http://mainichi.jp/articles/20160815/k00/00m/040/123000cより転載
ヒロシマの加害語る 学徒動員され毒ガス製造
毎日新聞2016年8月14日 22時44分(最終更新 8月14日 23時40分)
![](http://cdn.mainichi.jp/vol1/2016/08/14/20160814hpj00m040021000q/9.jpg?1)
原爆被害の重い苦しみを負いながら、学徒動員で毒ガス製造に関わった体験から自らの加害責任を語り伝える女性がいる。「戦争で受けた苦しみを知るからこそ、加害者としての責任も語り継がなければならない」。8月15日は終戦記念日。【高田房二郎】
広島県三原市の元美術教諭、岡田黎子(れいこ)さん(86)は、高等女学校に通っていた1944年秋、瀬戸内海の大久野島(同県竹原市)へ動員学徒として派遣された。旧陸軍は29年からこの島で、国際法で禁じられた毒ガスを極秘裏に製造。日中戦争で生産量は急増し、最盛期には5000人以上が島で働いたとされる。
「ここで見聞きしたことは、家族にも言ってはいけない」。軍人からそう厳命され、何を作っているかは一切知らされなかった。
ある時、空襲時に使うようにと配られたガスマスクを試着した生徒が「顔がひりひりする」と騒ぎに。周辺の松は枯れ、工場の排煙を吸うと頭痛がした。そんな話から「毒ガスを作っているらしい」とうわさになった。不安を感じつつ、薬品が入ったドラム缶運びやガスを詰める筒作りに追われた。
45年8月15日、日本の敗戦で戦争は終わり動員は解除に。しかし数日後、原子爆弾で壊滅的被害を受けた広島へ救護に行くよう校長命令が下り、同県廿日市市の救護所で、食事作りにあたった。被爆者たちが次々に息を引き取り、配った食事が枕元に手つかずのまま残された。
約2週間で任務を終えると、原因不明の発熱や下痢、出血が続いた。原爆症だった。体調の波は長く岡田さんを苦しめた。
戦後、京都の大学を出て教壇に立った岡田さんは、積極的に戦争体験を語った。
昭和が終わる頃、島での体験をまとめた画集を発行。制作の過程で、毒ガス兵器が中国で被害を与えたことを知り、中国の大学や戦争資料館などに製造に携わった者として謝罪の手紙を添えて送った。
これまでに3冊の画集に体験をつづり、平和集会などで講演を重ねてきた。島での体験を描いた絵は島内にある毒ガス資料館で公開されている。
「広島は原爆の被害が強調されがちだが、私たちには戦争に加担した事実もある。戦争は被害、加害の両面を一般市民にもたらすということを知ってもらい、平和が続くよう話し続けたい」
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大久野島毒ガス資料館紹介 - 竹原市
【大久野島の過去】 大久野島は広島県竹原市忠海町の沖合い3kmに位置し,数戸の農家が耕作を続ける島でした。昭和2年には,島全体が陸軍の毒ガス製造を目的として管理下となりました。昭和4年には,東京第二陸軍造兵廠火工敞忠海兵器製造所による毒ガスの製造が始まり,昭和20年まで続けられていました。 日本軍が毒ガスを製造していたということは,昭和59年(1984年)まで日本ではほとんど知られていませんでした。化学戦の実態は慎重に秘匿され,旧軍関係者以外の日本人はほとんど事実を知らなかったのです。昭和59年(1984年)に日本の化学戦実施に関する報道がされて以来,日本の毒ガス兵器の研究開発は旧陸軍化学研究所(東京),大量製造したのは大久野島(広島県竹原市),充填は曽根(福岡県北九州市),化学戦の運用、訓練には旧陸軍習志野学校,といった日本の化学兵器の構図(陸軍習志野学校史)が明らかにされています。 【大久野島の現在】 大久野島は休暇村として開発され国民の保養地となり,往時を偲ばせるものはわずかに砲台跡・発電場・毒ガス貯蔵庫など数少なくなっています。この島で毒ガスを製造した過程で多くの犠牲者を出すに至ったこと,この痛ましい事実を今に伝えるため,関係各位からよせられた当時の資料を展示して毒ガス製造の悲惨さを訴え,毒ガス兵器をこの地から絶滅させ,平和な世界の確立を希求しています。 大久野島毒ガス資料館は,広島県,関係市町並びに障害者団体のご理解とご協力により昭和63年に建設されたものです。近くには,大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑が昭和60年(1985年)に建立され,安らかな永眠を祈願すると共に,恒久平和を念願しています。
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