異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

言論宗教の自由が保障され、ひとりひとりの人権が尊ばれ、共に生きることを喜ぶ、愛すべき日本の地であることを願う。

[インタビュー]慰安婦問題を貿易のように交渉すべきではない

2015-12-31 19:43:38 | 戦時中性奴隷 慰安婦

http://japan.hani.co.kr/arti/international/22927.html より転載

[インタビュー]慰安婦問題を貿易のように交渉すべきではない

登録 : 2015.12.31 00:24修正 : 2015.12.31 08:16

アレクシス・ダデン米コネチカット大学教授

「少女像の移転を求めるのは笑える話 
日本が植民地官僚の銅像の撤去を求められたら、撤去するだろうか」
アレクシス・ダデン米コネチカット大教授=牙山政策研究員提供//ハンギョレ新聞社

 安倍晋三政権による歴史歪曲の試みについて、今年初めに世界の歴史学者の批判声明を主導した、コネチカット大学のアレクシス・ダデンン教授は、韓日による慰安婦の合意と関連し、「歴史問題と関連した政治的合意を『最終的な』解決と主張するのは不可能だ」と強調した。

 ダデン教授は28日(現地時間)、ハンギョレとの電子メールインタビューを通じて「歴史問題は貿易交渉や核兵器システムの交渉とは全く異なるものだ」として、このように述べた。両国政府が今回の合意について、「最終的かつ不可逆的な解決」を宣言したこと対して、批判的な立場を示した。

 ダデン教授はまた、今回の韓日間の合意で慰安婦少女像(平和碑)の移転問題が取り上げられていることに関連し、「笑える話」だとし「韓国を植民地化し、支配するために積極的に関与していた人々の銅像が、日本の至る所にあるが、韓国政府がこれらを撤去するように求めたら、どうなるだろうか」と反問した。また「少女像は残酷さに曝された数多くの被害者を追悼するために韓国の市民団体が建てたもの」とし「(少女像の移転を)韓国政府が受け入れることも、日本政府が要求することも、あってはならない」と強調した。

 ダデン教授は「(慰安婦)被害者たちの歴史を、(現実ではなく)歴史として捉えられるようになった幸運な私たちが、被害者に『この程度でいい』と言うべきではないという点を理解することが、本当に重要だ」として、合意案が慰安婦被害者たちが受け入れられる内容でなければならないと強調した。

 このような観点からダデン教授は、「被害者が自分の歴史や今回の合意に対する懸念、他の結果を望んでいることなどと関連し、意見を述べられるようにすべきだ」として、「このような場合のみ、韓国だけではなく、中国や台湾、フィリピン、ミャンマー、オランダなど、日本帝国主義時代におけるすべての地域の被害者たちに、より生産的なものになるだろう」と述べた。彼女はこのような過程が「政策の立案過程と同じでないが、社会の結束を維持するために非常に重要である」と付け加えた。

ワシントン/イ・ヨンイン特派員(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力: 2015-12-30 19:30

http://www.hani.co.kr/arti/international/america/724150.html訳H.J

 

 


吉永小百合が安倍政権が掲げる「1億総活躍社会」に苦言~福島へ帰れない人が10万人以上いる

2015-12-31 19:09:54 | 福島、原発

http://news.livedoor.com/article/detail/11014785/より転載

ざっくり言うと

  • 30日の番組で吉永小百合が、安倍晋三政権のスローガンに苦言を呈した
  • 「まだ福島の人たちが10万人以上も故郷に帰れないでいる」と吉永は指摘
  • 「1億総活躍とか言ってはいけないんじゃないかなって気がする」と語った
吉永小百合
30日放送の「報道の日2015」(TBS系)で女優の吉永小百合が、安倍政権の目標として掲げられている「1億総活躍社会」に苦言を呈する場面があった。

番組VTRでは「吉永小百合とたどる戦後70年」と題し、司会の関口宏と吉永が、対談形式で戦後の日本の歩みを振り返った。その中で、2011年3月11日に発生した東日本大震災の話題になると、関口は吉永に震災時の状況を訊ねた。

当時、渋谷にいたという吉永は、急にめまいのような揺れに襲われたと話す。直前に歯医者で打った麻酔の影響だと勘違いするほどだったそうだが、周囲の店から人が飛び出してきたため、地震だと気付いたのだという。

「それから後に、大変な津波が起こってね、しばらく置いてから原発の事故を知って…」と話す吉永に、関口も「多くの日本人が引きずってますよ。あのショックは」と語りかけた。

すると吉永は「忘れちゃいけないことだと思いますよ」「特に、まだ福島の人たちが10万人以上も故郷に帰れないでいるってことを忘れて、1億総活躍とか言ってはいけないんじゃないかなって気がする」と、安倍政権の掲げるスローガンに苦言を呈した。

