくえ

2008年02月27日 | Weblog
霊性進化の道  スピリチュアリズムより引用

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/index.htm


地上の男女・夫婦のゆくえ

もし地上の男女・夫婦の間に霊的な結びつきが全くなく、単なる肉体レベル・本能レベルだけの関係でしかないとき、あるいは世間的な体裁から嫌々一緒になっていたような場合は、死とともに完全に別々の世界に住むことになり、二度と会うことはありません。イエスが“あの世では嫁にやったり娶ったりすることはない”と述べたのは、地上のような肉体的な結婚は霊界にはない、ということだったのです。

また愛し合いながらも一緒になれない男女が心中したような場合も、死後は別々の暗闇の中に置かれ、お互いに顔を見ることもできなくなります。神から与えられた生命を自ら捨て去り、霊的成長のチャンスを逃すということは、最も大きな罪を犯すことになるからです。あまりにも霊的に無知な物質的判断からの行動であるため、暗闇の中に自分を閉じ込めてしまうようになるのです。

利己愛・本能愛による地上の男女の結びつきは、霊界では持続することはありません。長年連れ添った夫婦が、恋愛感情やこの世的な利己愛を乗り越えて、わずかであっても“霊的愛”を芽生えさせたときには死後、幽界で夫婦としての再会を果たし、しばらくの間ともに生活するようになります。

幽界では地上の愛が拭い去られ、純粋な霊的愛のみが残されるようになります。そのため、いったん幽界で再会し生活をともにした夫婦も、やがてお互いの霊性に応じた界層へと旅立つことになります。

それぞれが別々の界層へ旅立つ

2008年02月27日 | Weblog
霊性進化の道  スピリチュアリズムより引用

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/index.htm


それぞれが別々の界層へ旅立つ

2人が自分にふさわしい界層へ旅立つときには、もはや地上のような男女愛・夫婦愛は一切存在しなくなります。しいて言うならば、友だち関係といったものになります。相手を眺める眼差しは、親友に対するような感覚に変わるのです。こうして幽界から霊界の界層に旅立つ時点をもって、それまで続いてきた夫婦関係は終了します。

とは言っても生活の場所が別々になるだけであって、お互いの間に霊的絆・霊的愛があるかぎり、その結びつきは維持されることになります。それは仲のよい友人同士が、それぞれ海外で生活するようになっても愛情関係がなくならないのと同じです。必要なときには会うことができますし、連絡を取り合うこともできます。霊界での別々の生活と愛情関係もこれと同じです。

それぞれの行き先となる界層には、これまでには出会うことがなかったような最高の友人・仲間がいて、深い愛情関係を結ぶようになることが分かります。新しい霊的家族の仲間入りをすることが分かるのです。そのため霊界での夫婦の別離には、悲しみが一切ともなわないどころか、反対に喜びと期待で心が占められるようになるのです。

霊界で、地上の夫婦が一緒になることができるのは、お互いの間に霊的絆があるときに限られます。しかもその関係が、それぞれの霊的進化を援助し合い、霊的成長を促すようになる場合に限られます。“霊的愛”とは、お互いの霊的成長を最優先し、それを願うことに他なりません。こうした関係が「霊的親友」ということであり、そこには地上的な男女・夫婦の要素は全く存在しません。霊界での人間関係は、男と女、夫と妻の関係ではなく「霊的兄弟同士」の関係になります。このような霊的愛・霊的絆が2人の間にあるときのみ、霊界でも交流が維持されることになります。しかし現実には、そうした夫婦はめったにいるものではありません。きわめて稀なことであると言っても過言ではありません。

仮に霊界の界層でともに生活することが許された夫婦であっても、霊界での生活を通してそれぞれが霊的成長し、もはや互いに資するものがなくなる段階を迎えるようになります。すると両者は分かれて別々の界層に入り、異なる霊的家族の一員となります。こうした霊界での別離には、すでに述べたように何の悲しみもともないません。なぜならそれぞれが相手の霊的成長を何よりも願い、同時にそうした本当の愛情が、お互いの心をより深く通い合わせるようになることを知っているからです。