吉永は、被災地の帰還困難区域にも足を運んだことを明かしたうえで「放射性廃棄物がビニールみたいな大きな袋に包まれて、田んぼや畑に置いてあるんですよね」「それは、どうにもならないくらい、辛い光景でしたね」と、声を絞り出すように語った。

さらに吉永は「原発のこともみんなで痛みを分かち合わないと。『私たちは汚染が怖い』とかじゃなく、この国に暮らしてる人たちがもっと考えていかないといけないと思う」と訴えた。

 

 


あの戦争を生き残った私からあなたへ

2015-12-31 18:51:42 | 平和 戦争 自衛隊

ポリタスhttp://politas.jp/features/8/article/475より転載

あの戦争を生き残った私からあなたへ

  • 飯田進 (社会福祉法人「青い鳥」名誉顧問/元BC級戦犯)
  • 2015年12月31日

あの戦争とは何だったのか。

あれが「防衛のための戦争」であったという見方は根強くある。しかし他方で、あれが「侵略戦争だった」と言われれば、そう思われる歴史的な筋もないことはない。

そのように世の中を二分するような全く異なる見解があるとき、正邪を軽々しく論ずるわけにはいかない。いずれの立場にも考えがあり、部分的に見ればそれぞれの主張には論拠があるからだ。あの戦争の背景にはかなり複雑な要因があった。それは、70年の時を経た今なおそう思う。

一口に言えば、日本人はそもそも浮き上がっていた。それは誰も否定できないはずだ。

私もその中の一人である。1941年の末に太平洋戦争が始まり、まだ20歳にも満たなかった感受性の強い時分の私は、いわゆる「興亜青年」のはしくれだった。「日本は神国である」という極めて単純な考え方──あまりに神がかり的で、独善的な思想がその背景にあった。

そもそも日本の近代とは、欧米の帝国主義的脅威に対する恐怖と反発の歴史だったともいえる。私が生まれて間もない頃、日本は第一次世界大戦後の深刻な恐慌に見舞われ、たくさんの農村の娘たちが遊郭に売られていった。それほど窮乏していたのだ。若者たちが、欧米列強によるアジア侵略の歴史にいちじるしく正義感を刺激されるには十分な、時代の空気があった。

本当に日本が神国でほかの国が野蛮であったのか、それは違うんじゃないか──そうしたことには思いいたらなかった。

私は苦学して大学に進み、欧米諸国の植民地政策の歴史とそれを変革する方法について学びたいと望んでいた。しかし、戦争勃発によりそれは叶わなかった。間もなくして私は占領地における指導者を養成するための訓練所に入所し、アジア諸国や諸民族の歴史や現状を学ぶことから、言語の習得、剣道や武道の鍛錬ならびに国粋主義の精神教育を受け、優秀な成績で訓練を修了した。

1942年の暮れに海軍ニューギニア民政府に採用されたときには、まさかそこが修羅の戦場になるとは夢にも思っていなかった。一介の愛国青年として、尊王の大義に従い、アジア民族解放のために戦うという理想に燃えていた。18歳で戦地に赴くとき、尊敬する吉田松陰の墓を参り、「松陰先生、どうか私にも貴方がたどられたと同じ危難を与えてください」と祈りを捧げた。純情といえば純情、馬鹿といえば馬鹿だ。そこには紙一重の差しかない。

太平洋戦争中の二百数十万人にも達する戦死者数のうち、最も多いのは敵と撃ち違えて死んだ兵士ではない。日本から遠く離れた戦地で置き去りにされ、餓死した兵士たちなのだ。100万人を超える飢えて死んだ兵士の、その無念がどれほどのものか、想像できるだろうか。

第二次世界大戦中、生存率7%といわれ、最も過酷を極めたニューギニア戦線を、私はかろうじて生き残った。ニューギニア島は日本から南に約5000キロ、オーストラリアのすぐ北にある大きな島だ。面積は日本のおよそ2倍、全体が熱帯雨林に覆われ、現在は島の東側がパプアニューギニア、西側がインドネシアの一部になっている。昼間でも太陽の光が届かない原生林に飢えと疲労が蔓延し、マラリアやアメーバ赤痢などの伝染病を併発した兵士たちが次々と野垂れ死んだ。意外に思われるかもしれないが、熱帯雨林にはバナナなどの果実がたわわに実っているわけではない。映画や漫画の世界とは違って、現実でまともに食べられるものといえば、先住民が栽培している農作物だけだった。補給は長く保たず、兵士は草の芽やは虫類を口にした。

極限状態で、人間とは思えない残酷で愚かな行為がなされた。捕虜の虐待も凄惨であった。それは日本兵だけはない。相手側にも人道に悖る行為が山のようにあった。そうした状況は、太平洋戦域のいたるところで、戦いが始まってすぐの頃から戦後にいたるまで、繰り返し発生した。

終戦を迎え、私は進駐してきたオランダ軍に逮捕され、BC級戦犯としてゲリラ処刑の罪に問われた。猛獣をつなぐような鉄の鎖をかけられて、現地の裁判所に移送され死刑を求刑されたが、最終的に「重労働20年の刑」を受けた。勾引される直前にただ一度、拳銃で自決を考えたが、仲間にさとられて未遂に終わった。それ以後、私は自分の運命に逆らわないことにした。

三畳一間、四方を分厚いコンクリートの壁に囲まれて、銃殺刑の恐怖と戦いながら、私は命がけで本を読み勉強した。狭い独房に光が射す。本のページを繰るごとに、人間としての感性が甦ってくるようだった。

あの戦争は日本の一方的な侵略戦争だったのか、あるいは防衛戦争だったのか。具体的な事実に即して一つ一つ論証する必要があると思った。魂を切り刻むような苦しみに耐えて、考えに考えて、反省に反省を重ねて、煉獄の苦しみを味わった。

何よりも残酷だったのは、やってしまった行為ではなくて、そうせざるを得なかったという一連の成り行きを理解することだった。大東亜戦争の意義を信じて戦場でやってきたことを、全て否定せざるを得なかった。自分の全存在を否定しないと立ち直れないという葛藤。それがどれほど辛いことか、あなたにおわかりだろうか。

だが、今振り返ってみれば、これ以上の勉強の場はなかった。

身を投げて自殺を試みた人間も、何人かいた。みんながみんな、自分の行動について振り返り苦しんでいたかどうかはわからない。敵の復讐のために戦後の報復裁判で俺は殺される──そう考えることは死者に対して大変失礼だ。ある意味でいちばん安直なその考え方に囚われて、そのまま死んだ者も大勢いる。

当時、自分と同じような状況で、若い学徒兵だった大槻隆君がこんな歌を詠んだ。

つきつめて 己に帰る 悲しみを
放つに狭き 壁あつき部屋

戦争のことを忘れるどころではない。日々、身を切り刻むような思いで過ごしてきた。それが、私にとっての戦後70年だ。

朝から晩まで身を切り刻む思いをして人間は生きられるわけはない。しかしそれに耐え、私は後の世を生きる若者たちにあの戦争の記録をきちんと残しておきたい。その思いは日々募るばかりだ。もちろんこれは極めて荷の重い仕事である。しかし、野垂れ死にした兵士たちもまた、それぞれ未来に夢を抱いていた若者だった。彼らの無念の思いを代弁しなければならない。それを伝え得る、私は最後の一人だからだ。

今、私は92歳、もう余命いくばくもないどころではない。

最近、うれしいことがあった。

4年前、私は島根県の山奥にある高校に頼まれて、特別授業を行った。明治時代の無教会派のキリスト教徒、内村鑑三の教えを受けて創立された、山奥の小さな、小さな学校だ。出雲空港から車で2時間以上かけてようやくたどり着いたその学校に3日間滞在し、生徒たちと胸を突き合わせて戦争体験を語った。私たちはいくらでも語り合った。語り合わずにはおれなかった。生徒からぴんぴんと、生きた反応が返ってくるんだ。あんなに手応えのある語り合いは初めてだった。そしてたくさんの生徒が感想文を書いて送ってくれた。私は涙がこみ上げるのを押さえることができなかった。長い間、壁あつき部屋にいた私の人生の、それは一縷の救いであった。

その生徒たちの中にいた一人の青年が、今SEALDsという団体のリーダーとして、何万人もの人々を率いて平和を求めるデモをしている。この間、彼がうちに来て「あのとき、僕は飯田先生の目の前に座って話を聞きました」と言うんだ。彼が高校生のときに記した感想文には「次に先生に会ったとき、先生から投げられたボールを返せるように生きていきたい」と書かれていた。私が投げたのは、ほんの小さなボールでしかない。だが、見ず知らずの学生に投げたそのボールが今、予想もしない大きなうねりとなっている。

こんなに素晴らしいことがあるか。

一体何が人間にとって最も望ましい生き方なのか、92歳になった今もよくわからない。人にはさまざまな生き方がある。さまざまな生き方が望ましいんだ。70億の人間の中には平気で人を殺す連中もいれば、そうでない者もいる。だがしかし、みんな必死になって生きている。それぞれ信じる道を歩んでいる。必死になって、己を正しいと信じた道を歩むのは、正しい。

だから、私はかつて自分が信じた「正しさ」の暗部と向き合い、あなた方に伝えたいと思う。

嫌なことには目を向けたくない習性が、人にはある。しかし、この習性は個人には許されても、国家や民族には許されない。70年前のことをすっかり忘れる集団健忘症は、また別の形で、より大きな過ちを繰り返させるものだと、私は危惧する。

日本がこれからどうなっていくのか、それは私にはわからない。現に日本国の総理大臣は、私の思いとは全く違う道を歩み、国民を引っ張ろうとしている。しかし、国民はそれを許さないだろう。

世界を見渡せば失望、あるいは絶望する要素はいくらでも見つけることができる。しかし、逆もまた真なり。 人間の未来を考えたとき、私は若い人たちに希望を託さざるを得ない。

だから、あなたたち一人一人に伝えたい。 心の中に壁厚き部屋を持ち、ものごとを深く考え、真理を追究しなさい。 そのうえで、それぞれが大いに遊べ。大いに人生をエンジョイしろ。

またとない人生の、生きる喜びを享受しなさい。これが、あの戦争を生き残った私からの最後の言葉だ。 

 

 


「正義の戦争ない」痛感 宇宙ではみんな団結 (毛利衛さん)

2015-12-31 01:18:17 | 平和 戦争 自衛隊

毎日新聞http://mainichi.jp/より転載

毛利衛さん

「正義の戦争ない」痛感 宇宙ではみんな団結

 
インタビューに答える毛利衛さん=宮間俊樹撮影
 

 毎日新聞社とTBSテレビの共同プロジェクト「千の証言」は、最後の特集で「次代への継承」を考える。戦後世代は証言から何を学ぶべきか。科学者の視点から「地球の未来」を考える宇宙飛行士で日本科学未来館館長の毛利衛さん(67)に聞いた。

 

    ◇

 家族から聞いた戦争の話は断片的です。昔話で、母は父の召集に備え軍刀を用意した、というような。でも父は農耕馬を診る獣医師で召集されなかった。

 <生まれ育った北海道余市町で幼少期、占領軍の米兵を見た>

 家の隣がウイスキーの工場で、米兵たちが四輪駆動車やトラックでやってくる。幼心に「かっこいい」と思いました。兄はチョコレートをもらっていました。

 テレビっ子で、第二次世界大戦のドキュメンタリーをよく見ていました。英国首相チャーチルの大戦の回顧録で、ノルマンディー上陸作戦など連合軍が勝ち進む映像が流れていた。「アンネの日記」も読みました。

 <学生時代に米国人教師と親しくなり、ベトナム戦争を同時代として実感する>

 彼はベトナム戦争の徴兵を逃れて来日し、そこにベトナム帰還兵たちが訪ねてくる。帰還兵の多くは興奮状態で、日本で落ち着きを取り戻し、米国へ帰って行く。戦争は現実なんだと思いました。

 さらに、米国が使う化学兵器についてだんだん明らかになり、昔テレビで見た「正義の戦争をした米英」という考えに疑問が出てきた。オーストラリアで大学院生として暮らした時、中東からの移民と語り合う機会もあり、戦争に正義はない、勝者が歴史を作るのだと痛感しました。

 <最初のスペースシャトル搭乗は湾岸戦争の直後だった>

 NASA(米航空宇宙局)はテロを警戒し、セキュリティーを一層強化していました。宇宙開発はそもそも冷戦時代の米ソを中心とする軍拡競争の延長線上にある。でも冷戦が終わり、ロシアも加わった「国際宇宙ステーション(ISS)」が生まれた。ISSは一つのミスが即、死につながる極限状態であり、国籍や宗教、文化を超えて力を合わせる。互いを思いやり、限られた食料や空気、水を分け合う。地上で難しいことが宇宙で実現しました。

 <宇宙飛行士を経験し、日本の独特の存在感が分かった>

 日本のメーカーの技術力は宇宙開発の最先端で高い信頼を得ています。でも、メーカーはあえてそれを主張せず、一歩引く。70年間平和だったからこそ育まれた高い技術力と豊かな文化です。国のエゴや宗教のエゴ、いろんなエゴがぶつかる世界で、相手を思いやる日本の知恵はますます大切になるでしょう。

 <日本科学未来館で、科学で地球の未来に貢献する可能性を若者たちと考えるイベントや展示に力を注ぐ>

 人は何のために学ぶのか。その目的をまず納得することです。社会生活をより豊かに送るため、人類全体が生き延びるために学ぶのだと私は考えます。広島や長崎、欧州の博物館を訪ね、科学技術による殺りくを知りました。科学は人を幸せにもするし、傷つけもする。メディアや文学など、どんなものにも両面がある。絶対の正義はなく、自分の価値観が絶対でもない。そういう認識を深めるために、歴史を知り、事実を知ることが大切だと思うのです。【聞き手・山田奈緒】

 もうり・まもる 1948年生まれ。理学博士。85年、日本人初の宇宙飛行士に選抜される。92年と2000年、NASAスペースシャトル「エンデバー号」に搭乗。03年、潜水艇「しんかい6500」搭乗。03年と07年に南極訪問。宇宙、海洋、極地から地球環境を伝える。